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マスコミによる断罪を考える

「時には、新聞には沈黙を守る義務がある」

 そう話したのは確かフランスの『ル・モンド』紙の創設者として知られる故ユベール・ブーブメリー氏でした。この言葉は誘拐事件などでのジャーナリズムの不報義務についてばかりではなく、何気ない小さな事件にも当てはまるというのが彼の主張でした。

 ひとりのジャーナリストとして、いまだに忘れられない言葉です。

 ある日、フランスの片田舎で4人の子供を持つ女性がスーパーマーケットで万引きをして捕まりました。微罪のため法的には軽い処分で済んだのですが、地元紙が報道したため、母親ばかりか子供たちまで世間の嘲笑を買う羽目になり、一家はとうとう引っ越しを余儀なくされてしまいました。

 罪を犯したのは事実ですが、裁判所でなくジャーナリズムが不当な制裁を加えてしまったいわゆるプレス・トライアル(マスコミによる断罪)の典型的な例としてブーブメリー氏が紹介した実際の出来事です。それ以来、ル・モンドは微罪の報道を止めたそうです。

 しかし、そのような傾向は単純な勧善懲悪を好むテレビメディアによってさらに加速されてきました。とりわけ日本人ならびに日本のテレビは、民主主義のために本気で闘ったことがないせいか、人権やプライバシーに対する感覚が鈍感です。

◎ なくならないメディアスクラム

 これが衝撃的な事件となると、容疑者の人権という言葉すらどこかに吹っ飛んでしまい、メディアスクラム(集団的過熱報道)が起きることがしばしばです。例えば、80年代末期の「宮崎事件」と呼ばれた連続幼女誘拐殺人事件では、犯人であるという確証があやふやなうちから容疑者の名前、顔写真が大きく報道されました。彼が犯人でなかった場合に、いったい誰がどのようにしてして彼と、その報道で少なからず被害を受けた周囲の人々の名誉を取り戻せるのでしょうか。

 94年に長野県松本市内でカルト集団オウム真理教が化学兵器サリンを散布して7人を殺害し約600人を負傷させた「松本サリン事件」のときも、警察情報だけを鵜呑みにしたマスコミが第一通報者だったKさんを犯人扱いする過熱報道が起きました。

◎ なんのための報道の自由

 報道の自由とは、人々の人権や尊厳を守るためにあるはずです。「報道野路優とは特権ではなく、偉大な社会の構造上の必要である」と私が尊敬する偉大なジャーナリスト、故ウォルター・リップマンは喝破しました。ところが現実には「マスコミは敵だ」という法律家、人権活動家、市井の人々の怒りの声が胸に突き刺さることが多くなる一方です。

◎ 人を動かす映像のちから

 もちろん、テレビが真実を明らかにし、歴史を動かした事例も少なくありません。かつて世界の衝撃を与えた東欧革命の隠れた主役はテレビでした。いかに当局が情報管理しようとしても、西側の自由さがテレビ映像を通じて東ドイツの国民の心を魅了したのです。

 テレビ報道が人々をつき動かした現場を私も取材したことがあります。95年にロシアの首都モスクワを訪れたときのことでした。市内の古びたビルの一角にある「反戦母の会」事務所で、何枚もの洋服を着込んで旅支度をしている十数人の中年女性に出くわしました。

 どこへ行くのかと訊ねると、彼女たちはなんと自ら銃弾飛び交う内戦地「チェチェンへ乗り込んで、自分たちの息子を連れ戻しにいくのだ」と答えたのです。まさに命がけの旅です。

 驚いたことに、この事務所にはすでにロシア兵である息子をチェチェンから実力行使で連れ戻した母親たちもいました。

 「危険は覚悟しています。でも私は息子が意味のない戦争で人を殺すことも命を落とすことも許せないのです」

 出発前の母親のひとりが真剣な眼差しで私にそう語ってくれました。同様の叫びにも似た声が周囲の母親からも聞かれました。なにが彼らをそこまでかりたてたのでしょうか。子供を守ろうとする母親の強い愛情はもちろん理解できました。しかしそれ以上にテレビ報道が大きな役割を果たしたのです。

 チェチェン紛争はロシア人にとって始めてテレビ中継された戦争でした。その心理的インパクトは計り知れないものでした。戦地の生々しい様子が連日画面に映し出されたのですから。とくに独立系テレビ局は独自取材で焼け焦げた兵士など戦闘の悲惨な映像とともに、軍事介入に批判的な報道を続けていました。

 ちょうどアメリカにおける60年代のベトナム戦争報道が国民の反戦意識を高めたのと同じことがロシアで起きていたのです。

 新型コロナの大流行とスキャンダルが次々と噴出する大混乱の中で開幕した東京オリンピック。さて、ニュースメディアはいったい何をどのように伝えていくのでしょうか。

                         (写真はja.wikipedia.org)

 

 

 

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