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プーチンの世界 (後編)

5.プーチンとロシアを乗っ取った男たち

  2000年5月7日、新大統領の就任式がクレムリン大宮殿で開かれた。高いアーチ型の大広間の中央に敷かれた赤絨毯の上をうつむき加減で肩を揺らしながら歩く黒スーツのプーチンの口元は珍しくほころんでいた。

 最前列で拍手をしていたのはエリツィン前大統領の取巻きたち。だが招待者の人だかりに隠れて彼の出世を誰よりも喜んでいたのは「シロビキ」と呼ばれるレニングラード時代の旧KGBの仲間達だった。

 彼らこそが、治安当局、犯罪組織、政治家そして闇の資金と繋がり、プーチン大統領の意志決定に大きな影響を与える保守強行派集団なのだ。彼らはロシア帝国の復興の幻想を抱き、破壊工作や戦争を扇動し、かつては欧州に友好的だったプーチンを欧米強行派へと変えていった。

「国民が団結し、ひとつの祖国、ひとつの国民、我ら共通の未来を忘れないようにすることが、私のとって神聖な責務だ」 

 就任演説でプーチンはそう国民に訴えた。その裏にはじつは強い指導者による国家管理が必要だというメッセージが込められていたのである。ウクライナ戦争の種がすでに蒔かれていたのだ。

 最高権力者となったプーチンと彼の取巻きがまず着手したのはソ連崩壊の混乱に乗じて巨万の富を築いたオリガルヒ(新興財閥)の粛正だった。経営する企業や財産を没収し、逆らった者は容赦なく投獄した。大統領に忠誠を示さなければどうなるかを腐敗しきった有力者たちにあからさまに見せつけたのである。

 じつはプーチン自身も腐敗と無縁ではなかった。ロシアの新興財閥やエリート層とヤクザまがいの脅しで巨万の富を築いていった。

 その手口は「お前の資産の半分を俺によこせ。そうすれば残り半分はお前のものにしてやる。それがいやなら、俺が全部取ってお前を監獄にぶち込む」という乱暴なもの。ロシア最大の海外投資家だったエルミタージュ・キャピタル・マネジメント創業者兼CEOのビル・ブラウダーが2017年の米議会上院司法委員会でその手口を証言している。

 「政界の黒幕」でプーチンに忠誠を誓わなかった大富豪ベレゾフスキーは2013年3月、ロンドン近郊の自宅浴室で遺体で見つかった。首つり自殺とされたが、大統領との確執から死因を疑う見方が根強い。

  英フィナンシャル・タイムズ元モスクワ特派員のキャサリン・ベルトンによれば、プーチン政権を操る元KGBグループの中にとくに重要な人物が2人いるという。

 ひとりはイーゴリ・セチン(62)。プーチンがレニングラード副市長を務めていたときの参謀だ。ロシア最大の国営製油会社ロスチネフの会長で「シロビキ」の代表格である。

 もうひとりは、同じくレニングラード出身のニコライ・パトルシェフ(71)。こちらも「シロビキ」の実力者で2008年からロシアの対外戦略の司令塔である安全保障会議書記を務めている。プーチンの先輩にあたり筋金入りの保守強硬派だ。

 国家主義者のプーチンと彼を支える少数の取巻きたちは国内の新興財閥を跪かせ、メディアを統制し、抵抗勢力を容赦なく弾圧して権力を掌握した。海外では、クリミア併合でロシア国民の愛国心に火を付け、2015年にロシア史上初めて中東シリアへの直接軍事介入に踏み切って崩壊寸前だったアサド政権を救った。そして2022年2月、満を持してウクライナへ軍事侵攻し世界を震撼させたのである。

 

6.クルスクが沈んだ日

  プーチンは、「脱出王」と呼ばれた奇術師ハリー・フーディーニのようだと評されたことがある。

 大統領就任からわずか3ヶ月後の8月12日のことだった。北極圏のバレンツ海で兵器を満載して演習に参加していた世界最大の攻撃型ロシア原子力潜水艦クルスクが水深108メートルの海底に沈没するという大事故が起きた。プーチンが大統領になって最初の政治的危機だった。

 原因は発射準備をしていた魚雷からガスが漏れて爆発したことだった。数分後には他の魚雷も連鎖爆発し艦体は水没。乗組員118名全員が死亡した。

 その日、黒海に面した保養地ソチにいたプーチンは恐怖で呆然自失となり別荘に引き籠もったという。その間にロシア海軍内で箝口令が敷かれ、軍事機密が漏れることを恐れた司令部は英国やノルウェーの援助を拒否。そのため艦内にいた生存者も犠牲になった。

 マスコミはもちろん黙っていなかった。全国ネットのテレビ局であるORT(ロシア公共テレビ)やNTV(独立テレビ)は、海辺で悲嘆に暮れる遺族の映像とプーチンが別荘で水上スキーやバーベキューを楽しむ姿を交互に流し続けた。

 事件発生から10日後、ようやく遺族集会に姿を現したプーチンを待っていたのは、「嘘つき!」「ろくでなし!」という遺族からの罵詈雑言だった。その辛辣さは「これまでのロシアの指導者がこれほどまで罵倒されたことはなかった」と英ジャーナリストが驚嘆したほどだ。

 絶体絶命と思われた。ところがKGB仕込みの演技力と人心掌握術でプーチンは状況を逆転させてしまう。

 3時間続いた遺族たちとの対話で、彼はエリツィン時代に十分な資金が軍に配分されなかったことが救出活動失敗の原因だと巧みな言葉使いで説得。遺族の怒りの矛先を前政権に向けた。軍が落ちぶれた原因はメディアを独占しているオリガルヒ(新興財閥)たちにもあると責任転嫁した。「あいつらは政府の金を盗み、メディアを買い占めて世論を操作しているのだ」と。

 極めつけは遺族への手厚い賠償提案だった。10年分の乗員の給与の支払いや、ロシア人なら1度は住んでみたいモスクワやサンクトペテルブルクの住宅を無償提供することを申し出た。さらに、子供たちの大学までの学費無料、異例の船体の引き揚げとすべて遺体の回収も約束したのである。

 大統領自身が庶民的な言葉使いで遺族と直接対話する姿が全国放送で流されたことで国民の評価もがらりと変った。プーチンはやるべき事はやったという見方が国民の大半を占めるようになったのである。ほどなく彼の支持率は事故以前の高さに戻った。

 「(プーチンは)大統領然としているが、私たちと同じ普通のロシア人だと感じさせる術を持っている」ロシアの主要新聞イズベスチヤ紙はそう書いた。

 以降、大事件が起きるとプーチンは自ら現場に出向き指揮をとることが多くなった。ただし被害者への共感からではなく、あくまで自らのイメージを守るためだ。

 一方、批判的だったテレビ局を容赦なく弾圧した。NTV(独立テレビ)を経営するウラジミール・グシンスキーは堪らずスペインに脱出。NTVは政府系の天然ガス会社ガスプロムに買収された。ロシア国内最大の財力を有したオリガルヒ(新興財閥)でORT(ロシア公共テレビ)経営者だったベレゾフスキーも国外に逃亡した。

 7.ウクライナ戦争

  プーチンのウクライナ戦争に深く拘っているのは、安全保障会議書記のパトルシェフ、ロシア対外情報庁(SVR)トップのセルゲイ・ナルイシキン、そして大統領の腹心の国防相のセルゲイ・ショイグの3人だ。3人とも元KGBでロシア帝国の復活を願う反動主義的思想の持ち主である。

 ウクライナとロシアは一体だという歴史観をプーチンと共有する彼らにとって同国がNATOに組み込まれることは心情的にも地政学的に絶対に許せないことだった。

 しかし、プーチンには彼らと違う秘めた特別な想いがあったのではないか。「皇帝」人生の華やかで誇り高い幕引きである。

 その証拠に、毎年売り出されてきたマッチョな半裸姿のプーチンのカレンダー写真は近年影を潜めている。代わって登場したのは暖炉前でクリーチ(ロシア伝統の菓子パン)とお茶の楽しむ姿だ。ロシア人にとっては退職した父親の典型的なイメージである。

 プーチン重病説には根拠がない。だがロシア人男性の平均寿命はおよそ68歳と短い。今年10月に70歳になるプーチンが大統領を引退し「国父」として院政を敷く準備をしていたとしても不思議ではない。

 計算高いプーチンのことである。米傀儡政権下のウクライナを奪還すれば、アフガニスタンから敗走したアメリカの国際的信用をさらに失墜させ、ロシアの威信を高められる、そして彼の長きにわたる政治経歴の最後を飾る輝かしき金字塔となると妄想したのではないか。

 侵攻直前、プーチンはロシア国営放送で西側の「冷笑的な欺瞞と嘘」の不当性とNATO東方拡大への危機を国民に訴えた。

「ウクライナは歴史的にロシアの領土だ。それが今はアメリカの傀儡政権下にある。我々の首に突きつけられたナイフのようなものだ。・・・もう平和的な解決は望めない」と声を荒げた。

 プーチンの最後通告はロシア国民、とくに多くの年配世代の共感呼んだ。多極化した世界秩序を望む中国やインドにも分かりやすいメッセージだった。

 8.プーチンのエンドゲーム

 しかし、戦争が計画通りいった試しはない。プーチンも例外ではなかった。

 予想外のウクライナの強い抵抗に遭い、首都キーフ電撃制圧を狙ったロシア軍は出鼻を挫かれた。理由は、2014年のロシアのクリミア併合以降、米国や英国などが最悪の事態を想定し密かにウクライナ軍に訓練を施し、強力な武器やインテリジェンス(諜報)を供与していたからだ。

 中国の脅威に対抗することに手一杯の米バイデン政権は、自国の兵隊の血を流さず、ウクライナでの「代理戦争」でロシアを徹底的に弱体化させようとしているようにみえる。だが犠牲になるのはウクライナ市民だ。いつまでも場外で見物とはいかないだろう。

 「戦争を始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しい」
そう呟いたのは、第一次世界大戦を招いたドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム2世だった。
 その言葉どおり、ウクライナとロシアはもちろんのこと、大量の武器供給でかえって戦闘を激化させている欧米諸国もウクライナ戦争の落としどころを探しあぐねている。どちらか一方の苦痛が限界に達するまで停戦は見込めないようだ。
 歴史を振り返ると、これまで世界で起きた大きな戦争の終わり方には3つのパターンがある。
 
①  紛争の原因を徹底的に取り除くまで戦う。兵士・民間人合わせて5000万人から8000万人が死亡した第2次世界大戦や、イラク戦争がこれにあたる。
②  あまりに深刻な被害に耐えられず双方妥協して和平を結ぶ。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争がその例だ。
③  上記2つの中間型で混乱のうちに収束する。第一次世界大戦がそうだった。戦争が4年以上も長引いて各国が疲弊したうえに、ロシア革命でロシアが撤退。ドイツでも革命が起きて帝政が崩壊した。孤立主義だった米国の参戦が戦争終結の決め手となった。さらには、推定5000万人から1億人超の死者を出した「スペイン風邪(A型インフルエンザ)が世界的に大流行したことも戦局に大きな影響を与えた。
 
 それではウクライナ戦争はどうか。現状では、ウクライナ、ロシア双方とも自国に有利なシナリオを描いているので、徹底的に戦う①のパターンに近い。
 ゼレンスキー大統領率いるウクライナは、米欧諸国の強力な武器援助が続く限り徹底抗戦の構えだ。ロシア経済が疲弊して戦闘能力も士気も低下し、国内ではプーチン大統領の政治基盤が崩れると考えている。

 一方、歴史的に持久戦に強いロシア側は、米欧、とくに米国のウクライナ支援が早晩尻すぼみになるとみている。昨年の中間選挙で米下院を奪還した共和党がウクライナ支援に批判的で、今年の大統領選で共和党候補が勝つと予想いる。

 米国がウクライナ支援を手控えれば、経済的にロシアと結びつきが強い欧州も追従するという読みだ。強権で反対派を壊滅させたプーチン大統領は政権維持に自信を持っている。
 戦争がさらに長引けば、欧米の武器供与なしには戦えないウクライナの劣勢は否めない。ロシアは地球上の陸地面積の6分の1を占める人口1億4千万人大国で、国連で拒否権を持つ安保理事会常任理事国である。世界最大の核兵器とエネルギー資源を持ち、中国、イラン、インドや多くの途上国と経済安全保障で繋がっている。

 それと比べれば、ウクライナは人口わずか4400万人の弱小国。米欧の支援がなければとっくに勝敗はついていたはずだ。ウクライナの不幸は、1991年の独立まで自分の国を持たなかったことだ。それまで何世紀もロシアやソ連の陰に隠れていた。

 とはいえロシアの完全勝利も難しい。戦略巧者のプーチンは恐らくクリミア併合維持と東部ドンバス地域の「自治」を条件に、交渉で戦争を終わらせる目論見だろう。そうすれば国内向けに面目も立つ。

 米欧にとっての悪夢は、ゼレンスキー大統領が野心を膨らませてクリミア半島の奪還を口にしていることだ。勝ちを狙ってゼレンスキーが過剰に好戦的だと停戦の障害になる。

 クリミア半島には複雑な歴史がある。かつては旧ソ連の軍需産業の要所で、ソ連崩壊当時は戦術核ミサイルや巡航ミサイルを含む数千発単位の核兵器が存在した。現在でも住民の6割はロシア語を話す。ロシア海軍黒海艦隊の基地でもある。
 
 そんな地域をプーチン大統領は絶対に譲らない。クリミア防衛のためなら小型核爆弾を使う可能性も否定できない。いくら何でもそれはないだろうと思いたいところだが、ルネッサンスの現実主義者ニコロ・マキャベリは次のような鋭い指摘をしている。

 「現実主義者が誤りを犯すのは、相手も自分と同じように考えていると思って判断したときだ」

 副大統領時代からウクライナ問題に精通しているバイデン米大統領の狙いは同国の完全勝利ではない。ウクライナが負けないようにしながら、ロシアを可能な限り弱体化させて激化する対中政策に専念することだ。

 スイスのダボスで開かれた昨年の世界経済フォーラムでヘンリー・キッシンジャー元米国務長官は、「戦争を終わらせる唯一の手段はウクライナが妥協して国土の一部をロシア側に譲ることだ」と発言して参加者の怒りを買った。
 しかしベトナム戦争を終結させ、中国との国交正常化を成し遂げ、核戦争のリスクを抱えたソ連とのデタント(緊張緩和)を成功させた戦後最大の地政学者の発言にもっと耳を傾けてもいいのではないか。

 キッシンジャー翁によれば、ウクライナ戦争の早期終結のために重要なことは米欧とロシアが角突き合わせることではなく、協力しあって可能な限りもっと安定的な状況をつくりあげることだという。

 ウクライナ対ロシアという構図より、米欧対ロシアという大きなフレームワークの中でバランスをとって平和を構築せよというのだ。まさに慧眼である。戦争終結には米ロ間の停戦合意が不可欠だ。だが状況は危険な結末を予感させる。(終) 
                                                          (写真はCNN.co.jp)

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