ワグネル卒業によせて
先日、ワグネルを卒団し、演奏者としてひと区切りを迎えました。
もう、ワグネルの一員を名乗ることはできません。また、しばらくの間は舞台に上がることもありません。
ワグネルにも、音楽にもひとまず悔いはありませんが、心に大きな穴が空いたようで、なにをやるにも夢うつつといった具合です。
唯一何かを実感したとしたら、不注意で料理中に手指にやけどを負った際、とっさに次の本番の日程を確認して次の本番など存在しないと気づかされたときでしょうか。なんとも言えない空虚な感覚に襲われました。
気持ちの整理は未だにつきませんが、今しか綴ることのできない言葉があると思い、おもむろに筆を執るわけであります。いわば、私の卒業作文、簡単な自叙伝のようなものになります。長くなりますが、よろしければお付き合いいただけると嬉しいです。
無知ほど恐ろしいことはありません。しかしながら、今考えるとありえないようなアグレッシブな決断ができたのは無知だったからにほかなりません。
6年前、僕が高校1年生の頃に高校ワグネルに入り、オーケストラを始めました。楽譜も読めないのになぜ音楽を始めたのか、今でもよくわかっていません。中学まで課外活動はかなり力を入れていたので、高校に入ってからは部の端っこで慎ましく生きようと考えていました。
そんな考えは、いつの間にかさっぱり消えていました。始めてから数か月間はただただオーケストラの中で演奏することが楽しい、自分の音が出ることが嬉しい。周りにいる先輩や同級生たちはなぜこんなに上手に演奏できるのだろう。そうやってひたすらに練習していました。最初の1年で指導してくださった方々は演奏者としての自分を形作ってくれた方々にほかならず、自分にとって今でも特別な存在です。
はじめて数か月の楽器で仲間たちのレベルに達することは難しいと悟り、同期で誰もやったことのなかった指揮を始めてみることにしました。楽譜を読むのもままならない段階で指揮を始めるとは、また攻めた選択をしたものです。自分が腕を振り下ろすと、オーケストラが鳴る。その喜びと同時に、責任感や恐怖を覚えました。興奮からか緊張からかわからないあの胸の高鳴りは、幾度も指揮台を経験した今ですら感じるものです。
そのようにして、私の音楽生活はゆっくりと動き出しました。常に1歩前しか見ずに歩いていたら、いつしか100人ほどの団員の真ん中にいました。
高校ワグネルは、まさに自分を育んでくれた場所です。高校生という未熟な時期に、有り余るエネルギーを使い切る勢いでオーケストラと向き合った時間はとても貴重でした。
3年生になると、私は正指揮者となり、文字通り団をコントロールする役目を担いました。
正直、記憶はあまりありません。記憶していられないくらい、毎日を必死に生きていたのだと思います。リハーサルをどう進めようか。どうすれば理想の音に近づけるのだろう。あの子は最近晴れない顔をしているけれどどうしたのだろう。棒を振ること以外にも、考えることは無数にありました。そんな中で、不器用な僕には、ワグネル以外のことを考えることなどできるはずもありませんでした。
指揮台に立つと、仲間であるはずのみんなが敵に見えたこともたくさんありました。合宿で思うようにいかなくて、自分の部屋に鍵をかけて引きこもったこともあるほどです。それほど青かった自分についてきてくれた仲間たち、そばで支えてくれた友人には本当に感謝しています。
そうして1年間もがきながらたどり着いた定期演奏会直前の2020年2月末。突然、かの疫病が我々の夢舞台を奪っていきました。
言葉では言い表せない喪失感、悔しさ、無力さで何日も泣きました。誰のどの慰めも自分の心には届かず、温かいはずの言葉も生ぬるく聞こえました。
実は、高校ワグネル卒団をもって音楽から離れようと考えていました。それだけ高校ワグネルに懸けるものが強かったし、体力も精神力も消耗しきっていたのでしょう。
あの経験は本当に悲しいものでした。今でも当時の感情を美化することなど到底できません。しかし、時間が経った今振り返ってみると、あれがあったからこそできた経験もたくさんあったのは事実です。
公演が中止になったとき、大切な友人たちが同じようなやるせなさと闘っているのを目の当たりにしました。自分に彼らの涙を止めることはできないかもしれないけれど、希望となることはできるかもしれない。そう思い立って、あの頃目指した東京芸術劇場で、リベンジ公演を自主開催することを決めました。
師にも相談をして、リベンジの舞台で指揮台に立つとしたら、どこかで奏者としてオケを続けておいた方がいいということを言っていただいて入団を決めたのが大学ワグネルでした。各所から怒られそうですが、入団の決め手はかなり消極的でした。要は、コロナがなければ大学ワグネルに入団していなかった可能性があるのです。そうなると当然、今の自分はありません。1年目はほとんど活動ができず、悪戦苦闘されている先輩方を見ながら結局あっけなく終わったことを覚えています。
大学2年生になって、再演オケの練習が始まりました。ありがたいことに、散り散りになった仲間たちが集まってくれました。とはいえコロナ禍は続いており、緊急事態宣言が出たり出なかったりといった状況での活動。散り散りになったからこそ生まれたモチベーションの差、環境の差。再演という枠組みだからこその難しさに、やはり頭を悩ませました。
満足いくリハーサル時間が取れなかったのも、自分の力量が足りていなかったのも事実です。ただ、あの演奏会の舞台に私の目指した音楽の答えがありました。顔を合わせてともに譜面と向き合い、空気を共有することでしか満たされない感覚を取り戻すことができました。一生忘れられない経験です。
また、コロナによって突然、仲間と音楽を紡ぐことができなくなったあの日から、リハーサルのどんな些細な音であっても「これが人生最後の音になっても悔いのないように」という意識が芽生え、奇しくも疫病によって気づかされた大切な教訓とともに私の大学オケ生活も幕を開けたような気がします。この1年で、大学ワグネル(以下ワグネルと記)の多くの人と出会い、また、大学のサークルならではの目新しい文化に触れました。
我々が大学生として過ごした4年間は、どの団体にとってもそれ以降の身の振り方を考えねばならない時期にあったと思います。当然、ワグネルも過渡期を迎えていました。
もちろん難しい時期だったものの、自分にとってそれはチャンスでしかありませんでした。偶然にも、3年生からパートトップを仰せつかり、指揮台に立たせていただく機会も増え、またも気づいたころにはワグネルのど真ん中にいました。もう、ワグネル入団時の消極的な感情など忘れ去っていました。
しかしながら、ワグネルのパートトップとして過ごした2年間も、苦難の連続でした。何をどのように伝えたら音楽が良くなるのか、音楽が良くなったと実感してもらえるのか。みんなが楽しく音楽に取り組めるのだろうか。リハーサルのためにかかる準備は、毎日朝方までかけても足りないくらいで、やはり寝ても覚めてもワグネルのことを考え続けました。その原動力は常に、他でもないワグネルでいい音楽がしたいという思い以外にありません。また、準備したものすべてがうまくいくとも、そもそも明るみに出るとも限りません。それでも、団のことを一秒でも長く・真剣に考える人間がいることが団のためになると信じて考え抜いてきました。僕が小難しいことを考えている間も、そばにはいつも、寄り添ってくれる仲間がいました。
ワグネルは、人数が多いサークルである以上個々の技術や活動に割ける時間、ひいてはモチベーションも千差万別になります。ここがオーケストラ運営を難しくするわけです。ただ、ワグネルに入ってくる新入生は、その演奏水準の高さと組織としてのブランドに多かれ少なかれ憧れを抱いて門を叩きます。そうして集った多様なバックグラウンドを持ち合わせた団員をひとつに束ねる原動力は、「良い音楽がしたい」という純粋な熱意にのみあると考えました。
さて、120年の歴史をもつワグネルは、以下の理念のもと活動しています。
我々があこがれた「ワグネル・ブランド」は決して常に一定のものではなく、常に変化してゆくべきであると「ワグネル」という名前それ自身が語っているのです。
いっぽうで、団体規約には、以下のように記されています。
伝統に縛られない。伝統を重んじる。
少なくとも、「伝統」というワードはワグネルを解き明かすキーワードであることがわかります。ここに着目して話を進めていきます。
ワグネルで活動している中で、120年の歴史や伝統を感じる機会は多くありました。時代が変化すると当然アプローチは変化します。しかしながら、どの時代であれ、少しでも充実した演奏活動のために尽力されてきた先輩方と出会うたびに、身の引き締まる思いがしました。
それらとどう向き合っていくか、どのようにして想いを受け継いでゆくか。これらは、ワグネリアンとして考えるべき、重要なテーマだと思います。
ここで、偉大な作曲家であるグスタフ・マーラーの言葉を引用します。
ワグネルには偉大な先輩方が大勢いらっしゃいます。それぞれがそれぞれなりの愛情をもって、ワグネルに接してくださっています。これは大変ありがたいことで、ワグネルがワグネルたる原動力にほかなりません。また、第一線でご活躍されているトレーナー・指揮者の先生方も、ワグネルに多大なる愛情をもって、ご自身の経験をそのお言葉に惜しげもなく込めてご指導してくださっています。
しかしながら、今のワグネルは今のワグネルにいる人間にしか動かすことはできません。最も今のワグネルのことを考え、ワグネルを愛するべきなのは、他でもない現役の団員なのです。その意味で、ワグネルは「灰の崇拝」に傾きすぎていると感じていました。大切なのは、先輩方から受け継いだ炎を絶やさず伝えてゆくほうにあるのではないでしょうか。良くも悪くも、過去のワグネルには戻れないのです。新たな道を、自分たちで切り拓かねば、先輩方に笑われてしまいます。伝統を重んじることと伝統に縛られないこと。両者の中間に、今後のワグネルが目指すべき形があると思っています。
このようなことを考えながら、勝手にワグネル120年の歴史と、コロナ禍で海外演奏旅行が叶わなかった1つ上、2つ上の先輩方に加えて、事情があって一生に渡航することの叶わなかった仲間たちの想いを背負って、ワグネル人生最後の海外ツアーに飛び立ったわけです。
楽友協会のステージに立ったとき、無意識に胸に手を当てて天井を見上げました。背負っているものひとつひとつに、また世界一の「黄金のホール」に挨拶をしているつもりだったのでしょう。
引退公演のメインプログラム『火の鳥』は、幾度も匙を投げそうになりながら歯を食いしばって向き合ってきた作品です。その最後の和音を鳴らし切ったあとで受けた喝采は、サントリーホール、そしてムジークフェラインとブダペストのコングレスセンターのどれも心震わす美しい景色として一生記憶に残るはずです。
サントリーホールと楽友協会では、公演後に涙を流しました。どちらも本番が近づくにつれて体調がすぐれなくなってゆく感覚がありました。終わってみれば緊張だったのだと思います。重圧から解放された安堵の涙でした。
いっぽうで、引退公演だったブダペストでは満面の笑みで舞台を去りました。これで終わる寂しさなど感じる暇もないくらい楽しい一夜でした。
私は、音楽を通じてたくさんの素敵な出会いをして、たくさんの素晴らしい景色を見てきました。いっぽうで、理想の音に接近できないもどかしさを痛切に感じてきました。それは仕方ないことなのかもしれません。理想の音に接近するプロセスこそが、プロ・アマを問わない演奏家としての音楽の形であり、愉しさである気がしています。それを教えてくれたのはワグネルでした。たくさん苦しんで、何度もやめたいと思ったけれど、今はワグネルに入ってよかったと心から思います。
これから、自分は「自分とは何か」という大きな問いに立ち向かうべく、演奏活動から離れて大学院で研究に勤しみます。演奏者として舞台に立つことは、しばらくありません。自分の多くを占めていた音楽という要素を手放す怖さに加えて、喪失感もあります。ただ、これもまさにワグネルで培った野心、開拓者精神にほかなりません。自己研磨を惜しまず、今よりももっと大きな人間になったと自認できた瞬間が、もう一度舞台に上がる瞬間になると考えています。今は寂しいかもしれません。しかし、少し時間が経って振り返ったときに、ワグネルで過ごした日々はあたたかな光を帯びているに違いありません。
22歳のこの選択を正解にするために、これまでの財産を両手に抱えて邁進してゆきます。
ありがとう。ワグネル。さようなら!
そしてワグネル、永遠なれ!!
支えてくれた方々、本当にありがとうございました。
ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ
久保田 誠吾
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