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私は屁をこいて寝ていたい。
文学喫茶とでも言うのだろうか。
週末、母と子供と主人で神社にお参りに行った帰りに母が見つけたしゃれたカフェに行った。
いつも思うけど、カフェと喫茶店の境界線ってゴム跳びに似てるきがする。
うっかりまたぐと引っかかってこけるのだ。
私の場合、深呼吸して長くいれるのが喫茶店。
カフェでまったり。これはなかなかできない。
なんか少し構えている自分がいる。
オサレなひとが後から後から入ってくるので、
大将が怖めのラーメン屋ぐらい慌てふためき
オープンサンドをおうっおうっとのみこむ。
喉元をすぎるかすぎないかの手間で
「ごっつぉさん!」
とそそくさと目も合わせず退出するのである。
そう。
わたしはオシャレすぎる人を怖がる傾向にある。
そんな話はどうでもいいんだけど、
その行ったカフェがすこぶる良かった。
何がいいって?
お店のミニマムさと、
書籍のジャンルである。
どうよ。
うち、どうよ。
という無言のマニアックアピールなどない。
古本なのだが、程よいラインナップなのである。
ほんとに、程よい。
電車で隣に座られても、ちょうどいいくらいのラインナップ。
置きたくなるシリーズの村上春樹が一冊もない。
プロバンスの食卓はある。
プロパンガスではない。
置きたくなるシリーズの古い暮らしの手帖がない。
猫の絵本はある。
ピンピンに研ぎ澄まされた、
ちょっと触れようものなら土の生産地からモンドセレクション⇦違う。の数まで察しなければならないようなセレショの器やのような雰囲気はない。
かわりに猫の絵のクッションがでてんとある。
なんか、いい。
多分私はオシャレすぎる世界に疲れ果てたのだ。
美しいモノやこだわり抜いたもの、
人生かけてセンス研ぎ澄ました!
みたいなのがなんかもう、疲れたのだ。
よく考えたら私はオサレな人間ではない。
疲れたとはずいぶん偉そうだ。ごめんなさい。
段ボールで家具を作る!
と一人暮らしを始めて半年くらいは段ボールで作った家具と共に暮らしていた。
ある梅雨の夜、
寝ていたら頭に全季節の衣類が崩れてきて死にかけた。
四季が一斉に襲ってきたのだ。
息ができなかった。
状況の把握もできないまま、
なんとか払い除け
やっとの思いで這い出た。
猫が冷ややかな目で見ている。
拾ってやったのに。
ちくしょう。
わたしは一人暮らしは恐ろしいとおもった。
猫は助けてくれない。
救助には向いていない。
この世の中には、
前世の古から存在する心底ハイセンスな人種がいる。
わたしは一年前、
「前世はバッタです。」
と断言された。
何バッタかは知らない。
人でもない。
バッタはいま、居心地のいい喫茶店を見つけては
「にんげんっていいな。」
って思っている。
つまり、
わたしは屁をこいて寝ているくらいでちょうどいい。そう言うわけだ。
なんてくだらない話なんだ。
我ながら素晴らしい。
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