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「生きた時間」を生きるとは

ミヒャエル・エンデのモモを、改めて読んだ。正確にいうと、今日とあるミーティングの後に気になって、12章「モモ、時間の国につく」という章を、改めてじっくり読んでみることにした。

モモを愛読書としている人であればわかるかもしれないが、この章では、カシオペイアという亀の助けを借りて時間どろぼうから逃れてきたモモが、「どこにもない家」にたどり着き、時間を司るマイスター・ホラに出会う場面が描かれている。マイスター・ホラとモモとの、時間についての対話がこの章の見所だろう。

なぜ気になったのかというと、ふと以前モモを読んだときに、この章の本当の美しさに気づかなかったのではないか、という予感を持ったから。読み返してみて、本当によかったと今思う。

12章にある、モモとのやりとりのなかで出てくるマイスター・ホラの言葉が、ひとつひとつとにかく深淵だ。

「・・・時間は、ほんとうの持ち主からきりはなされると、文字どおり死んでしまう。人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。
「・・・人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんできめなくてはならないからだよ。だから時間をぬすまれないように守ることだって、じぶんでやらなくてはいけない。わたしにできることは、時間をわけてやることだけだ。」
「それを話すためには、まずおまえのなかでことばが熟さなくてはいけないからだ」
「いいかね、地球が太陽をひとめぐりするあいだ、土のなかで眠って芽をだす日を待っている種のように、待つことだ。ことばがおまえのなかで熟しきるまでには、それくらい長いときがひつようなのだよ。それだけ待てるかね!」


私たちに与えられている時間は、いつでも美しく、そして平等だ。その美しさに向き合い、じぶんのものとしてその時間の声を聞き入れ、受け入れることが、人生のひとときを「生きた時間」にしてくれる。それこそが豊かさというものなのかも知れない。

逆にいえば、等しく与えられた美しい時間と向き合うことをやめ、消費するだけの生では、もはや「生きた時間」にはなりえないのだ。

これは想像力の問題だが、モモが描く世界のように、自分自身の時間が、はるか宇宙のかなたの深淵なエネルギーのなかでその一瞬一瞬を形成され、今じぶんの心のなかに降りてくる様子を浮かべてみると、どうだろう。シュタイナーの神秘思想に影響を受けたエンデらしい世界感のようにも思うし、いかにも宗教的な匂いも感じるが、そういう想像力によって自分の時間の美しさやかけがえのなさに気付けるのであれば、ご都合主義でもいい、そういう空想を受け入れてしまってもいいのではないだろうか。

私が私であるための時間とは。どう、その時間を受け入れるか。与えられた美しい時間に向き合って、「生きた時間」を果たして僕は生きられているのだろうか。そんなことをモヤモヤと考えている。

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