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プーチン大統領の誤算と勝者なきチキンゲーム

 旧ソ連の諜報機関KGBの工作員だったロシアのプーチン大統領は冷徹かつ天才的な地政学的戦略家で、各国首脳と会う前に必ず相手のことを徹底的に調査して周到な準備をする。

 例えば、2018年にロシア・ソチの別荘でメルケル独首相と会談した際にはわざわざ大型の愛犬を「出席」させた。少女時代に犬に噛まれた経験があったメルケルが犬を苦手としていることを知っていたからだ。相手の弱みを突いて機先を制したのである。

 2月初めにモスクワで行なわれた仏ロ首脳会談でも面白い場面があった。5メートルはあろうかという長テーブルの端にマクロン大統領を座らせ、プーチン自身は反対側に座ってウクライナ危機について協議したのだ。新型コロナ対策が理由だというが、そんなはずがない。3日後には友好国カザフスタンの大統領と近距離で会談し、北京では中国の習近平主席と肩を並べて談笑していた。プーチン流のいやがらせである。

 ところが、そんな狡猾で99%のロシア人より理性的だといわれるプーチン大統領にしては今回のウクライナ戦略はあまりにも荒っぽい。親露派が多いウクライナ東部で起きている銃撃や砲撃も侵攻するための偽装工作だということがバレバレである。ロシア軍が撤退しているように見える動画を公開したが、ウクライナ国境のロシア軍は昨年の10万人から18万人へ増強していることは西側の偵察衛星や航空機から丸見えだ。

 欧米諸国、とくに米国のバイデン大統領を「口だけ番長」だとなめきっているようにも見える。己の力を過信して戦略家も判断力が鈍ってしまったのだろうか。それとも自分の方が相手よりクレイジーだということを示すことによって自分の立場を優位にしようとしているのか。

 「プーチンはロシア語を喋る人はすべて彼を支持していると思っている。しかしそれは大間違い」と、米国の駐ウクライナ大使だったウィリアム・テーラーは指摘している。

 その通りだろう。「偉大なるロシア復活」の幻想を抱くプーチンはウクライナ国民の心情を理解していない。彼の歴史観や国家観は冷戦時代のままなのだ。ロシア大統領府の公式ウェブサイトに昨年7月掲載された論文で、プーチンはロシア、ウクライナ、ベラルーシは歴史的に共通の文化や言語、宗教をもつ「大ロシア、小ロシア、白ロシア」という不可分の兄弟国だと主張していた。

 しかし、現実には2014年のロシア軍によるクリミア半島併合を目の当たりにしたウクライナの人々の大半はは使用言語に関係なくプーチン大統領を嫌っているのだ。

 1991年のソ連邦崩壊後、ウクライナ、ベラルーシをはじめ14カ国が独立し、2000年代にはかつてロシアの一部だったバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)や、チェコ、ハンガリー、ポーランド、スロバキアなどが次々とEU(欧州連合)に加盟したのは東欧諸国がそう望んだからだ。弱体化したロシアにはそれを食い止める力を持ち合わせていなかった。

 その結果、NATO(北大西洋条約機構)の加盟国は当初の12カ国から30カ国に拡大している。地図をみれば一目瞭然だが、ロシアにとってウクライナはロシアとNATOの重要な緩衝地帯で、同国のNATO加盟はプーチンにとっては地政学的危機なのである。

 しかし、西側寄りのウクライナ政権に対するプーチン流の露骨な脅しは、当初ウクライナ危機対応で足並みが乱れていたNATOやEUの結束を強める結果となった。臆病なウクライナのゼレンスキー大統領さえも欧米からの武器供与で強気の姿勢に転じている。プーチンにとっては手痛い誤算だろう。

 それでも筋金入りの国家主義者は欧州で1945年以来最大となるだろう戦争を始めるのだろうか。そうなれば、約5万の民間人が死亡また負傷し、500万人以上が難民になるだろう(米政府推計)。

 欧米各国はただちにロシアの主要銀行のドル取引停止やハイテク製品の輸出規制など大規模な金融・経済制裁に踏み切るだろう。原油価格がさらに高騰し世界経済が混乱する可能性もある。常識的には、現状でウクライナ侵攻からロシアが得るものは少ない。

 そんな中でのバイデン大統領の発言には違和感を覚えた。18日の演説で「彼(プーチン大統領)はウクライナ侵攻を決断したと確信している。・・・ロシア軍が数日以内にウクライナを攻撃し、首都キエフを標的にしている」などと、まるで外交交渉を諦めたような話しぶりだったからだ。

 これではロシア大統領に再考を促すどころか軍事侵攻に駆り立てているようなものだ。プーチンにしてみれば振り上げた拳を下ろせない状況に追い込まれた形だ。人権や民主主義といった理念先行のバイデン政権の国家安全保障チームが機能不全に陥っている。地政学の重鎮ヘンリー・キッシンジャー博士が言うように、相手の面子や立場もわきまえて相手とともに戦争を回避するのが現実主義外交である。

 東独とソ連というふたつの社会主義国の崩壊を経験したプーチンは、政治的対立に敗れた者は抹殺されることを学んでいる。だから自分の威信と政治生命を守るためには手段を選ばない。

 国内では新興財閥を傘下に納め、メディアを統制し、反対勢力を容赦なく弾圧した。海外ではクリミアを併合してロシア国民の愛国心に火をつけ、2015年にはロシア史上初めて中東シリアへの直接軍事介入に踏み切って崩壊寸前だった親露アサド政権を救っている。

 じつは本音では欧米は現時点でウクライナを集団安全保障の枠組みの中に入れることには慎重だ。ロシアとの決定的な対立関係が生じるからである。いっそのことバイデンがプーチンにNATOの東方拡大もウクライナのNATO加盟は当面ありませんよ、と外交ルートを通して密かに耳打ちしたらどうか。そうすればプーチン大統領も振り上げた拳を下ろしやすくなるだろう。

                (写真は日経・ロイター)

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