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MILLE

 男と女では考え方が違う。私は愛したかったけど、それはずいぶんと滑稽なことだったみたい。
 それを伝えると、友人は口元を手で抑えながら笑いをこらえていた。ムカついて足元を軽く蹴ったら笑いながらこう言ってのけたのだ。
「それはな、相手がお前を持ち帰るのに失敗しただけなんだよ」
 私は少し拗ねて、どういうこと? と尋ねる。
「まず、飲みに誘われたって聞いた時点で俺はそういうことだと思ったよ。男っていうのは全員ワンチャンを狙っているんだっての。女に楽しい夢見させてあげる代わりの夢だって叶えてくれよって話じゃん」
 圧倒的な正論過ぎて、私は視線を虚空に彷徨わせた。最初から彼と私の間には「セックス」でしか繋がれていなかったのだ。透けて見えたその裏側を見えないふりして、ごまかして取り繕っていたのかも。いいえ、明らかに盲目のふりをしていたのは私だわ。彼の提供してくれた料理をおいしいって食べて、エスコートしてもらって、その代償に体を頂戴ね? って言う暗黙の了解に私は意識的に踏み込んでいたのかもしれない。気づいていながら、まだ大丈夫、ここまでなら……。ってラインを少しずつ引き延ばしていったのかもしれない。
 ヘンゼルとグレーテルみたいに、彼の置いたパンのかけらを私はまるでお砂糖のキューブでも見るような気持ちでつまんだ。その時の指先って朝露を弾くみたいに、ドキドキしていたと思うの。でも今となっては今まで彼との思い出をロマンチックに言って聞かせた自分が馬鹿みたいでやるせなくてそれが辛くて救いようがない。
 馬鹿すぎじゃん、私。あきれて涙も出ない。
 声に出してしまったら本当にやるせなくなってしまいそうで、私は目をぎゅっと瞑った。「まあまあ、元気出せよ。よかったんじゃないの? 逆に変な男に引っかからないでさ。」
 私は彼の方を向けずにいた。そうして、絞り出して発した言葉はこれだった。
「いつだって物語をドラマチックに仕立て上げるのは女の仕事なのね」
 要は有りもしない物語の続きを想像して、感傷に浸るのが女。男はその先なんてこれっぽっちも見ていない。薄情だわ。
「朝、目が覚めてすぐにスマホをチェックする気持ちって分かる? もしかしたら連絡が来ているかも、なんて淡い期待が目覚ましの代わりになるのよ。その時に通知が入っている安心感って肯定されていることと同義になるのよ」
 私は一方的にまくしたてると、一気にグラスの中身を空にした。酔いを継続させるためにはこれくらいの酩酊感のときに酒を地続きに飲み続けないといけない。そうするとあと数時間後にはいい感じに出来上がっている、はず。
 そう、いつだって物語をドラマチックに仕立てるのは女の仕事。本当にあった出来事の主旨は単にホテルに連れ込まれそうになっただけ、なのだ。
「まあさ、話くらいならいくらでも聞いてやるから全部話してみなよ」
「でも話したらあなた、どうせ笑うに決まってる」
「だから大したことないって笑い飛ばしてあげるって」
 そう言って彼は笑う。その顔を見ていたら本当にどうってことないような気さえしてきた。彼の話が耳から耳へ斜めに抜けていく。居酒屋の騒音が遠くで響いてまるで耳鳴りみたい。私はまた目をぎゅっと瞑る。瞼の奥でぼんやりとグラスを眺めると飲みかけのビール、私を導いてくれる金色の液体、底にたまるあぶく。迷い込んだ蠅がグラスで窒息死するみたいに、私はこの海で溺れてしまいたいと思った。そうして、出会ったときのことについて思い返していた。

 目が合ったのは二回。一回目は私があなたの視線を辿った。二回目はその視線の糸をあなたが手繰り寄せた。
 視線の糸ほど不確かなものはない。気のせいだって言い過ごすことだって、自分で生み出すことだってできるのだから。でも、あなたは確かなものにしてくれたでしょう? 
 それが嬉しかった。

 毎年五月に、幕張メッセでフェスが催される。そのフェスにお馴染みのメンバーで行くのが恒例行事だったのに、急遽私一人での参戦が決定した。片方の友人は「お金がない」もう片方は「忙しい」とのこと。いつも会えない遠方の友人とも会うことのできる特別なイベだったはず。それなのに私だけがこのイベントに期待していたってことなのかと思ったらもっと悲しくなった。
 そもそもフェスなんて一人で行くものじゃないわ! と思いながら電車で二時間近くかけて幕張に向かう。駅が近づくにつれて、電車内に増えていくB―BOYと全国各地のギャルズ。車内が一層煌びやかになっていって私の背筋も伸びる。足元を見ればナイキのジョーダンシリーズかティンバーランドのブーツ。首元には銀のチェーンが光って五月の刺すような日差しを跳ね返した。彼らのようになることを一時期夢見たけれど、私には難しいことだった。生活に支障をきたすくらい長いスカルプネイルも編み上げたブレイズもやってみたかったけれど自分でいろんな理由をくっつけては諦めた。似ても似つかない彼らだけれど、イヤホン越しにつながっている気がして世界の広さを知る。
 海浜幕張の駅には色とりどりの広告とビルディングとそれに見合った人の数が溢れている。こころは緊張している。けれど私はそれを顔に出さないように慎重に歩いた。ポーカーフェイスは私が生きていくために取得した技だ。生き物が環境に応じて自身の体を変化させていくように、私も人間として変化を続けている。
 一人でいると余計なことばかり考えてしまう。例えば過去の出来事とか。幼いころから人と会話することが難しかった。心を許した人の前ではおしゃべりになれるのに、先生とか、知り合ったばかりの同級生には心を開けなかった。学校も馴染めなくて習い事や塾でも浮いていた存在の私がよく言われていたのは「何を考えているのかわからない」ということ。そのたび私は傷ついてきたけど、年を重ねるごとにその訳の分からなさを隠す術を覚えたような気がする。その分ほんのすこしだけ息がしやすくなった。
 メッセが近づくと、会場に足を踏み入れていないのに重低音が体の奥底にずんずんと響き渡る。私はこの腹のなかに素手を入れられてかき回されているような、揺さぶられているようなこの感覚が好きだ。メッセの頭は見えるのになかなか本体にはたどり着かない。近づいたり遠ざかったりを繰り返しながら、長い階段を上ったり下ったりしながら検問所に着く。たどり着くまでに時間がかかるのに、入るまでにはもう一歩の努力が必要で。まず、ペットボトルの飲料を没収される。そしてチケットを提示する。リストバンドが配給される。これが一連の流れだ。簡単そうに見えて実はかなり面倒である。ペットボトルが回収されるのはちょっと腹立たしいし、回収された後にスマホでチケットを見せるのもなんとなくもたついてきまり悪い。そうやってついにオレンジのリストバンドを手にしても今度はお酒を買うための年確リストバンドを手に入れなきゃいけないのだから……。
 色んな困難(?)を乗り越えて、ついにライブ会場に足を踏み入れた。入り口の奥に広がるスペース。そしてさらに奥に進むにつれて、独特の冷気と会場の熱気が混ざり合った妙な空気を肌で感じる。真っ暗で、距離なんて一つもわからない。音だけが壁と空気と人間に吸収されて体内で反響しあう。妙な時間で、奇妙なくせにそれが異様に心地よい。おひとり様ライブも意外といいもんだった。そして、昼時の休憩タイムを越えて次のアーティストによるライブが始まる……というときに私たちは出会った。ライブの合間、薄明りのオレンジと人の声が混ざり合っている。派手な髪と長いネイルのギャルたちはホーミーと一緒だし、前のカップルは肩を抱き寄せあいながら揺れている。グラサンにドレッドの兄ちゃんたちは5~6人の仲間たち。一人参戦は私だけなのね、と思っていると視線を感じる。左斜め前にいる青年が私を見つめていた。気のせいだと思って無視をした。これで声を掛けられる、なーんて展開があったらおもろいな、ぐらいに考えていたら本当に起きたのだからびっくりしてしまう。
「すみません、いまひとりですか?」
 背の高い、細身の男の人が私に声をかける。ふちのついた帽子をかぶって長袖の長ズボンだった。
「はい、そうですけど」
「もしよかったら一緒に見ませんか?」
 私はおずおずと彼を見返す。瞬時に判断しなければならない。世の中には怖いひとが沢山いるっていうことを私は知っている。彼がほんとうにライブを見るために来た人で、純粋に心からアーティストが好きな人間なのかを私は見抜こうとする。
 やり取りの返答、挙動、服装。きっと大丈夫だ。私は自分の直感を信じた。
「ぜひ。一人で心細かったです」
 こうして私たちは一日の大半を、なんなら帰りの電車の途中まで一緒に過ごしたのだ。
 私だって健全な女の子だからその続きを望んでいなかった、と言ったらうそになる。連絡先を交換して繰り返されるメッセージのやり取り。寄せては返す波みたい。彼とやり取りをしている間、押した分だけの手ごたえが帰ってくるのは嬉しいことだった。だって暖簾に腕押し状態じゃ、辛いじゃない? 
 誘いの連絡もスムーズだった。飲みに行くことがすんなりと決定し、それまでの日数を埋める間たわいもないやり取りを繰り返し、それは私のアドレナリンになる。私が生きているという確かな証になる気がした。
 なぜかはわからない。でも彼には甘えたくなる、というのが私の感想だった。勝手にいろんな共通点を見出しては喜んでみたりしちゃって。そして勝手に彼は良識人だと信じていた。ある程度の倫理観を持ったうえで、私と接してくれていると信じていた。
 信じることは自分勝手だ。自分の理想を勝手に押し付けては少しでも違えば逆上して落ち込んだりする。信じるって難しい。

 彼と飲みに行く前日に友人と遊んでいた私は調子に乗っていろんなことを話してしまったのも頭が痛くなる。
「だって、私明日男の子と飲みに行くもん! だからいま無敵モードだよ」
「へえ。やるじゃん」
 いつも的確な意見しか述べないあいつが「へえ」と言うのがちょっぴり嬉しくて、勝手に勝ち誇った気分になっていた。勝手に想像して盛り上がっているおばかな私を友人はどれほど滑稽に見ていたのだろう。

 そうして翌日、学校の最寄りで待ち合わせすると長くて短いおしゃべりが始まった。
 嬉しかったこと。まず、迷子になりがちな私を最寄りまで迎えに来てくれたこと。それから一緒におしゃべりしていたらいつのまにか一時間以上歩き続けていたこと。私と一緒で、いろいろと段取りを決めるよりも誰かにまかせていたいということ。それなのに頑張ってお店を探してくれたこと。そこで話したことが楽しかったこと。曲の趣味が合うこと。連れて行ってくれた居酒屋の全てのお酒がおいしかったこと。
 でも途中からどんどん雲行きが怪しくなっていった。
 それは彼が終電を逃したと報告してきたときのこと。私だって酔っぱらっていて相手のことを思いやる余裕なんてひとつもなかった。だから彼が終電がないと申告してきたときには「じゃあ、私も一緒にオールしてあげるよ」と言わざるを得なかった。
 オールが決定すると彼はさりげなく私の腰を抱いてくる。この時点でなにかおかしいと気が付くべきだったのかもしれない。二階席の窓際から流れてくる夜風が火照った体を冷やしてくれる。私はその心地良さに目を瞑っていた。
 そうして彼は言ってのけた。
「‘休憩’がしたい」
 意味は分かっていた。でも嘘だと思いたくて私はごまかす。
「それどういうこと?」
 彼はやっぱり何でもないといいつつ、また時間が経つと同じセリフを繰り返した。目の前が真っ白になって、数分間動けなかった。
「ちがうの、何でもないの」
「何? 言って」
 私は冷えた頭の中を整理しながらゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「最初からこのためだけに誘ったの?」
 なんて言ったのかはもう、覚えていないけれど彼は否定をしなかった。そのとたんに私が今まで感じていた嬉しかったことの全てが自分がただ生み出した幻だったような気がして、そうしたら全部がさらさらと砂みたいになって消えていって、元通りの平地が出来上がった。とめどなく溢れてくる疑問。最初から楽しかったのって私だけ?
 私はもうこの場にいられないと思った。
「ごめん、もう忘れて」
と彼は言うけれど、私の頭にはなにか別のことがぐるぐるぐるぐるしていてその言葉の意味を理解するには気力もキャパも足りていなかった。
 残っていた酒をあおると、カバンを足元から取り出す。そうして立ち上がると笑顔で彼の肩をたたいた。
「楽しかったよ、でもここにはいられない。じゃあね」
 彼がなにか「送っていこうか」とか言っていたような気がしたけど「いらない」と断って店を足早に飛び出した。
 酔いが一気に醒める。魔法が溶けた音がする。
 楽しい土曜日になるはずだった。彼に期待していなかったわけじゃない。でもこうなるとは思わなかった。私だって幸せになりたかった。
 渋谷駅から出てくる人たちの流れに逆らって私は渋谷駅に向かう。ひとりぼっちで。
 こんなにむなしいころがあるだろうか。それなのに彼は電話の一本もよこさない。それが腹立たしくて、むなしくて、辛くて。

 終電の山手線に乗ると最寄りまでたどり着かないことが分かって、最寄に一番近い池袋で降りた。今思えば素直にタクシーに乗るべきだったけど怒りで我を忘れている私にはそんな手段を考える余地なんて一ミリもない。
 そうして、私は池袋から最寄りまで数十キロ以上を夜通し歩き続けた。もういっそのこと馬鹿だと笑ってくれた方が私だって救われる。
 なかなか終わらない赤羽を越えたと思ったら戸田市を一生彷徨い続ける。道路沿いの一本道だったはず。それなのに目的地は果てしなくて、それと同時に彼のことが頭中を駆け巡っていた。
 私、あなたのこと一晩で千回思い返したわ。あなたのしてくれて嬉しかったこと、追いかけてきてくれなかった、つらかったこと。電話もかけてこないからムカついたこと。ずうっとリフレインしている。なぞった思い出はアラビアンコースターみたいに夜の街に流れていく。魔法の粉、金色のタッセル、私を運んでほしい。でもいったいどこへ? 私の隣を車が駆けていく。橙色のスポットライトを浴びて、川は少しだけ泣いていた。鳥はほとりで眠っていた。鳥にさえ安らぐ場所があるというのに、私には温めてくれる人もいない。違う、本当に慰めて欲しい人の腕の中にいられないことが辛いだけなのだ。
 向こう岸のあなたに私の纏ったジャンパトゥは届かない。

 深夜の二時くらいに彼からLINEが入る。
「愛嬌あるよ、なんでもない、生きろよ」
 酔っぱらった私がつぶやいた言葉。「私って愛嬌がないからさ誰とも仲良くなれないんだよ」みたいなことを言った気がする。うるさい、どうして直接言わないのよ。
シカトする。彼が送信取り消しする。
 三時にもう一通来る。
「本当は好きだった。でももう遅いよな」
 ねえ、あなたってどうして本当に勇気を出すべきタイミングで力を振り絞れないの? 別に四六時中勇敢でいろなんて言っていないわ。でもタイミングってあるでしょう。その大事なタイミングでどうして勇気を使うことができないわけ?
 私の頭の中はぐるぐるぐるぐるして堂々巡りの禅問答を繰り返す。好きだったならどうして私を渋谷にほっぽって平気な顔をしていられるの?
 またシカトする。彼も消す。
 そうやって哀しくなりながら、むなしくなりながら、怒り狂いながら道路沿いを歩き続けた。足は文字通り棒になって、ありえない場所が痛くなる。雨は容赦なく振り続けて私の体が冷えていく。

 家に着いたのは朝の六時。
 九時ごろに最後の連絡が入る。
「もう会わなくていいから友達でいたい」
 私は力の入らない体を抱きしめながら、また考え込む。
 愛おしさなどそこにはなく、ただただ傷だけが残った。それでも彼を振り払うことができなかったのは私が弱い人間だから。そして私が女だから。
 作り上げたストーリーは今もどこかで「If」として生きている。それが現実にならなったとしても、あったかもしれない未来を考える度に思うのだ。
 いつだって物語の続きを考えるのは女の仕事だったんだ、って。

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