座談会「これからの短歌、これまでの短歌」雑感①

短歌人2019年4月号は80周年記念号ということで、さまざまな特集があるのですが、目玉企画と言うべき座談会「これからの短歌、これまでの短歌」がとてもおもしろかったので感想を書きます。
ネタバレは意識しないので、未読の方で本誌を先に読みたい方はスルーしてください。










---ここから---

‪最近の歌でハイライトされた部分を読むように誘導される歌が多いのは、穂村さんの影響がけっこうあると思う。ここがくびれとか、この歌のこの部分を改悪すると歌にならないとか、意識的にせよ無意識にせよ眼目があることが必要条件みたいに感じることがある。

もちろん投稿歌壇というものはずっと前からあるものだし、わたしも何度か投稿したことがあるので、そこをどうこう言うつもりはありません。一首を評価する場で技術を語らなければ単なる感想であって批評ではないとも思うし。

‪歌を効果的に読ませるために技術が必要なのはわかるんだけど、作者の技術を技の出来映えだけで評価するのはなんとなく苦手。もちろん一首で選歌される媒体に採られるためには、選者の評価基準に必要な技術が求められるのはわかるんだけど。

‪これはその場で詠草を選歌することが求められる歌会でもそのように感じることがあって、まったく異なる作者の作品をうまく比較検討するのが苦手です。なので選歌がない(もしくは評のあとに選歌する)歌会に参加することが多いです。

‪自分のなかに評価基準がないと、歌会の評を実作に反映できないなとも思うのですが、上手くなるために歌会に行くというよりは、読み方を知りたいという感じです。ここは相田さんの意見に深く頷きました。

‪属性問題はいろいろな選考会とかを読んでフェアじゃないなあって思うときはあるけれど、自分の歌がどう読まれるかは読者の問題なので、学生の歌ですね、とか、年配の方の歌ですね、とか、母親の視点ですよね、とか言われたらそうなのかあ、と思うくらいです。

当然、自分と似たような年代、性別、職業感、住環境、家族構成の方などの歌は読みやすいので、選考委員に求めたいのは多様性なのかなとも思います。とはいえ人数が多いと議論はむずかしいので、できるだけ属性が重ならない人で、なおかつ全員の意見を相互に考慮できるくらいの人数がよいのでは、という意見です。

自分の歌の想定読者は実はあまり考えてなくて、未来の自分にあてた日記みたいな感覚です。もちろん読んでもらえるとうれしいし、自信のある歌が選ばれるとうれしいし、評をいただけるとうれしいのですが、選んでください、みたいな感覚はあまりなくなっています。

パーソナルな家族とか友人で短歌を知らない人が読んでくれればうれしいけど、短歌のこともわたしのこともまったく知らない人に読まれることはほとんど意識していないです。ここは自分の自信のなさでもあるので、2段階くらいギアがあがったらもう一度考えてみたいです。

長くなりすぎたので、続きます。

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