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「私は私、あなたはあなた」

「自分もこうやってきたから、あなたもそうしろ」

世の中にある「教育」的指導の多くが「自分もこうやってきた(それでうまく行った)から、あなたもそうしなさい」というもので溢れているように感じられる。悲しいことに、教育者に特に多いコミュニケーション方法だったりもする。

それが機会提供の提案(こういう機会が自分にとってはすごく良かったから、お勧めする)の範囲に留まっていればいいものの、多くの場合、強制が伴う指導になりがちなのだ。これは、言葉を選ばずいえば、とてもダサいやり方だと思う。

かくいう自分も、そういう言い方を無意識のうちにしてしまっていることもある。これが「老害」というものなのにもかかわらず、思わず自分の経験だけをエビデンスに話そうとしてしまう。ああ、厄介だ。

往々にして、自分の経験を押し付けているような場合には、自分のトラウマやコンプレックスと合わさっていたりするから面倒臭い。それに自分が気づいていれば、そもそも押し付けるようなことはしないから、もっと面倒なのだ。

当たり前だが、そもそもその経験は「過去の私」には当てはまったとしても、「今のあなた」に当てはまるのかは全くわからない。生きてきた背景や価値観、これから生きていく社会のあり方そのものが違う人間に、個人の経験を元に指導をするのは、基本的にはやめたほうがいいと思っている。

すでに書いた通り、機会提供の提案(こういう機会が自分にとってはすごく良かったから、お勧めする)の範囲に留まっていればいい。まだ、「うまくいったからやってみなさい」も許せなくもない。ただ、一番いやなのは、「私も我慢してやってきたんだから、あなたも我慢してやりなさい」というパターンの教育的指導だ。伝統文化はもちろん、日常生活や仕事場での様々な慣習の中には、意識的・無意識的にかかわらず、こういうものがたくさん潜んでいるように思う。自分が我慢をしてきたことを、さらに下の世代に強制する。本当は同じ経験をしてきたならば助け合える存在のはずなのに。いやなのであれば、自分たちの世代でその状況を変えることはできないだろうか。

「私も我慢してやってきたんだから、あなたも我慢してやってみるといい。今になってみると、結構悪くないもんだよ」という人もいる。ではやってみた上で(だいたい10-20年後にわかることが多いらしいが)悪くなかった、良かったと思えることはなんなのか、具体的に伝え、やるかやらないかは相手に任せることが大切だと思う。もしそれが「昔は強制される側だったが、今は強制する側になったので楽しくなってきた」なんてことだったら、本当にかなしいことなのだけれども。

「私はこうだったけれども、あなたには、新しい時代にあった(あなたの状況にあった)、新しいやり方を模索してほしい。」そう言える気持ちのいい大人でありたいし、後輩にだけでなく、パートナーや友人にも、そういう言葉をかけられる人間でありたいな、と、自戒満載でぼんやり思っている。


※写真は、福祉関係の打ち合わせで訪れた、小布施の岩松院。山肌にかかった雲が幻想的な雰囲気を作っていました。



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