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タイの総選挙で野党が勝っても軍の政治関与を止められないわけ

 幾度となく取材で訪れすっかり好きになった「微笑みの国」タイ王国で今月14日、政権交代を賭けた4年ぶりの下院総選挙が行なわれた。政治的分断、激しい貧富の格差、王室の凋落はいつものことだが、今回は若い「Z世代」の変化への渇望が際だった。
 
 翌日の途中集計(99%)によると、軍や王室の改革を訴え選挙戦終盤で急速に支持を拡大した革新系の前進党が第1党に躍進。第2党となったタクシン元首相の次女、ペートンタン(36)を首相候補にひとりに据えるタイ貢献党と合わせて議会下院の過半数に達した。一方、2014年のクーデターで実権を握った元陸軍司令官だったプラユット首相率いる親軍政党は低調に終わった。軍主導の政治に対する有権者の不満が反映された格好だ。
 
 「衝撃的だ。今や前進党が国民の圧倒的な支持を得ていることが明らかになった。新政権は独裁的でも軍主導でもなくなることは確実だ」
 
初の総選挙に臨んだピタ党首は笑顔でそう述べて喜びを露にした。弱冠42歳のピタ党首は元下院議員で、ハーバード大学ケネディ行政大学院で公共政策修士号を取得したリベラルでルックスもいい。
 
最低賃金の引き上げや子供手当の支給、軍の予算・規模縮小、新憲法の起草などに加えて同国で最大のタブーといわれる「不敬罪」の改正を訴えた。その明確な政治姿勢が「Z世代」(1990年代後半から2012年頃に生れたインターネット世代)の若者たちの熱烈な支持を集めたのだ。
 
しかし、政権交代で民主政治を実現出来るかどうかはここからが本番だ。なぜなら、議席確定後に行なわれる首相指名では今回選挙が行われた下院議員500人に軍政下で任命された上院議員250人を加えた750人の過半数376人以上の支持が必要だからだ。上院議員の多くは親軍政党に投票するだろう。政権奪取には連立しかない。
 
前進党はタイ貢献党との連立協議に「オープン」だとしているが、首相の座を巡って権力闘争が起きるだろう。不敬罪改正など政策面でも両党の間には大きな隔たりがあり、今後の連立協議が暗礁に乗り上げる可能性がある。
 
そんな中、タクシン色の強いタイ貢献党が軍事政権の流れを汲む政党と連立を組む「密約説」がまことしやかに囁かれた。しかし親軍与党との連立はタイ貢献党にとっても反軍支持層の離反を招きかねないから一筋縄ではいくまい。
 
激動するタイの政治事情はきわめて複雑だ。それを理解するには1997年のアジア通貨危機まで溯る必要がある。アジア通貨危機とは、投機的手法で高い利益を追求する米国などのヘッジファンドによって引き起こされたアジア各国の通貨急落現象だ。タイも倒産や失業など深刻な経済危機に陥り、農村部から都市部の中間層まで政府に対する不満が爆発した。
 
そこに登場したのが元警察官僚で実業家としても名を馳せたタクシン・チナワットだった。彼は出身地であるタイ北部を中心に「3年の借金返済猶予」「すべての村に100万バーツを配る村落基金」など大衆受けするポピュリスト政策を掲げ2001年の選挙で勝利して首相になると、その後も連戦連勝。
 
 だが、彼の政策は北部優遇で既得権益の打破を訴えていたため官僚、軍、司法や南部都市部の中間層からの反発が強まり、タクシン自身も不正蓄財で最高裁から有罪判決を受けて2008年に海外逃亡。しかし、2011年の総選挙でもタクシン派が圧勝、タクシンの妹であるインラック・シナワトラが初の女性首相に就任した。理由はタクシンの「バラマキ」政策の恩恵を受けた貧困層や農村部での支持が相変わらず根強かったからだ。
 
インラック首相は「恩赦」で強引に兄を呼び戻そうとしたが、ずさんな政策で経済が混乱に陥り、国民の怒りが2013年に反政府行動として爆発。業を煮やした国軍が翌年クーデターで政権を奪取して国軍出身のプラユット首相をトップとした現在の政治体制へと繋がった。2017年、最高裁から職務怠慢で実刑判決を受けたインラック被告も兄同様に国外へ逃亡している。
 
 タイでは1932年以降10回を超えるクーデターが成功。そのうちの3回は1977年以降に起きたものだ。しかし国家的危機に際しては威厳と人徳で国民からこよなく愛された故プミポン国王が一喝すれば平定することができた。しかし、後継のワチラロンコン新国王からはそんな威厳もカリスマ性も感じられず、王室の凋落は目を覆うばかりである。
 
女性問題や奇行で国民の評判はさっぱり。子供7人、3回の離婚歴。戴冠式直前になってタイ航空元客室乗務員との結婚を発表。その上、ヌードパーティの動画まで流出している。タイでは国王を侮辱することは重罪にあたるが、国民は不安の表情を隠しきれない。王室改革も焦眉の急だ。
 
それだけではない。政治的混乱の中で汚職が蔓延し貧富の差が拡大している。上位1%の富裕層が国の富の66.9%を占めているタイは、世界で最も貧富の差が激しい国なのである。中国人の犯罪シンジケートによる政界・財界汚染も明るみになっている。若者の間で民主化を訴える声が高まるのも当然だろう。
 
 
東南アジアの代表的工業国であるタイ(人口6600万人)には約7万8千人超の日本人が在住し、同国に進出している日本企業の数は5800社以上。日本の自動車産業の一大生産拠点でもある。タイの政情不安は日本にとっても対岸の火事では済まされない。

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