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その時、僕は市街戦の中にいた(3)

 いったい誰が集まった群衆を先導あるいは扇動して最高会議ビルに突入させたのか。その疑問の答えは未だ釈然としない。しかし10月3日の大規模衝突がエリツィン大統領に武力行使の口実を与えた事は間違いない事実だ。

 エリツィンはモスクワ市内に非常事態を導入する大統領令を出し、4日朝から戦車を含むロシア軍を投入し、最高会議ビルの攻撃に踏み切った。政治的に中立を守ってきた軍が、結局政府側についたことが対立する大統領と議会の明暗を分けたわけだが、その裏には4日未明に大統領自らがこっそり国防省に乗り込んで軍を説得していたことが後に明らかになった。

 ルツコイとハズブラートフからしてみると、軍は中立を守り地方の保守派が議会支持にまわるという読みが外れたわけだ。

 ドーンと腹に響く轟音とともに戦車砲から発射された砲弾が真っ白な最高会議ビルに命中。離れてみていると窓ガラスが雪の結晶のようにキラキラと舞い落ち、やがてビルは炎と黒煙に包まれた。

 モスクワ市民の間ではホワイトハウスと呼ばれたこのビルは、1981年に有明なロシアの建築家ドミトリ・チェチューリンの設計で建てられ、いわば新生ロシアの象徴でもあった。1991年8月のクーデーターではエリツィン自身がその議会ビルに籠城していた。そして当時、彼を支えたのは今回の武力衝突で敵となったルツコイとハズブラートフだったのだから、まさに歴史の皮肉としか言いようがない。その歴史の皮肉がモスクワのモニュメントだった最高会議ビルを黒く煤けた墓標にしてしまった。

 8時間におよぶ抵抗の末に数百人がビルからゆっくりと投降する人々の姿を目の当たりにして、前日にビルの中で出会った子供やおばさんたちは無事に脱出できたのだろうか気にかかった。数十人と発表された死者の数は、現場を目撃した者として私はもっと多かったのではないかと思っている。

 2日間にわたった流血のモスクワ騒乱はほぼ同時進行でテレビ映像として世界に伝わった。テレビジャーナリストでありながら、長年の活字時代をひいずっている私にとって、その映像はとても恐ろしいものであった。なぜならそこには勧善懲悪の派手な戦闘が余すところなく映し出されているのだが、議会ビル内で恐怖に震えた沢山の人々の姿が無かったからだ。

 黒煙をあげて燃え上がるホワイトハウスはあったが、国民を守るべき軍隊が自国の議会に、そして広い意味での同朋に戦車砲を撃ち込む光景を見つめるロシア人の心の痛みは写し出されていなかった。

 手前味噌になるが、私はモスクワからの生中継で、この市街戦が最高会議ビルを中心にせいぜい半径2キロの範囲で起きたことで、それ以外のモスクワは基本的に通常と変らない生活をしていたことを強調したつもりだ。それがせめてもの私が表せるバランス感覚だった。「迫真のレポート」は私にとっては勲章であると同時にテレビジャーナリズムに身を置く自己矛盾の姿でもあった。

 テレビはまず映像で勝負しなければならないが、活字の記者生活が長かった私には刺激的映像を重視する傾向は現実を安物の鏡のように歪めて映しているように思えたからだ。

 さて舞台になったロシアはといえば、エリツィン大統領が議会派制圧の勢いをかって訪日した後、矢継ぎ早に強権を発動したあげくに、議会選挙はするが同時に約束していた翌年の大統領選挙はやらずに96年の6月の任期満了まで務める気満々だった。ロシアの宿命ともいえる独裁政治への歯車は止まらず、辞任を余儀なくされたエリツィンは晩年プーチン大統領の監視下で命を閉じた。(終)

 

 

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