「終わりなき日常を生きる」こと

オウム真理教の元幹部たちの死刑執行、というニュースが日本中を駆け巡ったのは一昨日のこと。

言い方が難しいが、こんなに死刑という制度が陳腐なものだと思えたことは、今までになかった。

正直なところ、死刑制度について、感情的には根っからの反対主義者というわけではなかったけれども、今回のことは、その立場についてかなり考えさせられた。

死刑執行が、事件で被害者の方の心を、本当に救済するのだろうか。国家による"復讐"が、新たな復讐の大義を与えてしまわないか。何より、オウム真理教の事件の記憶やその教訓、事件について考える機会が、この執行によって薄れてしまわないだろうか。

ニュースで「一つの区切り」という表現が使われるたびに、ああ、区切られてしまったんだな、と思う。でも、被害者にとっても社会にとっても、一つの区切りは必要かもしれない。でも、、、、と、ただただモヤモヤが頭をめぐる。

オウム真理教の事件に反応してしまうのは、自分が社会学に関心を持つきっかけになった本が、宮台真司が1998年に書いた「終わりなき日常を生きろ」という本で、その分析対象が、オウム化する社会や若者、そこで"楽しく今を生きる"女子高生だったから、というのもある。

モヤモヤしたまま改めてパラパラ読んでみて、ネットで記事検索していたら、こんな文章に出会った。
http://yamatake.chu.jp/04ori/2cri/13.html

内容をみると、多分今から10年以上前のものだけれども、個人的には、すごくしっくりくる文章だった。

「素晴らしい未来」(=大きな物語)を夢想するだけではなく、「終わりなき日常」を生きる覚悟とそのためのスキルは、今の時代にこそ、とても大切なものだと思う。

けれども、本が書かれた当時に宮台が描いたような女子高生のように、場当たり的に "今だけ"を楽しんで生きることも難しいし、その延長線上に積み上がる人生とはどういうものだろう、と思ってしまう。閉じたコミュニティ(島宇宙)が、相互のコミュニケーションを失う社会の怖さや居心地の悪さは、みんなよくわかっているだろう。

「素晴らしい未来」に頼らなくても安心して生きることができる小さくても豊かな居場所と、そういう居心地の良さを時に相対化してくれる外への窓的な場所。大きな物語が失われた「終わりなき日常」の中で、そのどちらも持てることの大切さを改めて思う。

そして、多拠点居住や複数所属が当たり前になる社会の流れはこの延長線上にあり、当然の成り行きなのだろうな、とも。

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