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プーチンの世界 (前編)

 人権弾圧や台湾問題で火花を散らず米中関係やウクライナ戦争に世界の注目が集まる中、西側諸国の批判や経済制裁に晒されてもしたたかに権力を維持している核大国のリーダーがいる。

 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領(71)だ。アメリカ大統領選をあざ笑うように3月の中旬の大統領選挙で圧倒的勝利で5選を果たした。なにしろ彼の政敵は殺害されるか獄中にいるか亡命しているかだから、投票前から彼の当選は既定路線で、公式発表の得票率は87%。

 すでに2020年の憲法改正によって2036年まで現職に留まることが可能になっているプーチンは、同年12月には大統領経験者とその家族を生涯にわたって刑事訴追から免責する法案にも署名している。不測の事態が起きない限り84歳までプーチン王朝を続けるつもりなのか。「わが国に強力な大統領がいないのは悪いことだ」とさえ公言して憚らない。

「ロシアの外交政策はあらゆる方角に国を拡大させることだ」と喝破したアレクセイ皇帝時代の外務大臣ナシチョキンの言葉を彷彿とさせる。冷徹な国家主義者のプーチンが抱く野望は、祖国ソ連を崩壊させた宿敵アメリカを凌駕し多極化した国際秩序をつくり出して世界で核大国ロシアの威信を高めることだ。

 しかし、なぜプーチンはそんなに強気でいられるのだろうか。その背景には独自の価値観と黒い権力構造、そして飽くなき欲望が渦巻いている。KGB工作員から”皇帝“となって世界を震撼させるプーチンのペルソナと行動原理を探ってみよう。

 

1.モスクワ政変

 ドーン!胸が圧迫される風圧と轟音とともに戦車砲から発射された砲弾がロシア最高会議ビルに命中し、砕けた窓ガラスが雪のように舞い落ちて白亜のビルは炎と黒煙に包まれた。

 おびただしい銃声が鳴り響く中、身を屈めながら現地取材をしていた私がロシア政変の苛烈さを実感した瞬間だった。

 1993年10月、首都モスクワで新憲法制定をめぐって改革急先鋒のエリツィン大統領派と保守議会派が首都モスクワで武力衝突したときのことである。政府推計では187人が死亡、437人が負傷とされたが、犠牲者は2000人以上という民間の調査もある。ロシア革命以来、モスクワで起きた最大の政治紛争だった。

 惨劇は民主化と特権廃止を訴えたポピュリストのエリツィン大統領の勝利のうちに終結。巷には抑圧から解放された自由が溢れた。しかし、皮肉なことに新憲法によって大統領の権限は著しく強化され、やがてプーチン独裁政権への道を開くことになる。帝政ロシアから続く権力集中の歴史の繰り返しだ。

 事件当時、プーチンはモスクワから650キロ離れた生まれ故郷のレニングラード(現サンクトペテルブルグ)で副市長を務めていた。それでも10月政変の衝撃は大きかった。反対勢力を打ち負かさなければ国家は崩壊する、政治的対立に破れた者は抹殺されるということを彼は心に刻んだ。

「人権よりも国家イデオロギー」「対話よりも絶対服従」というプーチンの行動原理の原点である。

 だからプーチンは目的達成のためなら武力行使や暗殺にも躊躇がない。なにがあっても負けは絶対に認めない。彼の辞書には撤退や敗北の言葉はない。それが自身の政治的自爆を意味するからだ。

 2.ドレスデンのトラウマ

 じつは、プーチン自身がこれまで敗者の屈辱を味わったことが2度あった。1度目は1989年11月に東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊したときだった。

 彼はソ連の諜報機関KGBの工作員として旧東ドイツの都市ドレスデンに赴任していた。東ドイツにおけるKGBの仕事は主にソ連と対抗する西側諸国の軍事同盟NATOの動きを探ることだった。

 ベルリンの壁崩壊からおよそ1ヶ月後の12月5日夜、民主化を求める群衆がドレスデンにも押し寄せ東独秘密警察シュタージ支部を占拠した。暴徒化した群衆の一部が次に向かったのはプーチンが勤務していたKGB支部だった。その時の模様を彼は自伝『プーチン、自らを語る』の中で振り返っている。

 当時37歳だったプーチンが地下の焼却炉で情報提供者や諜報員のリストなど秘密書類を処分していると、KGB支部の周りに暴徒たちが集まってきた。そこで彼は武装した警備兵と共に外に出て、お得意の流暢なドイツ語で「ここに侵入するな!もう一度言う、立ち去れ!」と警告したという。お前は何者だと尋ねられると、とっさに「通訳だ」と嘘をついた。

 銃を構えた兵士の形相とプーチンの断固とした口調に恐れをなしたのか群衆はその場を引き上げ、流血の惨事は避けられた。

 しかしプーチンには大きな失望感が残った。近くのソ連軍事基地に応援を求めても助けが来なかったからだ。自分たちの領域に西側が安々と攻め込んできたというショッキングな体験はトラウマとなって欧米に対する深い憎悪として彼の心の中に残った。

 情報操作が巧みなプーチンのことだから自伝やインタビューでの発言を鵜呑みにはできない。だが、硬直した社会主義国家に対する絶望と国家の存続を脅かす西側の「奔放な自由」に対する危機感との狭間で揺れ動く当時の彼の心情が読み取れる。

 2度目は1991年のソ連邦の崩壊だった。90年に祖国に戻ったプーチンが見たものは、改革派のソ連大統領ゴルバチョフに対する保守派のクーデター、そしてゴルバチョフ失脚後に権力を掌握したロシア共和国大統領エリツィンの経済改革の大失敗と腐敗の蔓延だった。

 ひとたび中央の箍(たが)が緩んだ連邦国家は遠心力でバラバラになってしまう。そのことをプーチンは屈辱感をもって肝に命じた。「我々に必要なのは偉大なる変革ではない。偉大なるロシアだ」が今もプーチンのお気に入りのフレーズだということも頷ける。

 3.帝国の記憶

  ソ連は91年12月末に消滅した。だがロシア取材中に感じたことは、東欧諸国を束ねた核大国ソ連がアメリカ主導の軍事同盟NATOと力強く対峙していた栄光の時代がいまだにロシア人の記憶に色濃く残っていることだった。プーチンもそのひとりだ。

 思い返せば1957年、アメリカに先駆けて世界初の人工衛星スプートニク1号の打上げに成功したのはソ連だった。さらに61年には有人宇宙飛行も成し遂げている。

 52年10月生まれのプーチンは、スプートニクが打上げられた時は5歳、ガガーリン少佐が人類初の宇宙飛行に成功した時は9歳だった。祖国の偉業に目を光らせながらウラジーミル少年は空を見上げたに違いない。

 10代の頃、彼の夢はパイロットになることだった。だが、第2次世界大戦でナチスドイツ側に潜入して大活躍するソ連諜報員を描いた映画『盾と剣』に刺激を受け、将来はスパイになりたいと思うようになったという。

 「何よりも驚かされたのは、たった1人の小さな力で、全軍をもってしても達成できないような成果をあげられることだ。私は自分の進路を決めた。スパイになると」

 2000年のインタビューでプーチンはそう語っている。派手な軍事行動よりも策略を巡らす諜報員の姿に魅力を感じたのだ。ソ連の栄光の記憶を脳裏に刻み込んだプーチンは大学卒業後、憧れの諜報機関KGBに就職する。

 4.謎のスピード出世

  プーチンのKGBでの評価はそれほど高くなかったようだ。当時、優秀な人材は西側諸国に赴任したが、プーチンが派遣されたのは東ドイツ。しかも東西冷戦の最前線ベルリンではなく古都ドレスデンだったことでも分かる。

 傷心のドレスデンからKGBの予備役として1990年に故郷レニングラードに戻ったプーチンは、改革派知識人で母校レニングラード国立大学のソプチャーク学長の補佐となりKGBを退職する。じつはその頃のKGB人脈が彼を大統領にまで押し上げる陰の勢力になるのだが、そのことについては後に詳しく触れる。

 ソプチャークがレニングラード市長に当選するとプーチンは陰の戦略家として市長を支えた。「灰色の枢機卿」(黒幕)と呼ばれるようになった由縁である。

 そんな影の脇役だったプーチンに転機が訪れる。96年8月、初代ロシア連邦大統領エリツィンの側近から声をかけられモスクワで大統領総務局次長という職に就くことになったのだ。

 その後は驚くべき早さで出世街道を駆け上る。モスクワで職を得た翌年に大統領府副長官に抜てきされ、さらに98年にはKGBの後継である連邦保安局(FSB)長官に就任。すぐさまレニングラード支局時代からのKGB仲間を要職に就けてFSBを掌握してしまう。99年には国家安全保障会議書記も兼務、同年8月には首相に就任する。

 わずか3年間でのスピード出世だ。いったい何があったのか。その秘密を一言でいえば「忠誠心」だ。あらゆる策謀を使ってエリツィン大統領を政敵から守り、大統領一家とその取巻きから絶対的な信頼を得たのである。

 例えばこんなことがあった。99年、厳しい汚職捜査でエリツィンはぎりぎりまで追い詰められていた。すると、ロシアのテレビ局が検事総長とおぼしき男と若い女性ふたりが全裸でベッドにいる様子を隠し撮りした映像を放送した。

 その結果、大統領の汚職追求を主導していたプリマコフ首相と検事総長が逆に失脚。決め手となったのは「ビデオは本物だ」というFSB長官だったプーチンの証言だったという。いかにも元KGB工作員が仕掛けそうなトラップではないか。

 さらにはチェチェン独立派武装勢力にも呵責のない攻撃を加えた。外敵をつくり国民を扇動するのはプーチンの得意技だ。お陰で彼は「強いリーダー」だというイメージが国民の間に定着した。

 後任のステパーシン首相は短命に終わり、エリツィンが後継者に指名したのはプーチンだった。健康状態が悪化していたエリツィンは、この男なら権力を手放した後も大統領一族の身を守ってくれると確信していたのだ。

 しかしソ連時代の愛国的精神に浸って成長したプーチンが本当に忠誠を誓っていたのはエリツィンではなかった。ロシアという国家そのものだったのである。自分の責務は国家に仕えることで、それを脅かす者には容赦なく鉄槌を下す。

そのことに気づかなかった腐敗まみれの大統領側近たちは程なく粛正の憂き目に遭うことになる。(続く)
                   (写真は日経ビジネス電子版)

 

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