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死ぬことと見つけたい

先日、市川海老蔵さんの奥さんの小林麻央さんが亡くなって、自分と同い年だったんだなあと驚いた。
私は彼女のことをあまり知らない。
ただ、ブログを必死に更新して生きようとしていた姿が頭に焼きついた。
そうやって必死に命にしがみつく34歳もいれば、生きていることを当たり前のこととして、ハードルを勝手に上げて、挫折して、自虐的になってる34歳もいるわけだ。

子供の頃の私をたいそう可愛がってくれた大叔母は、大正生まれの人だったから、大層な倹約家で素朴な人だった。
体が弱い上に、辛い時代を生き抜いた人だったからだろうか。
生きていること、生きる為に「食べ物がある」ということを幸せの基本に据えていた。
大叔母は時々法事の時に食べる稲荷寿司、また折に触れて食べる赤飯を好物とし、ちょっとした自分への贅沢であり、幸せと思っていたらしい。
なんだそんなもの、と私は思うのだが、笑っちゃいけない。

今の時代は、生きることが当たり前になって、死は隠されるようになった。
生きることが当たり前になると、人はそれを幸せとせず、豊かであることをハードルとし始めた。
豊かさが当たり前になると、それを安定させること、人並みは当然として、人よりも豊かであること、よく生きることがハードルとなった。
どんどんハードルは高くなり増えていった。

死ぬことが隠されると、生きていることが当たり前で、死は忌まわしい、不幸の代名詞として忌避されるようになった。
生はどんどん見えなくなっていった。
死ぬのは嫌だが、ずっと生きていたいかと言えばもっと嫌である。いいところで死にたい。
手塚治虫の『火の鳥』ではないが、死ぬことができないのが恐ろしい。死ぬことができなければ、多分生きられもしない気がする。

死というものを天秤にかけないといっこうに生が見えてこない。生は死の相対であり、死は生の相対であり、それ以上の実体は掴めない。

小林麻央さんという故人のことについてとやかく言う資格は私にはないが、彼女は死を突きつけられて初めて、普段の我々には見えていない生の姿を垣間見たのかもしれない。
それで彼女は死を生きる選択をしたのだと思いたい。

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