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戦争は人の心の中から生れる

 ロシア軍によるウクライナ侵攻が続く中、2015年に公開されたドキュメンタリー映画『Winter On Fire』(ウクライナ・米・英共同制作)が今年再配信されて話題となっている。すでにご覧になった方も多いだろう。

2013年11月18日から14年2月23日にかけてウクライナの首都キエフで起きた「マイダン(広場)革命」と呼ばれた流血の反政府運動を93日間に渡って記録した迫真のドキュメンタリーだ。

 武装した治安部隊との衝突で多くの犠牲者が出たにもかかわらず毅然と独裁者に立ち向かうウクライナ市民の姿が生々しく描かれている。映像の中には、贅沢三昧で国家を食い物にした親ロシア派のヤヌコビッチ大統領が密かにロシアに逃亡する姿もあった。

 「自由な人は決して屈しません」という感極まった女性の言葉が今のウクライナ情勢と重なって胸を打つ。

 この騒乱はウクライナでは「尊厳革命」とも呼ばれて美化されているが、ネットフリックスが今年この映画を無料配信し始めたのはウクライナ支援を狙った西側の情報操作の一部と捉えられないこともない。

 振り返れば、このキエフ騒乱によってウクライナの運命の歯車は平和よりも戦争に向かって回り始めた。ロシアのプーチン大統領のウクライナ戦争は8年前からすでに始まっていたのである。

 ウクライナは歴史的にロシアの一部で“one people(一つの民族)”だと信じて疑わないプーチンにとって、曲がりなりにも選挙で選ばれた親ロシア派のヤヌコビッチ大統領がマイダン革命で追放されたことは到底許されることではなかった。しかも後継者はオリガルヒ(新興財閥)で反政府デモを財政面で支援した親米のポロシェンコだったからなおさらだ。

 怒りに燃えたプーチンは「ロシア系住民保護」を理由にウクライナ南部のクリミア半島に侵攻し、お手盛りの国民投票を実施して一方的に併合してしまう。すると、欧米の批判にもかかわらず、ロシア国内でのプーチンの支持率は8割まで急上昇。クリミアは帝政時代からロシアの宗教・歴史・文化の聖地だと思っているロシア国民が多いのだ。

 プーチンはウクライナ東部の紛争地域ドンバスにも「平和維持」のためと称してロシア軍を送り込み、新政権に揺さぶりをかけた。

 ロシアは過去にも旧ソ連構成国のジョージアで、親ロシアのアブハジアや南オセチアを承認している。地域に住む親ロシア派住民の保護を口実に軍事作戦を展開するのはプーチンの常套手段だ。

 2015年2月、ドイツとフランスの仲介で、ウクライナとロシアを含む4カ国首脳で東部紛争を巡る停戦合意、いわゆる「ミンスク合意」がようやくまとまった。だがその後もウクライナ政府軍と親ロシア武装勢力は戦闘と停戦を繰り返した。
 
 一方、ウクライナ国内では政治腐敗の一掃や欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)への加盟を訴えたポロシェンコ政権は看板倒れに終わり、側近の汚職事件も発覚。そのうえ家庭向けガス料金まで値上げしたから国民の不満が爆発した。

 反ロシア・ナショナリズム一辺倒のポロシェンコ政権に愛想を尽かしたウクライナ国民は、2019年の大統領選で政治経験皆無のコメディ俳優ウォロデミル・ゼレンスキーを選んだ。政治腐敗が蔓延しているウクライナでは政治経験がないことは選挙で決して不利ではないのだ。

 しかし、それが戦争の火種を燃え上がらせる結果になるとは誰も予想できなかった。

 当時、ゼレンスキーは政治風刺テレビドラマ『国民の僕(しもべ)』で主役を演じて人気を博していた。さえない高校教師の政治批判する姿が隠し撮りされネットで拡散されたことから、あれよあれよというまに彼が大統領に選ばれてしまい、政治腐敗と戦う物語だ。

 ゼレンスキー陣営は政党名にちゃっかりドラマのタイトル『国民の僕』を使い、巨悪と戦うドラマ内の大統領のイメージと実際のゼレンスキーを重ね合わせる戦略を展開した。番組は大統領選の3日前まで放送されていたという。

 この番組を放送した商業テレビ局「1+1」のオーナーはじつはポロシェンコに私怨をもつオルガルヒ(新興財閥)でメディア王のイーホル・コロモイスキーだ。彼はウクライナのユダヤコミュニティの幹部で、ウクライナ東部出身のユダヤ人であるゼレンスキーを裏から支援していたのである。

 ドラマの筋書きは現実になった。

 しかし、「自転車に乗り国民のために奔走する劇中の姿とは異なり、実際のゼレンスキーは高級車を乗るお金持ちでオフショアやロシアに資産があると言われています」と、ロシアNIS経済研究所の服部倫卓所長は朝日新聞GLOBEのコラムで指摘している。

 ポピュリズム(大衆迎合主義)で大統領にまで上り詰めたゼレンスキーは実際には政治経済の知識が乏しく、ウクライナが抱える経済の不振、汚職の蔓延や地域紛争といった難問を解決することはできなかった。支持率は当初の7割台から2割台まで落ち込んだ。

 就任当時、ゼレンスキーは長引く東部紛争の停戦履行に積極的だった。モスクワとの協議再開に注力し、ウクライナ軍の撤退などのロシアの要求も受け入れてきた。19年9月に待望の捕虜交換が実現し、翌年10月には「ミンスク合意」実現に向けたドイツのシュタインマイヤー元外相(現大統領)の提言も受け入れた。

 同年12月にはフランスのマクロン大統領とドイツのメルケル首相の仲介でプーチン大統領とパリのエリゼ宮(大統領官邸)で顔を合わせ、年末までにウクライナ東部の紛争で「完全かつ包括的に」停戦することで合意したのである。

 ウクライナ、とくにロシア語圏の東部や南部ではロシアとの関係改善への期待が高まった。

 しかし事態は好転しなかった。それどころか東部地域分離独立に猛反対するいわゆる民族派の突き受けた受けたゼレンスキーは方針転換。「ミンスク合意」を反故にし、親ロシア派の武装勢力が占領する東部地域の独立を拒否するようになった。

 それだけではない。ウクライナ政府軍は昨年10月下旬、東部の紛争地域で親ロシア派武装勢力の攻撃に初めてトルコ製ドローン「バイラクタルTB2」を使ったとする映像まで公開した。「ロシアの挑発に乗るな」と欧米は苦言を呈したようだが、ゼレンスキーはかまわず「領土と主権を守っている」と強気の声明を出した。

 これがプーチン大統領を刺激しないわけがない。なぜなら2020年秋に戦闘が再燃した旧ソ連圏の係争地ナゴルノカラバフでアゼルバイジャンが親ロシアのアルメニアを破ったときに「秘密兵器」として使ったのがトルコ製ドローンだったからだ。さらにゼレンスキーはトルコ製ドローンの調達を進め、トルコと共同開発にも合意したという。

 いやがおうでも緊張が高まった。

 2021年3月、ロシア軍はウクライナ国境付近での演習を終えた後もその場に留まり続けた。そして約4000人と推定された兵力は4月中旬には10万人以上に膨れ上がった。プーチンがウクライナの新政権とその後ろにいる欧米に脅しをかけているのは誰の目にも明らかだった。

 年が明けた22年2月18日の米国のバイデン大統領の演説は違和感を感じさせるものだった。演説では「彼(プーチン大統領)はウクライナ侵攻を決断したと確信している。・・・ロシア軍が数日以内にウクライナを攻撃し、首都キエフを標的にしている」などと、本来なら秘匿すべき軍事情報を明らかにしたからだ。まるで外交交渉を諦めたような話しぶりだった。恐らく米国が事態を正確に把握していることを示してロシアの暴走を止めようとしたのだろう。

 だが、運命の2月24日、数人の元KGBのシロビキ(武闘派)しか信用しないプーチンはついにルビコン川を渡った。誰もが予想していなかったロシア軍の容赦ない無差別全面攻撃が始まったのだ。まさに古代ローマのカエサル将軍が禁を破って軍を率いてルビコン川を渡りローマ内戦の火蓋が切って落とされたように、一線を越えた瞬間だった。

 ところがウクライナ軍の思わぬ強い抵抗がロシア軍の電撃作戦を狂わせた。

 ゼレンスキーは国民総動員令を発して18歳から60歳の男性市民の出国を禁止してロシアとの徹底抗戦を訴えた。テレビ局は火焔瓶の作り方を教える番組を流し、危険承知で外国人義勇兵まで募集したのだ。

 ネットメディアを巧みに駆使し、異例のカーキ色のTシャツ姿で画面に現れたゼレンスキーは一夜にして内外で「英雄」扱いされるようになった。

 戦争開始から1ヶ月余り過ぎた今、誰もがプーチン大統領はいつまでウクライナ戦争を続けるつもりかと思いあぐねている。戦闘地域から送られてくる目を覆いたくなるような映像があまりにも痛ましい。地面に無造作に掘られた長い溝。その中には木棺や黒いバッグに入れられた数多くの遺体が並べられている。

 ロシア軍の容赦ない攻撃を受けているウクライナ各地では葬儀もできないまま名ばかりの「集団墓地」に次々と民間人の遺体が埋葬されている。英BBC放送が伝えた。

 ウクライナ非常事態省は、ロシア軍の無差別攻撃で2000人以上の民間人が死亡したと発表。また、レズニコフ国防相によれば、死亡した民間人の数が戦闘で死亡した兵士の数を上まわっているという。

 戦争の最中に正確な数字を把握することは困難だ。双方から偽情報も常時流されている。だが連日のウクライナ情勢を伝えるニュースを見ていると、おびただしい数の民間人が犠牲になっていることは想像に難くない。

 ナチスのユダヤ人迫害を逃れて米国に移住した元米国務長官で地政学の重鎮であるキッシンジャー博士の言葉を借りれば、まさに「人間は悲劇の不可避性とともに生きていかなくてはならない」という現実を我々は目撃している。

 そんな残虐行為に対して、欧米諸国は前例のないほどの厳しい経済制裁をロシアに浴びせた。国際銀行間通信協会(SWIFT)はロシアの銀行7行を決済ネットワークから排除したためロシア経済は早晩危機に陥る。デフォルト(債務不履行)の可能性もあり、ハイパーインフレが国民生活を襲うだろう。

 プーチン大統領の独裁体制下で巨万の富を築いてきた「オリガルヒ」(新興財閥)はすでに国外で脱出しているという。こういう連中の逃げ足ははやい。

 それなら間もなく停戦に向かうだろうという観測が市場に広がって株価が上がった。

 だが現実にはロシア軍の攻撃が止まず、プーチン大統領はウクライナ制圧への意欲をさらに掻き立てているようにみえる。ロシア国防相は19日、ウクライナ西部の軍事施設を破壊するのに最新鋭の極超音速ミサイル「キンジャール」を使用したと発表した。

 理由はいくつか考えられる。ひとつは最新の世論調査で過半数(58%)のロシア国民が彼の行動を支持していること。そして、第3次世界大戦を恐れる西側が武器と資金を送り込むだけで実際の戦場にはウクライナが取り残されていることだ。武器をやるから「お前ら命がけで戦え」だけではウクライナ市民の犠牲者を増やすだけではないか。

 さらに言えば、プーチンは、エネルギー資源や穀物をロシアに依存しているEU諸国が制裁に腰が引けていることを知っている。中間選挙を控えたバイデン米政権が戦術核使用も辞さないロシアと本気で事を構えたくないことも承知だ。バイデン大統領が声を荒げるだけで西側は腰が引けているとみているのだ。

 ロシア軍がウクライナの首都キエフに迫った10日、両国の外相会談がトルコの仲介で行なわれたが、停戦交渉に進展はなかった。それはそうだろう。北極熊と野ウサギのように力の差があまりにも大きい2者の争いの仲裁は極めて難しい。

 平和実現のために弱者は妥協を強いられ、強者の国際法違反はうやむやになることも多いのが現実だ。これまでのクリミア、シリア、チェチェン、ジョージア、モルドバ、アフガニスタンなどへのロシア侵攻を見ればわかる。

 周到に計画し電撃勝利を狙ったといわれる冷徹な戦略家プーチンにとって、ウクライナの強い抵抗やゼレンスキー大統領の英雄扱いは確かに誤算だっただろう。元諜報機関KGB工作員だったプーチンとその取巻きは謀略に長けているが、本格的軍事戦に強くないと言うことも露呈した。

 ロシアの名声は地に落ち、ロシア経済が危機を陥るのは間違いない状況だ。しかし、これが独裁者プーチンの終わりの始まりになるかどうかはまだ予断を許さない。

 首都キエフのニュースサイト「ウクライナの新しい声(New Voice of Ukraine)」編集長のベロニカ・メルコゼロバは言う。「プーチンはウクライナを独立国だとは思っていない。だから欧州の自由な国として存続させるくらいなら破壊したいと思っています」と。その言葉が事実であれば、戦争はまだしばらく続く。

 ロシアのルドルスコイ将軍は25日の記者会見で、作戦の「第一段階はほぼ完了した」と発言して注目を集めた。ロシアが当初目的の全土制圧を諦めて、ウクライナ東部でロシアが後押しする分離派の実行支配地域を拡大することで矛を収めるではという観測が広がったからだ。だが真偽の程はわからない。

 権威の失墜を恐れるプーチンにとって戦果の乏しい停戦は絶対に受け入れがたいからだ。

 ウクライナにとっての不幸は、1991年のソ連邦崩壊後にNATOに加盟できなかたことだろう。親ロシア派の巧みな世論操作で国民の6割が反対に回ったことや、ロシアの反発を恐れた欧州諸国がウクライナの加盟に消極的だったことが主な理由だった。核保有国を含む欧米の集団安全保障の枠組みの中に入っていれば、軍事大国ロシアといえどもそう簡単には手を出せなかった。

 その証拠に、旧ソ連の一部だったバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)は厳しい条件をクリアしてNATOとEUの両方に加盟し、小国ながらロシアの影に怯えることなく西側の経済的恩恵を受けている。

 厄介なのは現代の戦争が武力のぶつかり合いだけでなくサイバー戦、情報戦などを組み合わせた「ハイブリッド戦」になっていることだ。とくに記述的進歩が著しい情報戦による隠蔽や「偽旗作戦(false flag operation)」と呼ばれる嘘や誇張の流布によって、真実を見分けることが極めて困難になっている。

 それは取りも直さずジャーナリズムの真価が問われるところでもある。

 現在では「欧州のパンかご」として知られる豊かな穀倉地帯ウクライナで1930年代初頭に推定500万人~1000万人が飢餓で死亡するという大惨事が起きたことがあった。

 「ホロドモール(飢餓ジェノサイド)」と呼ばれる20世紀最大の悲劇のひとつである。ソビエト連邦の独裁者スターリンが経済発展のために農民を犠牲にした「人工飢餓」で、飢えの果て人肉食まで起きたという。

 しかし、当時モスクワ駐在だった西側メディアのジャーナリストはこぞって政権が発表した社会主義計画経済の輝かしい成果だけを伝えていた。ニューヨーク・タイムズ紙の大物記者ウォルター・デユランティ記者はそんな虚偽の報道でジャーナリズム最高峰のピュリッツァ賞を受賞している。

 そんな中、若き英国人記者ガレス・ジョーンズは監視の目をかいくぐってウクライナに潜入して衝撃に事実を目撃。命がけで告発したことでホロドモールの「赤い闇」が世界で知られることになった。

 「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない(since wars begin in the minds of men, it is in the minds of men that the defences of peace must be constructed)」とユネスコ憲章は宣言している。

 戦争に完全な善なければ完全な悪もない。ただあるのは勝者と敗者、そして憎悪と深い悲しみだけだ。ロシアの無差別の殺戮は決して許されない。だが、単純な勧善懲悪の構図だけで国際紛争をみるのは危険だ。

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