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友達の定義。

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ここ数年の間
リアルで関わってきた間柄で唯一
「友達」
と言える人たちです。

職場の中国人実習生でしたが
女性の冯(フン)さんは
年が近いのもあって
帰国後も連絡し合っていた。
男性は钱(チェン)くん。
まだ20代だが
まじめによく働いてくれた。

パンデミックになる数年前に帰国した。

ロックダウンになった上海ではなく
郊外に住んでいるので
元気そうだった。
(中国版LINEの微信で様子が見れる)

私は
親しくなった人を安易に
「友達」
と呼べないルールを持っている。

SNS上で
実際お会いしている方には
大変失礼とは思いますが

相手から、友達だよ!と
言ってもらえる場合のみ
お友達と思っています。

私が「友達」とは?と
疑問に思うキッカケを
さかのぼること…約40年。

保育園時代に引っ越しで入園してきた

りょうこちゃんという子がいました。

何がきっかけで仲良くなったかは
さすがに覚えていませんが
この事だけは今でも鮮明に
その物を思い出すことが出来ます。

ゴミ箱に絵を描く授業で
私は保育園児ながら
けっこう上手に女の子を描けていました。

今でもよく見かける
おとうさんやおかあさんが緑色だったり
ハゲ散らかした頭だったり
そうじゃなくて
ホント、女の子を上手に描いてた記憶。

自分と友達を描いてたと思います。

それを見ていた横で
りょうこちゃんが

「わたしのこと、しんゆうってかいてね」

…と言ってきました。

子供心ながら驚いたのを覚えています。

当時、仲良しだった子が誰かは
あまり記憶はないんですが
りょうこちゃん以外に
元々の仲良しはいたと思います。

たった4、5歳くらいの子供が

「しんゆうってかいてね」

なんて
普通言いますかって
今でも思います。

中学まではずっと一緒だったんですが
りょうこちゃんは
賢い+運動神経抜群という
高スペックをお持ちで
頭が悪く、はみ出人間の私とは
別世界の人間で
関わることはほとんどありませんでした。

しんゆうってかいてねと言ったのにと。

もう一つ。

私が小学校1年生くらいの頃
子犬を拾ってきたことを
同じ登校班の同級生に話したら
見たい!というので
今日行くねと約束をして
歩いてその子の家に子犬を連れて行きました。

「今日あの子別の友達と約束あるからいない」

そう家人に告げられました。

あれ?
私って友達じゃなかったのかな?

子供の心変わりというか
約束なんて
今思えばその程度なんですが
子供の私には随分傷付きました。

それが根底にあるのかもしれません。

逆に言うと

私は独占欲が強いのかもしれません。

私のためだけに存在してるんだよね?

…そう思っていたのかもしれません。

だから
節目節目に関係を切るという行動が
簡単に出来るのかもしれません。

恋愛感情を持てないセクシャリティの私が
唯一
独占出来るのが

「友情」

だったんでしょう。

安易に友達と呼ばない理由は

相手が私みたいな人から友達と呼ばれたら
迷惑なのではないか。

相手は友達とは思っていないのではないか。

そう思うから
私は簡単に友達と言うことが
出来なくなりました。

各職場で仲良くはなれど
結局、離れていったり
私が思うことと違ったり。

私が上司という立場になるようになってから
余計に

「馴れ合い」

の関係は避けようと思いました。

仲良くしてるから
あれもこれもそれもどれも
許してくれるよね?
アタシ、中学の部活の先輩だよね?

…知らんがな。

私、部署の統括長なんで。

元々自分自身が
完璧じゃないと他人に注意してはいけないと
考えている部分があるので

頭ごなしに

それルール違反なんだよ!
(例え自分が守れていなくても)
なんで守れないんだよ!
あり得ないんだよ!

…とは
私は絶対言えません。

まず自分が完璧でないと
人に注意など出来ません。

お互いの関係性を理解してもらいたいので
「馴れ合い」とか「親しい」を
仕事に入れないようにしています。

でも

それもこれも何もかも

私なりのルールがあって
そのルールはキッチリ守ってきてて
私の生活基盤のほとんどを占める職場で
理由が特別にあって
自分の中で推し進めているルールなので
私以外の人には
真似してほしくないと思うんです。

なぜかというと

「友達」の定義が明確ではないからです。

友達と呼べない前提を説明して
どれほどの理解を得られるかを
考えた末に
私は言葉にします。

幼い頃に

別の友達と約束があると言われたからこそ。

今の職場で
既にその人たちは全員退職しましたが
ある事件がありました。

私は安易に友達と言っていいかどうかを
考えることがあると
親しい同僚に話していました。

その同僚は私の10も年下。

当時、職場内がとにかく酷くて
彼女が先に
突然、過呼吸発作を起こしました。

トイレに行ったかと思ったら
全く戻ってこなくて。

次に私が過呼吸発作を起こすようになった。
鬱の一番最後の症状でした。

それでも気が合って
お互い助け合って
深夜残業後にファミレス行ったりもしました。
舞台公演を見に
大阪へ何度か泊まりで行きました。
ストレスフルの日々を解放すべく
ユニバのゾンビナイトを体験しに行きました。

女二人旅は楽しかったです。

その翌年くらいに。

その子の本当の同級生、同僚が
私を見るなり涙目で話し始めました。

姐さんの言葉を
深く理由も追求せず使って
私はすごく悲しくなってと。

その二人がユニバだかディズニーだかに
一緒に行ったそうです。

その時に、その同僚が

「アタシ、友達いないんだよね」

そう言ったとのこと。

じゃあ、一緒に行った私は
中学からの付き合いの私はなんなんだと
泣かれました。

まさか
そんな形で
私の考え方を安易に口にするとは思わず
この彼女には
本当に申し訳ないと私が謝罪しました。

もしかしたら
その同僚も似たような考えを持っていたかも
しれませんが。

でも
彼女を10年見てきて
そんな深さはないかなとも思う。

友達と安易に言いづらい人がいる。

でもそれは
様々な積み重ねがあってのことで
自分が
この人の考え方が好きだから
同じようにしようというのは間違い。

自分がどう思うかが一番大事であって

言葉を発したら

受ける側が必ずいるのであって

その言葉をどう解釈するかは
その人次第であるということを
踏まえた上で

私は

友達と呼ぶことは
安易に出来ない。

と、していますし
言葉に出すことは
ほとんどありません。

聞いた人が傷付いてしまうからです。

私には
保育園児からの思いがある。

思い出したくもない中学時代がある。

関係性はその時代で全て
捨ててきた。

そんな私が

安易に

あなたを

友達

…なんて。

言っていいかどうかなんて
私の中の良心が咎める。

どうか傷付かないでほしいと思うから。

そして
安易に真似ないでほしいし
平然と口に出してほしくない。

なぜなら

ほとんどの人は
顔は知らずとも
親しくできるようになったら
友達だと認識してくれるからです。

そんな関係性なのに
繋がってくれてて
本当にありがとう。

…そう、言える側も
キチンと持っていてこそ
自分の主張をすべし…。

同級生であり同僚である人と
自費でテーマパークに行ったのに
友達いないなんて
平然と言えるなんて

友達という定義について
常々よく考え込む私にとっては
相手に非常に失礼千万としか言えない。

そんな人とは関係を絶っても
後悔しません。

私の好きなことに
本当に一緒に好きでいられる人と
末永く…

などと勝手に思っています。

どこの誰だか分からない人をサポートする勇気は私にはありませんがアセクシャル46歳田舎で独身工場生活に共感いただけたら仕事もまた頑張れます。