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その時、僕は市街戦の中にいた

 ウクライナ戦争の最中に内紛で混乱しているロシアを見ていて、私は先が読めなかった1993年10月のモスクワ騒乱を思い出した。

 ロシアンルーレットというゲームがある。弾丸を一発だけ込めたピストルで弾倉を回して弾丸の位置を分からなくしてから、順番に自分の頭に向けて引き金を引いていく命がけのゲームだ。気がついたら突然そんな危険なゲームをやらされていた感があったのが1993年10月のモスクワ市街戦だった。

 パパパパパと鳴り響くおびただしい銃声に身を屈めながら、いよいよロシアンルーレットの弾丸が自分に回ってきたかという恐怖と「スクープだ」というジャーナリストとしての興奮が頭の中で交錯した瞬間だった。

 しかし実際には、その後テレビで幾度も繰り返し放送された激しい銃撃戦や戦車による砲撃が全てではなかった。当時テレビでは放送されなかった流血の4日間の取材の裏側とロシア政治の内実をご紹介しよう。

  モスクワ行きが決まったのはなんと出発の前日、9月30日のことだった。「蟹瀬さん、この週末にモスクワに飛んでもらえませんか」と番組のプロデューサーに言われ気軽に「はい、行きましょう」と二つ返事はしたものの、正直言って当初はあまり乗り気ではなかった。

 細川総理訪米の取材を終えてニューヨークから戻ったばかりでまだ時差ボケが抜けていなかったし、なによりもモスクワでのエリツィン大統領と反エリツィン派議員たちとの対立が平和的な収拾の方向に向かって射るという情報があり、現地で実際どの程度の取材が出来るのか疑問だったからだ。

  しかし引き受けた以上躊躇している時間はない。旅行カバンから細川訪米の資料を放り出して、防寒服、ロシアのガイドブック、過去1週間のロシア情勢に関する新聞記事の切り抜き、そしてインスタントの日本食を詰め込んだ。こういう緊急事態な海外取材の発生には妻の方も諦めていて、生来おっちょこちょいな私の忘れ物チェックをし、「保険にはちゃんと入っているわね」というなんとも優しい言葉で送り出してくれる。

 じつは当時のロシア取材でまず最初の関門は入国ビザの取得だった。ビザというと大抵の国ではパスポートにポンとスタンプを押してもらうだけだが、当時は薄紫色の3ページの用紙に顔写真を2枚貼り、訪問する都市名をロシア語で記入した大袈裟なものだった。通常の手続きでは申請からビザが下りるまでに1週間程度かかった。

 しかしそれでは間に合わない。非常手段として担当のFディレクターがモスクワ支局に電話連絡をとり、モスクワ側から日本のロシア大使館に便宜をはかるように手配してもらった。するとすぐさま入国がオーケーになった。地獄の沙汰も金次第。手数料が随分高いものについたことはいうまでもない。

  金曜日の生放送を終え、わたしとF君はモスクワ経由パリ行きの便に飛び乗った。モスクワまでのフライトは約10時間。日本との時差は6時間ある。モスクワ空港に到着したのは土曜日の未明で空港内は薄暗く、人影もまばらだった。

  次の関門は入国審査だった。審査官は征服姿の若者がふたりでいかにも暇そうに話している。我々が近づくとその内のひとりが英語で「ドウユー・スピーク・イングリッシュ?」と訊いてきた。イエスと答えると今度は「シガレッツ?」つまり、「タバコをくれ」と言っているのだ。気位の高いロシア人は今や小説の中だでの存在なのか。F君も私もこれまでに何度もロシア取材をしてきたが、歴史或る国民のプライドがこんな形で消えていくのを見るのはまったく寂しい限りだった。

  ちなみにロシアでなぜか赤い箱のマールボロという米フィリップモリス製のタバコが好まれ、ちょっとしたお礼や便宜を図ってもらいたいときにに重宝した。

  さて、いよいよ現地での取材にとりかかる。ご記憶の方もいらっしゃるかもしれないが、9月21日エリツィン大統領が議会の活動停止を一方的に宣言して以来、モスクワ市内の最高会議ビル(国会議事堂)に立て籠もる反大統領派議員とエリツィン大統領は日増しに対決姿勢を強めていた。

  妥協点が見つからず業を煮やしたロシア政府は、保守派のハズブラートフ最高会議議長とルツコイ副大統領に対して10月4日までに最高会議ビル内と周辺にいる支援者たちを退去させ、武器を引き渡さないと「重大な結果」を招く、という最後通牒を突きつけていたときだ。

  保守派による最高会議ビル占拠の事態は日本でも連日報道されていたので、我々の取材の目的はその10月4日にいったい何が起きるのかを見極めることにあった。

  ロシアでは議会は単なる立法機関だけでなく人民の代表として国家権力の最高機関と定められ、行政府の長である大統領よりも強大な権力を持っていた。しかも旧ソ連時代に選ばれた代議員たちで構成されているため、改革を推し進めたいエリツィンにとってはまさに目の上のたんこぶ。両者の対立はどちらかが相手を完全に打ちのめすまで解決しない構図なのだ。

  だが我々が到着したときは現地でロシア正教のアレクシー2世総主教が調停に乗り出していたため危機は打開の方向に向かっているように見えた。政府側と議会が段階的に議会ビルの封鎖を解除することに合意したという情報も流れた。

 「どうも10月4日には何も起こりそうもないですね。蟹瀬さん」
「そうだなぁ。とりあえず動きがあるのは交渉現場だから、そこから取材するしかないか」

 なんとなく拍子抜けした我々はとりあえずロシア政府と議会派の交渉が行なわれているモスクワ郊外のダニュロフ修道院に向かった。目の前に現れた修道院は政争とは無縁と思える白壁が美しい建物で、改めてロシアの歴史の深さを感じた。

  入室を許された交渉の場の雰囲気もいたって穏やかだった。冬支度のロシアよろしく我々の取材に対する熱意も醒めてしまった。だが、現実の歯車はすでに決定的瞬間に向かって動き始めていた。(続く)

 

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