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プーチンの世界(追記)独裁者の黒い影

 プーチン大統領の大統領選挙圧勝宣言からわずか5日後の3月22日、首都モスクワ郊外で凄惨なテロ事件が発生した。
 
 推定6000人が集まったロックコンサート会場「クロックス・シティ・ホール」に迷彩服姿で武装した男たちが銃を乱射し、建物に火を放って炎上させたのだ。死者は139人(27日現在)に上っている。
 
 連邦保安局(FSB)によると、事件の翌日に容疑者11人がウクライナ国境から100キロほどの地点で拘束され,実行犯とされる4人はテロ行為の罪ですでに起訴された。そのうちふたりはすでに罪を認めているという。
 
 事件を巡ってはイスラム武装勢力「イスラム国」が犯行声明を出し、襲撃時の生々しい動画も公開している。
 
 ここまでくれば一件落着かというとそうではないようだ。政治的な情報操作やソーシャルネットワークでゴミのような情報や陰謀説が渦巻いている中、事実がはっきり見えなくなっているからだ。事件がウクライナ戦争中のロシアの首都圏で起きたからなおさらだ。
 
 モスクワでのテロの可能性を事前に察知した米国務省はモスクワ在住の米国民に大きな集会に近寄らないように警告し、ロシア政府にも情報を提供したという。だがその詳細は明らかにされていない。
 
 緊急テロ対策会議でプーチン大統領はイスラム過激派の犯行だと語った一方で、「誰が命令したかに関心がある」と発言することを忘れてはいなかった。国民向け演説では「実行犯4人とウクライナ側の間に、国境を越えるための窓口が用意されていた」と、証拠を示さないまま、ウクライナの関与を強く示唆した。
 
 さらに、ボルトニコフFSB長官に至ってはウクライナだけでなくアメリカやイギリスも関与した疑いがあると記者団の前で語っている。しかしそれは無理筋というものだろう。

 今月7日、在モスクワ米大使館が公式ウェブサイトで「過激派がモスクワで大人数が集まる場所を狙った攻撃を計画しているとの情報がある」いう警告を発しているし、米政府はロシア当局と情報を共有していたと明言しているからだ。米CNNによれば、バイデン政権に不信感を抱くプーチンはアメリカの警告を「挑発行為」と軽視していたという。
 
 当然のことながら事件関与を示唆されたウクライナも黙ってはいない。23日夜のビデオ演説でゼレンスキー大統領は「プーチンらが他へ責任転嫁しようとしているのは明白だ。彼らのやり方はいつも同じだ。建物の破壊や銃撃、爆発など、すべて過去に見た光景だ。そして彼らはいつも誰かに責任を転嫁する」と発言して激しくロシアを非難した。
 
 ただ、ゼレンスキー政権の指揮命令系統の乱れをみるとそれほど偉そうなことは言えないのではないか。昨年11月にウクライナ国境に近いポーランド東部にミサイルが着弾し2人が死亡する事件が起きた。ロシアの軍事侵攻後初めてNATO加盟国内で犠牲者が出たことで緊張が高まった。ウクライナは即座にロシアを非難したが、じつはウクライナ側が発射した旧ソ連製のミサイルだったことが判明している。
 
 2022年9月にバルト海でロシアからドイツへ天然ガスを送る海底パイプライン「ノルドストリーム」が爆破される事件が起きた。ウクライナは直ちに「ロシアのテロ攻撃だ」と責めたてた。しかし昨年11月になって米ワシントン・ポスト紙が、米当局の機密文書を基に、ウクライナ軍特殊部隊大佐を中心としたチームによる破壊工作だったことを暴露している。ゼレンスキー大統領には計画が知らされていなかったようだ。
 
 元KGB工作員だったプーチンにとって偽装工作や情報操作は常套手段であることは皆さんもうご存じだろう。幾多の前例がある。例えば、1999年、首都モスクワや南部の都市で8月末以降に大規模アパートなどが爆破される事件が立て続けに5件の発生したことがあった。300人以上が死亡したことから国民はテロの恐怖に震えあがった。
 
 当時、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後継であるFSBの長官から首相に就任したばかりのプーチンは、一連の爆破はチェチェン独立派武装勢力によるテロだと断定。ただちにチェチェン空爆を敢行した。強い指導者をアピールしたプーチンは国民の熱狂的な支持を得て翌年大統領選で初当選している。

 ところが後日、爆破事件に使われた爆薬は軍・治安機関以外に入手できないものと発覚し、起爆装置を仕掛けたとして拘束されたのはFSB職員だったことも明るみになった。事件はチェチェン再侵攻とプーチンを権力の座に押し上げるための自作自演の「偽旗作戦」だったのだ。
 
 その後、事件の真相究明にあたったジャーナリストや政治家らは謎の死を遂げている。2006年に亡命先の英国で放射性物質ポロニウムによって毒殺された元FSB職員で反体制派文筆家のアレクサンドル・リトビネンコもそのひとりだった。

 英国政府による第三者調査委員会は「殺害の計画は、おそらくウラジーミル・プーチン大統領によって承認された」と調査報告書で明記したが、ロシア政府はもちろん否定した。
 
 2002年10月23日夜に起きたドブロフカ劇場占拠事件も疑惑が残ったままだ。目を覆いたくなるような惨劇だった。ロシア初のミュージカルの公演中に40人を超える重武装のテロリストたちが乱入して観客ら922人を人質にとって立て籠もり、ロシア連邦軍のチェチェン撤退を要求した。

 事件発生から数日後、ついにFSBの特殊部隊が劇場の換気口や暖房用のパイプに開けた穴から化学兵器である特殊ガスを注入し、劇場内に突入した。公式発表によれば、テロリストたちは全員射殺され、人質129人もガスを吸って死亡した。実際の死者数は公式発表より多かったという説もある。当局はガスの成分を救助隊に知らせなかったため適切な処置ができなかったという。
 
 事件解決後、プーチンは事件現場に足を運ぶこともなく「テロに対する勝利」を宣言した。
 
 ロイター通信記者キャサリン・ベルトンは2021年の著書『Putin’s People : How the KGB  Took Back Russia and Then Took On the West』(プーチンの仲間たち)の中で、内部情報を基に、劇場占拠テロはプーチン政権内の自作自演だと書いている。
 
  ベルトンによれば、当時のFBS長官のニコライ・パトルシェフが「プーチンの大統領としての権威を定着させ、揺らぎかけたチェチェン戦争への評価を立て直すために」に計画した。計画では偽装工作のはずだったがチェチェン人が占拠後すぐに観客1人を射殺してしまったことで大惨事に発展したという。
 
  同じ事件について調べていたロシア人ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤの証言はさらに衝撃的だった。武装勢力の中にハンパシ・テルキバエフというFSB囮捜査官がいて劇場突入直前に極秘で脱出したという。彼女のインタビューに応じたテルキバエフは自分が武装勢力をそそのかして事件を起こしたことを明かしている。
 
 ポリトコフスカヤがインタビューを公開した後、2003年12月15日にテルキバエフはチェチェンの首都グロズヌイで自動車事故に遭い死亡した。事故原因は不明だ。チェチェン戦争の真実を報道することに命を賭けたポリトコフスカヤも2006年10月7日白昼、モスクワ中心部の自宅のエレベータ内で何者かによって射殺された。偶然か意図的なのか、その日はプーチン大統領の誕生日だった。
 
 しかし今回モスクワで起きたテロ事件はプーチンの自作自演とは考えにくい。大統領選挙で大勝した直後にプーチン自身の威信を傷をつけるような事件を起こすことのメリットがないからだ。
 
 第2次チェチェン戦争が始まった1999年以降、ロシア政府にとっての最大の懸念は頻発するイスラム過激派による国内テロである。2002年の劇場占拠事件、2003年の野外コンサート爆破事件、2004年の地下鉄爆破事件はいずれも首都モスクワで起きている。北オセチア共和国・ベスランでは学校占拠事件も起きた。チェチェン共和国やその隣接地域では、さらに多くのテロ事件が発生している。その背景にはプーチン政権がロシア国内の北コーカス地方でイスラム過激主義者やチェチェンの反政府分子を容赦なく弾圧してきたことがあるのだ。
 
 予定通りの大統領選圧勝で喜ぶプーチンにとって首都圏での大規模テロ事件は屈辱的な出来事だが、冷徹な謀略家だけにそれ逆手にとってウクライナや米英の関与をさらに強調しウクライナ侵攻を正当化していくだろう。今後は停戦どころかロシアによるウクライナ攻撃が激化する恐れもある。
                       (写真は岐阜新聞web)
 

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