人の「考える力」がここまで発達したのは「暇だったから」

ありきたりな疑問です。
それでいて中途半端な疑問。
もちろん、科学的に見れば「脳」の発達の仕方やら遺伝子やらが関係しているのでしょう。
私はその辺りは何ひとつ知りません。
考えたいのはもう少し曖昧な部分です。

学校では、
「人間が考えるようになったのは、他の動物に比べて身体的能力が低く、考えることで生き残ろうとしたため」
と学びました。もちろん、それも分かります。
生き残るために頭を使って狩りを行い、感情や表情を身に付けて家庭を持ち、社会を形成する。そのためには考える力が必要です。

ただ、今の私たちの「思考」は「生き残る」だけに留まっているでしょうか?

生物の進化というのは基本、生き残るため、必要に駆られて行われてきたもの。
今わたしがこんなことを考えるような思考はとても生き残るのに必要とは思えません。

ならばなぜ、生き残るのに必要な思考力以上に、考える力が成長したのか?

私は、こう考えます。
「暇になったから」
ではないかと。

頭を使って生き残る力を身につけ、他の動物たちよりも優位な立場になり、生きるのに精一杯だった時代は過ぎた。
ならば、次に訪れるのは「余裕」
言い換えれば「暇」なのです。

今でも私たちは、忙しかったものが急に暇になると、ぼーっとどうでもいいようなことを考えたり、関係のないことを考えたりしますよね。
祖先も、同じことをしていたのだと思います。

思考力が身に付いて余裕が出来たから、無駄なことができるようになった。すると、さらに多種多様なことを考えるようになり、文化や学問がうまれた。ただそれだけの話だったのではないかと。

身体的特徴の発達で生き残ることができた動物たちの限界は早かった。
たまたま無限の可能性を秘めた「考える力」が発達したから優位になり、無駄がうまれ、無駄が無駄ではなくなっていった。だから「人間」となれた。

もしこれが本当なら、これもまた奇跡ですね。

もし既に答えが存在するのでしたら教えていただけると嬉しいです。

今の私がこんなことを考えられるのも「暇」だからでしょうかw
でも実際、お風呂に入っている間というのは色々なことを考えてしまいません?w
お風呂はそういう場所だと思っています()


「考える力」の起源を考えてみたわけなのですけれど、実はその前に、現代における「考える力」の善悪について考えておりました。白黒つけられるものではありませんが、少し想像してみたいなと。
まぁ、きっと、それは、また、いつか。

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