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タイムトラベル・ガイドブック。都市の生成と変貌を追体験! 『新・大阪モダン建築』の魅力 /前編

ベストセラー『大大阪モダン建築』の続編として刊行した本書について、編著者の三木学さんにたっぷり前後編で語っていただきました!

伸びゆく大阪

伸びゆく大阪01

ここに1冊の広報誌があります。『伸びゆく大阪 EXPO’70』と題されたこの広報誌のクオリティに瞠目しました。『伸びゆく大阪』は、大阪市広聴部が編纂した広報誌で、1970年は万国博覧会協力部と共同で刊行されましたので、表紙は大阪万博になっています。 
少し中身をみてみましょう。

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今とは違うアナログな技術によるものですが、洗練された写真とデザインで、未来に向かう大阪の熱気と力が伝わってきます。この広報誌は、大阪歴史博物館の建築担当主任学芸員だった酒井一光さんに、「戦後建築」の本の打ち合わせに行った際、見せていただきました。酒井さんは10年以上前、すでに財団法人大阪都市協会が発刊していた『大阪人』(2005年1月号)で「戦後建築(1945~68)」を特集されていました。

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取り上げられているのは、新歌舞伎座、新ダイビル、新大阪駅、大阪カテドラル聖マリア大聖堂、北御堂、フジカワ画廊、本町ビルディング、日本工芸館、西谷ビル本館、大阪タワー、味園ビル、西長堀アパートなどです。

それから時が経ち、すでに新歌舞伎座、新ダイビル、大阪タワーなど多くの戦後建築が解体されていっています。1956年の『経済白書』の序文に書かれた「もはや戦後ではない」という有名な一節がありますが、いつの間にか街の中に「もはや戦後はナイ」状態になってきているのです

戦後建築ブーム到来!

明治から昭和初期までの現存する大阪の近代建築を紹介した前作、大大阪モダン建築発刊の後、「大大阪」はモダンな時代として浸透しました。また、近代建築は、全国各地で評価され、建築街歩き、建築巡礼の本が多数出版されるようになりました。

そして、古い建築に向けられた目は、その後の街のピークである高度経済成長期の建築に向けられていきます。共著者の髙岡伸一さんらは、BMC(ビルマニアカフェ)という1950年代~1970年代のビルを再評価するグループを結成し、ミニコミ誌(ZINE)や書籍を刊行していきます。

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また、同じく共著者の橋爪紳也さんと髙岡伸一さんらは、2013年より、大阪市の事業として「生きた建築」という誇れる街の建築をセレクションし、街のアイデンティティにする「生きた建築ミュージアム」という構想を推進していきました。それは、「生きた建築ミュージアムフェステバル(イケフェス)」という、建築一斉公開イベントに発展していきます。2016年からは運営が民間に移り、毎年、100件以上、4万人を動員する、日本最大の建築一斉公開イベントに成長していました。

失われた建築、失われた未来都市を求めて!

そのような大阪の建築が盛り上がりを見せる中で、『大大阪モダン建築』の続編として、戦後から高度経済成長期の建築を紹介する本を企画しました。
大阪の場合、大阪万博はその最後を飾る象徴的な存在でもあります。

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「未来都市」を作った大阪万博は象徴的ではありますが、そもそも仮設のパビリオンが中心であり、保存運動の末に残った太陽の塔をはじめ、鉄鋼館(現・EXPO’70パビリオン)、日本万国博覧会協会本部ビルなど、わずかしか現存していません。また、現存している建築のガイドブックは多数出版されているものの、逆に現存している建築を重視しすぎると、建てられた当時の影響力を見落としてしまいます。
『大阪人』の特集にように、「戦後建築」は、本を出してからもどんとん解体されていくということも課題でした。

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ですから、企画を考えるにあたり、「今」ではなく、「当時」へ視点を切り替え、都市と人々にとつて重要だった建築や土木建造物を取り上げ、都市の生成と変貌を追体験するというコンセプトにしました。

方針は以下のようなものでした。

● 現存、解体に関係なく、焦土から急速に立ち上がっていく都市の生成と変貌を表現すること。

都市と建築が融合していく、戦後の大阪を表すために高速道路のような土木建造物も入れること。

大阪万博は突如できた「未来都市」ではなく、大阪市街の都市計画と並行
して、あるいは大阪万博が大阪市街の都市計画を牽引したことを示すこと。

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そして、現存している建築を中心にしたガイドブックではなく、シンボリックな建築や土木建造物を時系列に、竣工当時の写真を使って紹介することにしました。言わば小さなタイムマシンであり、タイムトラベル・ガイドブックなのです。そのイメージを決定づけたのが「伸びゆく大阪」だったのです。

新・大阪モダン建築誕生

戦後、近代建築は残ったものの、空襲で多くの木造建築は焼けてしまいました。そして、鉄筋コンクリート造の街へと生まれかわっていくのです。戦前、ネオ・ルネサンスなどの歴史主義、セセッション、アールデコなどのさまざまな様式は、戦後はモダニズムの時代になり、厚いコンクリートの箱型の固まりのような建築が増えていきます。

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そして、大量の住居が焼失したことによる住宅難に悩まされるようになります。「公団」(日本住宅公団)などの集合団地が各地ででき、千里ニュータウンなどの郊外のニュータウンが発達していきます。また、通勤電車が増強され、車が身近になり、郊外から大量に車が流入するようになります。

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それに伴い、郊外から都心まで、地下鉄や高速道路など、交通網が非常に発達し、高架や地下が有機的に連結され、街自体が一つの生命体のようになっていきます。「水都」と言われた戦前の堀川は、埋め立てられ空中に高速道路が周遊し、駅と通路と百貨店などを結んだ巨大地下街が誕生します。

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独立した建築というよりも、都市と建築は、切り離されたものではなく、ひと連なりのようになっていくのです。都市は建築に、建築は都市になっていきます。特に大阪は、土地が狭く、地盤が低く、台風による高潮の被害も大きいため、大大阪時代を牽引した関一市長の時代から、さまざまな都市計画をせざるを得なかったという事情もあります。

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大大阪時代の構想は、戦後において実現されたものもたくさんあります。また、戦後に新たに構想されたものも当然あり、その2つの輪が「新」や「伸」と言ったイメージで語られていきます。「新」は建築の名前に多く付けられ、都市は地下鉄や高速道路の延伸など、「伸」と言う言葉で語られていきます。大大阪時代と比較した場合、その時代精神は「新」「伸」大阪時代と言えるでしょう。そしてその時代の建築を私たちは、「新・大阪モダン建築」と名付けたのでした。

本書の経緯は以上のようなものですが、後半では個別に魅力的な建築を紹介していきます。


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