(浅井茂利著作集)なぜ賃金が上がらないのか、という疑問に対して
株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1618(2017年9月25日)掲載
金属労協政策企画局長 浅井茂利
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『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』(玄田有史ほか、慶應義塾大学出版会、2017)が、注目されています。第1次石油危機以降で最高という人手不足、企業業績は全体として好調、企業体力も強化という状況なのに、なぜ賃金の上昇が期待されるほどになっていないのか、疑問に思う人は多いと思います。賃金の下方硬直性が上方硬直性(上がりにくさ)を招いている、という指摘もありますが、まずは、事実関係をチェックするところから、考えてみたいと思います。
賃金は上昇していないのか
第一に、賃金が本当に上昇していないのかという点ですが、厚生労働省の毎月勤労統計(調査産業計・就業形態計)を見ると、現金給与総額の増加率は、2014年度0.5%、2015年度0.2%、2016年度0.4%となっており、うち正社員のベースアップに近い一般労働者の所定内給与は、2014年度0.2%、2015年度0.6%、2016年度0.4%ですから、春闘の結果と違和感のない程度には、賃金は上昇しています。
ただし、JC共闘でも、賃上げ獲得組合は6割程度に止まっており、賃上げが全体に及んでいないという問題点があります。マクロベースの労働分配率(雇用者1人あたり名目雇用者報酬 ÷ 就業者1人あたり名目GDP)が、依然として低下を続けているということも懸念材料です。
賃金上昇率が低いのは、先進国共通か
賃金上昇率が低いのは、先進国共通に見られる現象だと言われています。しかしながら、2016年の賃金上昇率を内閣府『海外経済データ』に掲載されているデータで見てみると、アメリカ2.9%、イギリス2.4%、ドイツ2.1%、フランス1.3%となっており、日本の0.5%(毎勤統計・調査産業計・就業形態計・現金給与総額)と比べると、大きな上昇率となっています。実質賃金上昇率でも、日本の0.7%に対し、イギリス1.7%、ドイツ1.6%、アメリカ1.6%、フランス1.1%となっています。低い賃金上昇率は先進国共通だから仕方がない、とは言えないと思います。(図表1)
下方硬直性が上方硬直性の要因か
賃金の下方硬直性が上方硬直性を招いているという指摘があります。不況になっても賃下げは容易ではないので、好況時も賃上げを抑制している、という見方です。その帰結は、「不況の時に簡単に賃下げできるようにすればよい」ということになります。しかしながら、
①日本では所定外賃金や一時金の比率がきわめて高いので、現金給与総額で見れば、賃金の下方硬直性は認めにくい。不況は好況よりも短いので、人件費調整が必要な場合も、所定外賃金や一時金で対応できる。生産性は、長期的には恒常的に向上していくので、恒常的な賃金の引き上げで勤労者に報いる必要がある。
②本来、賃金の下方硬直性により、不況時には、個人消費が景気の底支えの役割を果たすはずだが、日本では①によりその効果が乏しい。これ以上の賃金の柔軟化は、景気変動の激化を招きかねない。
③賃下げが勤労者のモチベーションの低下、労働生産性の低下を招くことは、賃下げ容認論者も認めるところである。賃下げの一般化は、産業の競争力に決定的な打撃を与えかねない。
ということが言えると思います。
リーマンショックと人件費調整
日本の賃金が、現金給与総額で見ればきわめて柔軟であることは、異論のないところだろうと思います。リーマンショックの際の人件費の変化を、主要先進国で比較してみると、1人あたりの人件費が低下したのは日本だけという状況になっています。欧米では、賃金の下方硬直性が確認できますが、日本はそうではありません。(図表2)
かつて、不況時に日本は賃金の柔軟性によって雇用を守り、欧米は雇用削減で対応する、ということが言われました。
しかしながら2009年には、雇用者数は、日本を含め、ドイツ以外のすべての国で減少しています。
2009年には、非正規労働者が前年に比べ38万人減少しましたが、2010年になると、ほぼ2008年の水準に回復し、逆に正社員が2008年よりも36万人減少しました。いったんは非正規労働者の削減で対応したものの、その後、正社員を削減し、非正規労働者に置き換えた、ということになります。
個別企業では、雇用調整助成金や産業雇用安定センターなどを活用しつつ、雇用確保のために懸命な努力が行われましたが、マクロ的には、雇用の削減と賃金の削減の両方で、リーマンショックに対応したということになります。
賃金の柔軟性が消費マインドを低下させる
同じ図表で、雇用者報酬(日本全体の総額人件費)を見ると、
①2009年には、2008年に比べ、日本、アメリカ、カナダ、イタリアで減少しているが、日本の減少幅が一番大きい。
②2010年に2008年の水準を下回っているのは日本とアメリカだけであり、アメリカが回復傾向となっているのに対し、日本では回復が見られない。
と言えます。こうした状況は、当然のことながら、景気の回復を遅らせることになります。リーマンショックは欧米が発生源でしたが、経済への打撃は日本が一番大きかった理由として、金融緩和の度合いが小さかったことだけでなく、雇用と賃金の削減により、雇用者報酬が大きく減少し、個人消費による経済の底支え機能が発揮されなかったことがあると思います。この上、所定内賃金も柔軟化されたら、景気の落ち込みはさらに激しくなる、と考えるべきです。
また、非常時だけでなく、平常時についても、勤労者の消費マインドが低下するものと思われます。消費性向(所得に占める消費の割合)を決定するのは、
①恒常的な所得
②生涯所得の見通し
です。わが国では、所定外賃金や一時金の比率が高いので、消費性向は低くなりがちですが、所定内賃金まで柔軟化され、恒常所得ではないということになりますので、消費性向の一層の低下が避けられません。生涯所得の見通しも不安定となりますので、その点からも消費性向は低下します。賃下げをしても、景気がよくなれば賃上げもあるのだからいいだろう、という理屈は通用しないのです。
賃下げと勤労者のモチベーション
賃下げ容認論の根拠として挙げられているのは、不況時に賃下げを行った企業のほうが、景気回復時に高い賃上げを行っている、というものです。しかしながら、賃下げを行った企業は、一刻も早く元に戻そうとするでしょうがら、賃上げが高くなるのは当然です。賃下げ分を回復し、さらに、世間相場を上回る賃上げが行われているのなら、賃下げ容認論の根拠になりますが、そうしたデータは、筆者はまだ見ておりません。
賃下げを行った企業が、その回復を図ろうとするのは、それだけ、賃下げが従業員のモチベーション、労働生産性に深刻な打撃を与えているからだと思います。賃下げを行った企業の賃上げが高いというのは、むしろ賃下げすべきではないことの根拠になると思います。
賃上げによって市場経済を効率的に機能させる
所定内賃金は一度上げたら下げられないので、賃上げには慎重にならざるをえない、という経営側の主張があります。しかしながら、日本の人件費がきわめて柔軟であることに加え、わが国経済が、ようやく安定的な成長軌道を進みつつあり、安定的な成長を持続させていくために、勤労者への配分の拡大が求められていることからすれば、企業は「失われた20年」の問に形成された賃金抑制姿勢から脱却し、成長成果を恒常的な所得である所定内賃金として、勤労者に配分していくことが必要です。
市場経済原理が機能していれば、人手不足によって賃金は上昇するはずです。賃金上昇が十分ではないのは、
①グローバル経済の下で、輸出産業は人件費の低い新興国、途上国と競争しており、賃金を引き上げることはできない、という意識がまだ強く残っている。
②成果主義賃金の場合、賃上げを行っても、賃金表の書き換えが行われない場合があり、一定の賃金水準に達した中高年層は、その水準で留め置かれてしまう。
ということがあると思います。
現実には、単位労働コスト(付加価値あたりの人件費)を比較すると、日本の人件費は、すでにタイ、中国、韓国よりも割安であり、これが日本の競争力に悪影響を及ぼしている可能性があります。
グローバル競争下で賃上げができない、ではなくて、グローバル競争を勝ち抜くための賃上げ、という観点が重要です。
成果主義賃金は、一般的には、個人の生み出した成果に見合う賃金を支給する制度、と受け止められていますが、現実には、多くの従業員の賃金を一定水準で留め置く制度となっている場合が少なくありません。生涯で最も生計費のかさむ時期に、賃金が留め置かれる制度であれば、出産を控えたり、若いころから消費を抑制しようとするのは明らかです。
労働市場において、勤労者への配分、とりわけ恒常所得としての配分が十分でなく、そのままでは商品市場で需要不足になってしまうため、金融市場が大幅な金融緩和を強いられている、というのが現状だろうと思います。企業が人件費を負担するにしても、消費拡大という点では、一時金より賃上げのほうが効率的です。継続的な賃上げによって、マクロの付加価値生産性向上の適正な成果配分を実現していくことが、市場経済を効率的に機能させていくために不可欠です。