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アポロ13号の教訓とは

 月に行ってみたい。

 子供のころ夜空を見上げてそんな思いに駆り立てられたのは、決して私だけではないだろう。月の光には人の心を幻惑するような不思議な力がある。じつは以前、実際に月の周りをぐるりと一周してきた元宇宙飛行士と話す機会があった。

 それもただの宇宙飛行士ではない。月の裏側から奇跡の生還を果たした人物である。会う前はさぞかし厳つい男だろうと想像していたが、私の目の前に現れたのは小太りですこぶる愛想のいい白髪の紳士。

 彼の名前はジェイムズ・A・ラベル・ジュニア。51年前にアポロ13号の船長を務めた男である。アポロ13号といっても若い人にはピンとこないだろうが、1961年に始まったアメリカの月着陸友人飛行計画で、1970年に打ち上げられた宇宙船だ。そして、搭乗員3名を乗せたアポロ13号は地球から遙か33万キロ離れた宇宙で前代未聞の事故に遭遇したのである。

 「もう地球には帰れないかもしれないと思ったときには、正直言って怖かった」 事故当時を回想するラベル氏はそう静かに話し始めた。

2万人の救出作戦

 とにかく、専門家も予想だにしなかった出来事が次々と起きた。前年のアポロ11号による人類初の月面着陸成功に続いて月を目指したアポロ13号だったが、打ち上げ後2つの酸素タンクが両方とも故障し、3つの燃料電池のうち2つがダメになるというとんでもない緊急事態が発生した。

 それだけではない。2つあった電力供給ラインのひとつまでもがダウンしてしまったのだ。つまり、外は真空で零下100度以下の宇宙空間で、水も酸素もエネルギーもあわやなくなってしまうという絶望的な状況にアポロ13号の宇宙飛行士たちは陥ったのである。

 この非常事態に地上の管制センターでは延べ2万人が動員され、87時間に及ぶ不眠不休の救助作戦が展開された。宇宙船とそっくり同じ計器を使って可能な限りのシミュレーションが行なわれ、解決策が探られた。

 ひとつひとつの決断が時間との戦いだった。さながらのSFサスペンス映画のような状況だ。船内の緊迫の極限に達していたという。

 「とにかく地球の大気圏まで戻りたかった。まったく戻れないよりは、隕石のように燃え尽きた方がまだましだ」

 そこまでクルーは思い詰めていたとラベル氏は語った。しかし、地上の宇宙での必死の努力の結果、アポロ13号は目的の月面着陸には失敗したものの、事故発生から4日後に奇跡的に南大平洋に無事着水したのである。

 真の技術力とは

 見方によっては、アポロ11号の成功より、このアポロ13号の事故の方が総合的な技術力とは何かという点で遙かに示唆に富んでいると私は思う。たんなるテクノロジーだけではなく、それを支えるダイナミックな組織力と危機管理能力があってはじめて可能な帰還だったからだ。しかも、それを支えたのは20代、30代の若者だったというから驚きである。

 80年代、日本は経済力や技術力でアメリカを凌駕したというような議論をよく耳にした。だが私は疑っていた。確かに、当時日本は高性能の自動車や電化製品を生産できるようになったし、GNPでも世界のトップ水準に達していた。多くの国民が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉に酔いしれていた。

 しかし、アポロ計画のような巨大プロジェクトを成し遂げる総合技術力も、アポロ13号を帰還させたような危機管理能力も持ち合わせていなかった。その後の阪神大震災に対する対応をみれば一目瞭然だった。

 「真の技術力とは、カメラやテレビの製造技術ではなく、巨大危機に対応できる技術とマネジメント能力のことです」と、私が出会ったときにはコンサルティング会社の重役を務めていたラベル氏は断言していた。

 このところIoT、AI、DX、METAなどの英語の略語が飛び交っているが、東京電力福島第1原発事故や東日本大震災、そして新型コロナパンデミックに翻弄される姿を目の当たりにすると、日本にとってそのような巨大危機対応能力はいまだに夜空に浮かぶ月のように遠い存在のように思える。

 1873年に海軍と宇宙計画が引退したラベル氏はTIME誌のシニア・ライターだったジェフリー・クルーガー氏と共に自らの体験を綴った『"Lost Moon: The Perilous Voyage of Apollo 13"(邦題『アポロ13』』を出版した。1995年にはその本がトム・ハンクス主演で映画化され大ヒットした。蛇足ながら、現在97歳になるラベル氏は主役を自分と体格が似ているケビン・コスナーに演じて欲しかったそうだ。

                                               (写真はgetty.Images)


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