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(浅井茂利著作集)特定最低賃金の役割を再確認する(下)

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1606(2016年9月25日)掲載
金属労協政策企画局長 浅井茂利

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 前号の本欄では、地域別最低賃金(地賃)と並ぶ法定の最低賃金であり、産業ごと(または職種ごと)・地域ごとに決められ、年齢、業務などを絞り込んだ基幹的労働者を対象としている「特定最低賃金(特定最賃)」に関して、その意義・役割を整理してみました。
*市場経済が健全に機能するかどうかは、市場において適正な価格形成が行われるかどうかにかかっている。
*適正な価格形成にとって何よりも重要なのは、市場参加者、すなわち売り手と買い手、売り手同士、買い手同士の対等性の確保である。
*労働市場では、労働力の売り手である勤労者は、買い手である企業に対して弱い立場にあり、売り手と買い手の対等性を確保するための仕組みが必要である。
*労働組合が組織されていれば労使対等が確保され、対等の立場に立った労使交渉により、わが国の経済力、産業の競争力に相応しい賃金・労働諸条件を決定することができるはずだが、労働組合未組織の企業では、勤労者の立場を補強する仕組みがないと、売り手と買い手の対等性が確保されず、従って、労使対等の交渉によって決定される賃金水準よりも、低い賃金となってしまう。
*労働市場において、賃金がわが国の経済力、産業の競争力に相応しい水準よりも低いものになると、その影響は財・サービス市場に波及し、財・サービス市場では、供給過剰・需要不足の状態が生じる。
*こうした事態を回避するためには、労働組合に組織された企業における労使交渉の結果を、未組織企業に波及させることによって、労働市場全体で、労使対等の交渉によって決定された賃金水準を確保することが必要となる。
*そのためには、産別労使交渉によって締結された労働協約の拡張適用が本来の姿ではあるものの、企業別組合が中心のわが国では困難であることから、その機能を一部代替するものとして、特定最賃がある。
ということになります。

地賃引き上げ額を踏まえた特定最賃の決定が必要

 前号でご紹介したように、独立行政法人経済産業研究所の分析によれば労働組合の組織された企業の生産性の高さと賃金の高さは、未組織企業との比較の上で見合っているということですが、このことは、労働組合のある企業における賃金水準が適正である、ということを意味しているわけではありません。わが国の労働分配率の動向、人件費の国際比較、個人消費の状況、そしてマクロ経済的にデフレから脱却できていないことなどからすればわが国の賃金水準はもっと高くてしかるべき、と言えるのではないでしょうか。政府の「経済財政運営と改革の基本方針2016」でも、「近年の労働分配率は低下傾向にあり、こうした流れに歯止めをかける必要がある」と指摘しています。
 1990年代以降の旧共産圏諸国の市場経済化と発展途上国・新興国の台頭によるグローバル競争の激化などが、わが国の賃金の下押し圧力として作用し、「失われた20年」の間、総額人件費の抑制・変動費化が図られてきました。これが長期にわたるデフレと低成長の要因のひとつとなり、それがまた賃金を下押しするという悪循環に陥っていたわけです。
 人件費コストの国際比較をしてみても、製造業では、わが国は主要先進国中で最低水準となっています。日本が競争しているのは新興国・発展途上国であって先進国ではない、との指摘もあります。しかしながら、新興国・発展途上国と競争しているのは日本だけではありません。
 北欧の国々も、ドイツ、アメリカ、オーストラリアも、新興国・発展途上国と熾烈な国際競争を繰り広げています。ヨーロッパにはチェコやポーランドといった賃金水準の低い工業国があり、アメリカにはメキシコがあります。アフリカの台頭も著しく、先進国・新興国・発展途上国の競争は世界共通です。高い人件費の国には、高い人件費なりの企業経営があり、それによって強い国際競争力を確保しているはずだと言えます。
 いまや金属産業の新しい成長分野において研究開発、技術開発、製品開発が急速に進展し、またいわゆる第4次産業革命が急激に展開される状況となっています。こうした中では、「人件費の低さ」は、競争力確保のために、決してプラス要因とは言えません。売上高の20~30%を人件費に投資している欧米系エクセレントカンパニーに対抗し、日本企業が10%台の人件費で競争力を確保できるのかどうか、きわめて疑問です。日本企業は、積極的な「人への投資」と従業員に対する付加価値の適正な配分を通じて、わが国の経済力、産業の競争力に見合った賃金水準を確保し、生産部門はもとより、研究開発部門、間接部門などすべての職場において、「現場力」を一層強化していかなければ産業・企業の競争力の弱体化を招くことは必至です。
 わが国ではいま、賃金・可処分所得の引き上げによるデフレ脱却、「経済の好循環」、そして「人への投資」が最重要課題となっていますが、これらは単に現時点での課題ということに止まらず、わが国が勤労者生活の向上、産業の健全な発展、経済の持続的な成長を果たしていくために、継続的に取り組むべき課題であり、これを欠くことになれば、ふたたび「失われた20年」を繰り返すことになりかねません。
 政府は、「ニッポン一億総活躍プラン」(2016年6月閣議決定)において、「成長と分配の好循環のメカニズム」として「最低賃金の年率3%上昇による雇用者全体の賃金底上げ」を打ち出しています。
 地賃を地域の「生活保護基準との整合性」を図るために引き上げていた段階では、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するための引き上げであり、特定最賃も地賃の引き上げに見合った引き上げを、ということには必ずしもならなかったかもしれません。しかしながら、2013年の「日本再興戦略」以降の地賃の引き上げは、「全ての所得層での賃金上昇と企業収益向上の好循環を実現」するためのものですから、地賃の引き上げは、いわば賃金全体の引き上げのシンボルであり、「全ての所得層での賃金上昇」や「雇用者全体の賃金底上げ」、そして「成長と分配の好循環」のためには、地質の引き上げを踏まえつつ、特定最賃の決定を行っていくことが必要です。地賃が引き上げられているので、特定最賃はいらない、という理屈は成り立たないと思います。

根拠のない経営者団体の特定最賃廃止論

 経団連は、1994年に旧日経連が政府に対して「政府規制の撤廃・緩和要望」を提出し、その第一に「地域別最低賃金が各都道府県ごとに設置されている現在、産業別最低賃金を別途、二重に設定する必要はない。屋上屋を架して産業別最低賃金を設定することは、産業活動に支障を来すばかりでなく、雇用にも悪影響を及ぼす」ことを主張して以来、産業別最低賃金、その後の特定最低賃金について、基本的に廃止の姿勢をとり続けています。
 これまでの経団連の主張を整理してみると、おおむね、
①地賃が設置されているのに特定最賃があるのは屋上屋である。
②地賃の近年の大幅な引き上げによって、特定最賃はその存在意義を完全に失っている。
という2点に集約されます。
 まず①については、なぜ屋上屋がいけないのか、まったく説明されていません。奥州平泉の中尊寺・金色堂にはまさに屋上屋が架されていますが、必要だから架されているのです。地賃も特定最賃も、法定最低賃金という点は同じですが、役割が違うのですから、両方とも必要だということです。
 ②については、地賃に対して金額的に埋没してしまった特定最賃があることは事実ですが、埋没した原因は、もともと特定最賃の廃止を主張していた経営側が、地賃の大幅な引き上げを奇禍として、地賃の引き上げ額以上の特定最賃の引き上げを拒んできた結果にほかなりません。
 地賃の大幅な引き上げによって、特定最賃の存在意義が失われたというのであれば、特定最賃の大幅引き上げを行えばよいだけであり、それは特定最賃の役割、そして勤労者生活の向上、産業の健全な発展、経済の持続的な成長という観点からして、必要不可欠なことと言えます。
 経団連は、「2003年度日本経団連規制改革要望」において、「経済のグローバル化による産業空洞化が進むなかで、産業別最低賃金が数多く設定されている『ものづくり産業』は極めて厳しい状況にあり、もはや産業別最低賃金制度を維持する時代ではない」と主張しています。しかしながら、新しい成長分野において研究開発、技術開発、製品開発が急速に進展し、第4次産業革命が急激に展開される状況の下では、生産部門はもとより、研究開発部門、間接部門などすべての職場において、「現場力」を一層強化していくことが不可欠であり、こうした主張がいかに的外れであるかはいまや明白です。
 一方、2016年6月、経団連は「経済界は、非正規従業員の正社員化、時給の引き上げ、賞与・一時金の支給・拡充に取組む。また、わが国の雇用慣行に十分留意しつつ、不合理な待遇差の是正に向けて労働政策審議会での議論に対応していく」とする「成長と分配の好循環に向けた政府重要方針に関する榊原会長コメント」を発表しています。経団連はこうした状況変化も踏まえ、特定最賃に関しても、その姿勢を抜本的に方向転換すべきです。
 また、各地方最低賃金審議会においては、経団連事務局の意向に関わらず、地域における当該産業労使の意見を反映させた的確な判断を行っていくことが不可欠です。

金属産業の産業特性と特定最低賃金

 厚生労働省「毎月勤労統計」で2015年の所定内労働時間あたり賃金(事業所規模5人以上)を比較すると、金属産業(鉄鋼業、非鉄金属製造業、金属製品製造業、はん用機械器具、生産用機械器具、業務用機械器具、電子・デバイス、電気機械器具、情報通信機械器具、輸送用機械器具)では、調査産業計をおおむね2割から3割程遠、上回っている産業が多くなっています。
大企業で働く人や正社員が多い、平均年齢が高い、男性の比率が高い、というようなことであれば、金属産業の賃金水準は高くて当たり前、と思われるかもしれませんが、重要なのは、
*金属産業が調査産業計を2~3割上回る賃金水準で事業を展開しており、熾烈なグローバル競争の中で、利益を確保している。
*従って、独立行政法人経済産業研究所の分析から推測すれば、金属産業で働く勤労者は、調査産業計を2~3割上回るパフォーマンスを発揮していると考えるのが自然である。
ということです。金属産業の利益は円高是正によるものではないか、との見方もあると思いますが、少なくとも購買力平価(日米の物価水準の違いから算出した理論的な為替レート)である1ドル=105円程度の下で利益が確保されていれば、それは産業の実力だと思います。
 特定最賃のうち、ほぼ7割は金属産業の特定最賃です。国内金属産業の競争力の源泉は、「高生産性」にありますが、「高賃金・高生産性」をめざすべき産業にとって、地質は賃金の最低保障としては低すぎると言えるでしょう。「高生産性」は、職場全体の高いモチベーションなしに維持できませんが、特定最賃が失われてしまえば、金属産業でも賃金の下押し圧力が高まり、産業全体が「低賃金・低生産性」に向かうことになりかねません。わが国金属産業の国際競争力確保と持続的な発展に向け、特定最賃の維持・強化は絶対に必要です。

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