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B-side

そこのキミとどこかに居るアナタ。そして五里霧中の君たちに告ぐ─
 
 鉛のように重たいものが肩から背中、腰にかけてずっしりと重力を掛けてくる。床に就いた時にカーテンの隙間から望む星夜を見上げたなら、ストレス社会に生きる現代人の多くはきっと一日の労をねぎらい物思いに耽るのだろう。嬉しかった事や面白かった事、悲しかった事や辛かった事、その日一日の喜怒哀楽が頭の中を駆け巡り、そうしているうちに朝はやってくる。夜空は緞帳(どんちょう)。今日と明日とを区切る漆黒の幕だ。
─いや違う。煌びやかなシャンデリアの下、胸元はだけたドレスを身に纏い、手入れの行き届いたキューティクルな頭髪、毎週のようにデザインを変えることで己の美意識を誇示するネイルアートに、いかにも歩きづらそうな15cmはゆうにあるキャバヒール。ネオン街に身を置いて夢と希望を売る夜の蝶々にとって、この時間は一日で最も大事なコアタイム。
他方、人里離れた名もなき深山に目を向ければ永遠の静寂があたりを覆い、夜が夜であることをいっそう印象付ける。
 
球体を球体であると正しく捉えるには、その物体を正面だけでなく側面と背面、それから上空と対象物を多方向から見る必要があるし、またその実態をより正確に認識したいのであれば、明け方と夕刻のように時間軸をずらして観察するのも良いだろう。そうして初めてこの球体が単なる円ではなく、楕円でも円柱でもなく、球体であると認識出来るのである。
 
夜という一見誰にとっても普遍的なものが立場や場所を変えると見え方がまるで変わるという特殊性、普遍的な球体を正しく捉えるために角度や時間を変えて観察する必要がある玄奥性。
 
人の目に映るほぼ全てのコト・モノは虚像と言ってそう大袈裟でない。実像を見通せるほど精密なピント機能は備わっていない。だからこそ人は場所を変えて時間を変えて、或いは角度を変えて物事をじっと観察するのだ。そうすることでしか真実には辿り着けない。
 
例えばそこに象徴的な出来事を受けて酷く心を痛める男が居たとする。心労絶えないその様が余りに気の毒で、暗澹溟濛の極みに達する姿を見ているだけで陰々滅々だ。身に降り注いだアクシデントは誰の目にも憫然たるものに疑いなく、献身的なサポートを要するものと見える。いくつかの人々は憔悴しきった彼に寄り添い、安らぎを与えようと努めた。
 
さてそんな彼を対岸から冷眼傍観する人影が見えた、ような気がした。岩場の影に腰を下ろしているように見える。
─間違いない。そこに誰かいる。
対岸にいる人物は右手で何かをまさぐりながらじっと一点を見つめ、思案し、そしてふうと大きく息を吐き、目に生気を宿らせたかと思えばすっと立ち上がり、男に背を向け歩を進めた。ゆらゆらと不安定に歩き始め、しかし程なく歩くのをやめて直立不動、電池の切れた自動掃除機のように固まった。暫くするとまた動き出した。足首に手をやり、何をするかと思えば履いていた靴を放り投げたのだ。そこからは決して立ち止まることなく、多少の寄り道はあっても決して振り返ることのない足取りに何かの決意が見えた気がした。
 
草臥れた男と岩場で動く人影を同時に捉えられる小高い丘に思案深い男がいる。岩場の人物とはまた少し違う、独特な空気感で身を包んだ男だ。男は特定のポイントを行ったり来たり、何度も何度も目で追っている。何かを見落とすまい、逃すまいという鬼気迫るものはない。俯瞰で全体像を捉えようとするときの目に見える。時折大きく背伸びしてみたり、或いは大の字に寝ころんでみたかと思えばペチペチと太ももを叩いてみたり。そうしてまたあぐらをかいて先ほどの方角に目をやる。今度は少しだけ真剣な表情だ。と、聊か神経質な表情を浮かべ、そして男は岩に手を掛けゆっくりと立ち上がり、そうかと思えば今一度腰掛け、靴紐をきつく結い、再び立ち上がっては岩場へ向かった。
 
賑やかな街から少し離れた衛星都市の路地裏で、パレットの青色と黄色を混ぜ合わせて深い緑色を生成する女がいた。女は脇目も振らず一心不乱に筆を走らせる。青々と生い茂る木々。木の枝で羽を休める鵯。幹にもたれた男。男の視線の先には抽象的な眩い光源。男の表情はどこか浮かない。女はこめかみあたりを左手の人差し指で二度三度つんつんと小突き、「よし」と言って筆を置いた。それからまもなく、慌てたように橙色と赤色、それから少し多めの白色の絵具をかき混ぜた。作りたてのコーラルピンクを枝葉に塗し、更にその上から白色を足す事で瑞々しさを表現した。女は今度こそ満足そうに「よし」と言った次の瞬間、カランコロンという木琴のような音を耳にした。音のする方に目をやると浴衣姿の2人組。見たところ女子高生といったところか。「あぁそうか」今日はこのあたりでは規模の大きな夏祭りだったっけか─
 
夏祭りを目前に控えた神社の境内には血気盛んな男たちが一堂に会していた。この町の祭り一番の目玉は鷹をシンボルにあしらった神輿で、重量は1トンをゆうに超える。この立派な神輿を一目見ようと、毎年県外から訪れる者も少なくない。このお祭りムードを盛り上げるのは歓声と溜息を携える射的屋の乾いた銃声音、焦げたソースの匂い、そして威勢と虚勢が交差する若者同士の怒号。これら祭りの祭りたる様式美に作り笑いを浮かべるのは先ほどの女子高生。
「やっぱ祭りっていいよね~。夏の終わりって感じがさみしくて、でもそれがいいの」友達の意見には全く賛同できなくて、早くこの場を去りたいと、どうやったら帰れるかと、そんなことばかりを考えていた。
 
「お姉ちゃん、どうぞ寄っていきな。ポイ2つ付けちゃうよ」
声の主は出店のオヤジだ。どうやら金魚すくいのようだ。ドスの効いたしゃがれ声に気圧されていたが、目をやると実に人の良さそうな優しい目をしたおじさんだった。歳は50歳前後。父親と同じぐらいか。「金魚なんて─」適当に愛想笑いして立ち去ろうとした時、1匹の金魚に目を奪われた。赤・白・黒のまだら模様がこんなにも美しいとは。
 
この子の目はどういう目。なんなの─
好奇な目のその真意が図れなかった。気分が悪い。誰かと話している。あれ、しゃがんだ?!そうこうしているうちに何者かに追われている感覚に陥る。平穏を望む私。非日常は大嫌い。私の日常を奪わないで。視界が激しく揺れて焦点が定まらない。追っ手はもうすぐそこまで迫っている気がする。待って、待ちなさいよ。やめて、あれ、あれ。
 
─その日から私は女の子の家で飼われることになった。
はじめは退屈で仕方なくて、早くここから出してほしいと願うばかりだったが、2日目に私の棲家にやってきた物々しい装置。この装置が発する泡ぶくに身を委ねるのが楽いと知って、それから毎日この遊びに没頭した。彼女たちはエアーポンプと呼んでいる。ここが私のお気に入りの場所。エアーポンプで遊んでいる間は色々な不安ごとが忘れられていい。将来の事とか、今はいいの。忘れさせて─
 
 
小高い丘に居た男はようやく岩場の人物と接触することが出来たらしい。何やら神妙な面持ちで話し込んでいる。
どうやら会話は済んだようだ。男は地面に座り込んでカバンから何か出そうとしている。紙?紙と、あれは筆か。男は紙と筆を手に取り、何かを書き記している。
 
書き出しはこうだ。「B-side─」

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