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アメリカに戦争を仕掛けた男、ビンラディンとは何者だったのか

 空前絶後の9/11米同時多発テロ事件から今日でちょうど20年を迎えました。テレビ中継された想像を絶する光景は全世界に激しい衝撃を与え、その日を境に世界の景色が変わったようでした。

 事件から一週間後に航空機の運航が再開されるとすぐに私は現地に飛び、無残なテロの爪痕を取材しました。炎上し轟音とともに崩れ落ちたニューヨークの世界貿易センタービル。無残に突き破られたバージニア州アーリントンの国防総省本庁舎(ペンタゴン)。ハイジャックされ米議会議事堂に向かう途中で犯人と乗客がもみ合いになりペンシルベニア州で墜落してバラバラになったユナイテッド航空93便の残骸。

 19人のテロリストを含む3000人近く(日本人24人)が死亡し、25000人以上が負傷した大惨事でした。とりわけ2753人が死亡した世界貿易センタービル跡は「グラウンドゼロ(爆心地)」と呼ばれました。

 それにしてもアメリカの軍事、政治、経済の中枢を乗客が乗った民間航空機で攻撃するという空前絶後の作戦はどのようにして発案・実行されたのでしょうか。

 その答えを知るためには、国際テロ組織アルカーイダの指導者で事件の首謀者だったオサマ・ビンラディンの生い立ちまで溯る必要があります。

 1957年3月10日、ウサマ・ビンラディンは建設業で財をなしたサウジアラビア有数の富豪の一族として生れました。その後、敬虔なスンナ派のイスラム教徒の父の下で育てられ、首都リアドに次ぐ大都市ジッタの一流大学に進学。経済学や経営学を学んでいます。

 宗教上の理由からか音楽や映画を好みませんでしたが、サッカーが大好きでイギリスの名門プロサッカークラブ・アーセナルFCのファンでした。戒律の厳しい母国を抜け出してはレバノンの首都ベイルートにある派手なナイトクラブやカジノに頻繁に出没したとのこと。190センチを超える長身で甘いマスク。女性とも遊び、酒も飲みました。

 早い話が、人も羨むような典型的なエリート富裕層の若者だったのです。そのまま父の仕事を継いでいれば、大金持ちの経営者として自由気ままな人生を送れたことでしょう。

 しかし、ビンラディン青年はやがてイスラム同胞団の理論的指導者だったエジプトの作家サイイド・クトゥブの思想に感化されていきました。クトゥブは反世俗主義、反西洋文明主義者でした。イスラムの教えのみが真の文明社会を実現できると信じてイスラム社会の建設を訴えていました。同時に「堕落した物質」のアメリカを痛烈に批判。この考え方がその後ビンラディンの「ジハード(聖戦)」の思想的原動力になったのです。

 1979年、ビンラディンの人生にとって大きなターニングポイントが訪れました。ソ連軍のアフガニスタン侵攻です。第2次大戦後初めての非イスラム勢力によるイスラム国家の占領はアラブ世界を震撼させ、彼の内に秘めた闘争心を掻き立てました。

「私は怒りに燃え、ただちにアフガニスタンに向かった」 その頃を振り返って彼はアラブ人ジャーナリストにそう語っています。

 憤慨したビンラディンは、ソ連軍に抵抗する「ムジャヒディーン(ジハードを遂行する戦士)」に資金援助をするだけで飽き足らず、活動拠点をアフガニスタンに移して自分自身も戦闘に参加するようになりました。アフガニスタンで共に戦ったパレスチナ兵士はビンラディンのことを「恐れを知らない男」だったと称賛しています。

 「彼は我々の英雄だった。常に最前線で戦い、いつも誰よりも先を行った。資金を提供してくれただけでなく、彼自身を我々のために捧げてくれたのだ。アフガン農民やアラブの戦士と共に寝泊まりし、いっしょに料理をつくり、食べ、塹壕を掘った。それがビンラディン流のやり方だった」

 1988年には、ソ連撤退後も世界各地でジハードを展開するため同志とともに国際テロ組織「アルカーイダ」を設立。翌年2月にソ連がアフガニスタンから撤退したことで、「強大な超大国を倒した英雄」として彼の名はアラブ世界で知られるようになりました。

 1990年、イラク軍が隣国クウェートに侵攻し湾岸戦争が勃発した際には、メッカとメジナというふたつのイスラムの聖地があるサウジアラビアに米軍の駐留を認めたサウジ王家を「背教者」と非難し、さらに過激な反米活動へ突き進んでいきました。

 サウジ王家から国外追放されたビンラディンはスーダンに拠点を移し、持ち前の優れた交渉力で各地のイスラム戦線との関係を強めて「アルカーイダ」を国際テロ組織へと発展させていきました。パキスタンの軍統合情報局(ISI)によると、最盛期には少なくとも30の異なるテロ組織とアライアンスを組んでいたそうです。彼は武勇だけでなく優れた交渉力も持ち合わせていたのです。


 1992年12月には米軍が滞在していたイエメンのホテルを爆破。翌年2月には同時多発テロの序章となった手製爆弾によるニューヨークの世界貿易センター爆破(6人死亡)など、宿敵アメリカに対する「報復」をさらに激化していきました。

 とりわけ、銃撃戦によって19名の米兵を殺害し米軍戦闘ヘリ「ブラックホーク」を撃墜した1993年のソマリアの首都モガディシュでの戦闘は、ビンラディンにとって大勝利の瞬間でした。よほど嬉しかったのでしょう。イギリスのインディペンデント紙の記者に次のように語っています。

「(ソマリアでの)米軍の士気は驚くほど低かったよ。そして我々はアメリカがペーパータイガー(張り子の虎)にすぎないということを確信したんだ」

 ふたたびアフガニスタンに戻ったビンラディンはタリバン政権の庇護を受け、最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築き、1998年にはタンザニアとケニアの米国大使館をほぼ同時刻に爆破。アメリカ人12人を含む224人を殺害しました。さらに2000年10月にはアメリカ海軍駆逐艦「コール」に自爆攻撃を仕掛け17人の水兵の命を奪っています。

 そしてついに運命の2001年9月11日がやってきたのです。じつは事件の数年前、

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