見出し画像

こころはペパーミント



知的な経験

 その朝、考太郎の郵便受けに新聞は届いていなかった。
 その次の日も届かなかった。新聞受けは空のままだった。
 もともと、山と積んだ景品と共にやってきた拡張員にすすめられて契約しただけで、読むつもりがあまりなかった考太郎はそのまま放っておいた。
 だが一週間二週間と未配達がつづいて彼は心配になった。どうせ見ないのだから。新聞が来ないなら来ないで、処分の手間が省けるくらいだが、受けていない代金を支払うのもしゃくだ。それで日曜日に販売店にでかけた。徒歩五分の近所なので電話より行くのがが早い。
 考太郎が持参した契約書を見た店主は奥へ消えた。
 数分の後、
「この契約書はたしかに当店の用紙ですが、済まないがお客さんと契約した記録が当店にはありません。なにかの間違いではありませんか。」
と答えた。
 契約していないので配達しなかった。ゆえにお代を請求することもありません、ということなのだった。
 驚いた彼は、詐欺に遭ったのかな、と思った。
 だが詐欺にしては変である。彼は訪問拡張員に一円も払っていない。それどころかたくさんの景品をもらったのだ。住所氏名の個人情報は提供したが、そんなのは外の郵便受けにも書いてある。なにも盗らない詐欺というのは無いだろう。
 そのころから彼のの日々に変調が生じた。
 かれがコンピューターに向かう。
 慣れたサイトにログインしようとすると、どうしてもできない。なんどくりかえしても、
「ID またはパスワードが違います」。
 ひとつふたつのサイトでない。あらゆるサイトが
「ID またはパスワードが違います」。
と言い始めた。
 町の顔見知りの店で買い物をすると、クレジットカードが使えなくなった。 ID 信憑性に重大な疑惧があると、マシンが警告を発するのだ。
お客様の安全のためにこのカードをしようすることはできません、とマシンが主張するのだ。
店員は、顔なじみ客相手あいてなので、
「おかしいですねえ。」
と慌てた。
 考太郎が行く店のどこでも現金以外で買い物ができなくなった。
 そうしてある冬の朝、コンピューターが、出勤した彼をとうとう入館拒否した。
 かれが勤務する会社は、職員通用口の設備で生体認証をする規則である。コンピューターは、
「 ID が合いません」
「ID またはパスワードが違います」
と主張し、三回の認証ミスの後に、
「規定回数を超えたため、あなたは入館資格を失いました。」
「お客様の安全のため、確認できない人物の入館は認められません。」
「あなたがここにはいることはできません。」
そしてついには、
「あなたは田中考太郎ではありません。」
と彼に宣告した。
 社内に入ることができなくなったかれは、やがて「安全のために」職を喪った。
 彼の生活のあらゆる場面で、いつのまにか彼は自分が田中考太郎であると立証する義務を課せられたのだ。そういう暮らしに変わってしまったのだった。
 以前から仲良しの近所の家のポチだけは、彼を異者と誤認して歯をむき出して吠えたりしなかった。いつもふりきれそうなほどしっぽを激しくふって考太郎を歓迎したのだった。


早春

 二月になる。光が強くなる。日あしがめだって長うなる。蝋梅が咲く。梅が咲く。暖かな日には気が、早い虫が花のまわりを舞う。
 晩冬の季節だが、人びとはそれを早春という。風が冷たいが、花咲く三月をまえにこころ躍る時節だ。それは旅立ち前の高揚と似ている。しばしば旅する最中より、旅先ではどんな楽しいことがあるだろうと夢想する旅行前のほうが愉しいものだ。
 そんな二月半ばの菓子の日のこと。
 わかいころ会社勤務をしていた頃、毎年、社長の奥さんからチョコレートを頂いていた。 これがなかなかやっかいなことであった。
 マダムといっても、社長が七〇歳代の爺さんであったから、奥さんも婆さんだ。午後三時の休憩時間前に、腰が曲がった奥さんが猫のように静かに階段を上がってくる。社員たちの仕事場は二階で、社長夫妻はいつも一階にいた。
 奥さんは社員全員分(といっても五人だけだが)のチョコレートをスーパーマーケットのレジ袋にまとめて入れて上がってくる。おしゃれな包装なぞ絶対にしない。お店で売っている状態そのまま、黒か濃い茶色の紙で包まれた薄い長方形の板状チョコレートを、手に下げたレジ袋から一枚ずつ社員の机の上に配る。女性従業員にも配る。
 老眼で見えないせいか
「特価八八円」
のシールが貼られたままの板チョコを受け取った年もあった。
 まるでチョコレートの配給みたいだった。こちらが当時若者だったから、奥さんとしては孫に菓子をやるような感覚だったのだろうか。
 とはいえあちらは社長夫人であるから、
「結構なものを頂戴しまして、どうも」
とか 、
「三時の休みにいただきます」
などとそれなりのあいさつをせねばならなかったから苦慮した。ボーナスがでない零細企業だったので、八八円チョコレートよりもボーナスが私は欲しかった。 それが冬の恒例行事になっている会社に私はいた。


煙りが目にしみる

 わたしの入社前に大病をしたとかで、七十歳の社長は骨と皮ばかりのからだで肉がなかった。予備体力が少ないから、かすれ声をしてあまりしゃべらなかった。出歩くことも多くなく、仕事の指揮は娘婿の次期社長が主に行っていた。
 社長は元県庁職員だったそうだ。四十歳頃に役所を辞め開業したと伝え聞いた。元役人だからなのか、規則伝達等を馬鹿正直に遵守していた。いい加減に済ます同業者が多い日報記録さえ、まめに記録していた。 だが体力の衰えは人の習いである
 あるとき区役所の人から、
「おたくの社長さん大丈部でした?怪我はなかったですか?」
と唐突にお見舞いを言われて戸惑った。
 社長がけがをしたなんて聞いていない。
「ええ、まあ、お陰様でなんとか。」
などと、どぎまぎしながら聞いた話を総合すると、一週間ほど前に役所の近所で社長が車を電柱にごんとぶつけたらしい。
 帰社して先輩社員に話したら、先輩たちも知らなくて
「バツが悪い話はおれたちに隠してるらしいなあ」
と大笑いした。
 しかし笑ってばかりもいられない。社長の事故の話はそれまでにもちらほらと噂を聞いていたし、じっさい社長の運転は危なっかしいものだったあれではいつ大事故を惹き起こすかわからない。そこでみなで相談の上、若社長に頼み、今後は社員の誰かが代わりに運転をするから、自動車運転からの引退を勧告してもらった。以後だれ
かが社長車の運転をするのだ。てっきり先輩の誰かがするんだろうと思っていた。だが、「社長といっしょじゃ息が詰まる」
とかなんとか言って、こちらへお鉢が回ってきた。嫌だったが、小心なので嫌だと言い兼ねた。
 それからお抱え運転手の日々が始まったのだ。 同業者の会合へ行く。吾輩が運転する。隣の席に社長が座る。イーストウッドみたいな気難しい爺さんと話す話題もないし、狭い車内で間がもたない。うっかり渋滞にはまると一時間もかかる。社長はむやみにタバコを吹かす。かちかち山の狸じゃないが、このままじゃ煙でいぶされて燻製の干物になっちまう。といって相手は痩せて体力がない老人である。窓を開けたら風邪をひいて肺炎を起こすかもしれない。
 のみならずひとの運転にいちいち文句を言う。教習所の教官を脇に乗せるようだ。 運転は重労働ではないが毎回長く感じた。
 それに社長は自分が食欲が無いものだから、人類はみな食欲がないと悟っているらしい。食べ物を勧めたことがなかったし、お昼時にかかっても店に寄ろうと言い出したことがなかった。専属運転手稼業は腹が減る。
 会議にはわたしもでた。けれども出たところですることがない。出ずに車で待っていてもやはりすることがない。だから出た。「従者」がいたら、社長が偉そうに見える効能はあるだろう。
 そんなある日ある所の会社を訪問したら、実に美味そうなお茶を出してくれた。高級な茶の香りがした。俺は茶が大好きだ。ボーナスがでない会社に勤めた祟りで、家では安いお茶ばかり飲んでいたから、たいへん嬉しかった。けれども社長がいっこうに手を出さないのに、先に飲むわけにもいかない。冷めてゆく茶を見つめながらホスト側がどうぞと言ってくれるのを固唾をのんで待った。よし、の合図を待つ犬の心境である。 そのとき横のソファーに太ったおっさんがどかっと座った。この人はどこかの会社の社長で遅刻してきたのだ。そうして彼の目の前にある俺の茶をつかんで遠慮なく飲んでしまった。狙っていた俺の茶を飲まれちまった。音声に出せんから俺は棟のうちで「ああ」と叫んだ。 茶の恨みは二十年した今も忘れない。


ある宴

 元役所勤務が四角四面な融通の効かない「歩く几帳面」ばかりでない事実を広報するような人を私は知っていた。Uさんといって、奇しくも社長の元同僚だった。社長に話したら、Uくんか知っているよ、と言っていた。体型が社長と正反対で、横のサイズが縦より長いほど肥満で、いつもぜいぜいと息が漏れる人であった。
 Uさんとは通信制大学の政治学講義で同級生だった。同級生中で飛び抜けて目立つ人だった。がんらい通信教育の大学のスクーリング授業というのは活発で学生の発言が多いものだが、Uさんのは平均的学生をはるかに凌駕していた。先生がなにか不特定の誰かに問いかければ必ずUさんが答えた。講師が問いかけないときもUさんが手をあげて発言した。しまいには教授の講義だかUさんの講義だがわからないほどになった。その内容たるや、原子爆弾を一つ落とされたら一〇発打ち返せ、といった類のもので、休憩時間には他の学生と苦笑しあったものだ。とにかく他人が一言口をきいたら十倍はしゃべる人だった。
  稀にUさんが変に静かなので不審に思って振り返ると気持ち良さそうに寝ていた。
  Uさんは学年が私より二年くらい上で、そのときすでに卒業と大学院進学が決まっていた。七〇歳にして進学、と新聞記事になった。
  ある日講義後の教室に残っていたら、Uさんが、
「ごちそうしてやるから来い」
と言った。学校の近所の味噌田楽の店へ行った。国道を渡るとき、
「二人だけじゃさびしな」
とUさんがひとりごちた。言うやいなや偶然そこを自転車で通りかかった男子高校生を呼び止めて、ごちそうを食わせてやると言い、仲間に入れてしまった。その生徒は何が何だがわからず目をぱちくりさせていたがともかくついてきた。 そんなおかしな一行が入った田楽屋はちょうどこんにゃく食べ放題というのをやっていて、Uさんがこれがいいと一人で決め、注文してしまった。 いくら食べ放題と言っても蒟蒻なんてものはそう大量に食べられるものではない。辛抱して一〇串くらい食べたがいいかげん厭になってしまった。腹に溜まった蒟蒻が揺れてぽちゃぽちゃいった。Uさんは私たちの二倍くらい食べて、若いのにたったそれしか食えねのかガハハーと哄笑しつつ私の背中を力強く叩いたから口から蒟蒻が飛び出しそうだった。 なんだがわからない状態で蒟蒻を食わされた高校生はわからないまま礼を言って自転車に乗って走り去った。わたしもよくわからないまま駅に向かって歩いた。 ご馳走を食わすと言ったから、鰻でも食べさせるのかと思った。こんにゃく百パーセントの宴とは思わなかった。


火鉢

 むかしの白黒日本映画を見ると、雪がしんしんと凍みる冬の夜に、火鉢を挟んで向かい合う男女が語り合ったりする。
 ふと女が立ち上がり窓の障子を開ける。
「あら雪だわ。積もるわね。」
「うん。」
 外との境界は紙一枚。
 暖房といえるのは火鉢だけ。
 とくべつな厚着もしてない和服の男女。
 あれでは外気温も内気温もほぼ同じですこしも暖かくないだろうと思うのだが、映画の中の人は寒そうにもしない。
 まあ、設定が雪国なだけで、実際の撮影は東京の映画撮影所内のセットだろうから、強烈な光線を浴びて演じる俳優さんたちは暑くてたまらないくらいかもしれないが、それにしても、むかしの観客がこういう設定に不自然を感じなかった事実が残る。
 火鉢だけの、木と紙の家で育った人は、寒さに強いのかもしれない。私の親なども、ストーブの暖かさは苦手だといって、ストーブがあるのにあまりつかっていなかった。
 その不肖の子である私は、ストーブ育ちの軟弱で冬が寒くてたまらない。
 隙間風だらけの木造家屋で、火鉢に手を炙りつつしんみりと雪見酒なんて、いきなことはとてもできない。
 といって、私もまた現代の暖房器具の暖かさが性に合わないのである。
 ストーブは臭さが嫌だし、人一倍肺活量が小さく、きれいな空気がたくさん必要な私は、呼吸が苦しくてかなわない。なにしろ、家の内に空気が入るように、私は四季を問わず窓を少し開けておく。冬でもそうなのだ。そうしないと部屋の空気が薄くて呼吸が苦しい。
 そこである年貧乏なわたしはおもいついた。
 家の中で「焚き火」をしよう。
 今はプチ田舎にいるので、近所に里山と、大きな川の河原がある。そこに乾ききった木の葉と枯れ枝がいっぱいある。だれも拾わないんだから資源は無尽蔵だ。
 オレって地球にやさしいエコ人間。ルン。
などと鼻歌を歌って、さっそく山へでかけ、しこたま拾ってきた。
 そうして日が暮れてから、祖父母から相続した唯一の遺産である火鉢を汗をかきながらひっぱりだした(重いのだ)。冬でも汗をかく。労働は貴い、などと歌いながら引っ張り出して、そこに山の枯れ枝を入れて火を点けた。
 おっと。その前にバケツにいっぱいの水と消火器を用意したよ。
 これでも吾輩は、危険物取扱者乙種四類という長い名前の国家資格を持っているのである(資格ってのは字が長いほどエライって知ってた? 車の免許なんて「普通免許」って四文字しかないからたいたことないんだ。十字もある危険物資格は運転免許より六字ぶん偉いんだよ)。もっとも、自分自身が世の中の危険物のような気がしないでもないが。
 ともかく、水を用意してから日を点けたのだ。
 するとたちまちに猛烈なる黒煙が吹き上った。
 部屋中が煙だらけだ。
 火は点いたが煙だらけで、暖かくもなんともない。
 目がしみる。烟が目にしみる。涙が出て目を開けてられない。
 これはたまらん。
 するとたちまちにして天井の火災報知器が鳴り出した。
「うー、うー、うー、火事です。」
「うー、うー、うー、火事です。」
 静かな深夜の住宅街に響くどこか間抜けな声。
 わかってるって。
 こいつどうやって止めるんだよ。
 周章狼狽しつつ、椅子の上に立ってボールペンで突っついたら、やっと止まった。
 それ以前に水をかけて火を消して、家中の窓をすべて全開していた。急低下した室温、マイナス二度。
 真冬の寒風が部屋を駆け抜ける。
 おれはなにをしてるのだろう?
 煙を抜くことには成功したが、消火後の部屋に火事場の焼け跡臭がしっかり染み着いてしまって、これが鼻につかなくなるまでに三日かかった。
 翌日、残った大量の枝を山へ返しに行った。
 自然のものは自然に返そう。
 だれかが消防署に通報しなかったことだけは良かった。
 消防車が来たりしたら町中の笑いものだよ。
 あと、天井にスプリンクラーを設置してなくて助かった。


あやめ

 戦争前のころ、まだ若かった祖父が子供たちへの土産にしようと、よせばいいのに夏に浅草でアイスクリームを買ったそうだ。子供、とは私の親だ。それなりの保冷措置はしたのだろうが、当然ながら電車に冷房などない時代である。網棚に乗せたアイスが徐々に溶け、隣席に座っていたじいさんの禿げ頭にぽたぽた落ちて、帰宅したときにはアイスはほぼ消滅してしまったとのことである。
 年老いても出かけることがひときわ好きだった祖父は上越新幹線が開業したとき用事もないのに乗ってみたそうだ。目が回るほど速くて、煙草一本吸う間にあっという間に次の駅に着いて驚いたと言っていた。
 それから半世紀もたっていないのに、乗り物がずいぶん変わった。煙草の話でわかるように、昔の電車の中は喫煙自由だった。車内に吸い殻入れ箱が備え付けられていた。朝の通勤時間だけ禁煙だった。
 蒸気機関車時代から使っている古い車両などは、ドアが手動式であって、ドアを開けたまま走っていることもよくあった。電車はむかしも自動ドアだった。それは今と同じだ。だが機関車が引っ張る昔式の古い客車は手動ドアだったのだ。首都圏でもわずかながら、ドア開けっぱなし式車両が運転されていた。子供の頃茨城県の水戸線と福島県内の東北本線でそういうのに乗った記憶がある。
 当時の規則でも、車掌がドアをすべて閉め、安全確認後に機関車の機関士にトランシーバーで発車合図を出すことになってはいたらしい。だが現実的にこの規則の実行は困難だった。例えば五両編成の列車の場合、一車両にドア四箇所だから、全部で二〇ドアある。編成の長さは約一〇〇メートルだ。駅毎に車掌が、各車両のドアを閉めに走っていたら、疲れて倒れるだろう。おまけに手動なので、車掌が閉めたドアを再度開ける客が必ずある。そのドアを閉めに車掌が戻ると、またまた別車両のドアが別の客により開けられる。まるでモグラたたきだ。いつまでやっても発車できない。規則の厳格な実行は不可能だった。そのような事情で、ドアを開けたまま走る列車が多かった。
 ドアがある車端のデッキは危険な場所で、走行中には原則として行ってはいけない。それが昔の常識であった。それでもドアから人が振り落とされる事故があとをたたなかった。その中には、乗客だけでなく、鉄道職員の殉職も含まれる。
 昭和五〇年頃、茨城県鹿島郡鹿島町にいた親の友達の家に預けられるため、幼い私は東京駅地下ホームから真新しい特急電車あやめ号に乗った。地下ホームは当時はできたて新品でぴかぴかだった。ホームは深く深く、大人に連れられた私は、長いエスカレーターをいくつも乗り継いで地下深く潜るたびに、地底世界に潜行するおもいがした。
 電車は発車するとしばらくその地底王国の暗い隧道内を走り、錦糸町の手前でにわかに地上へ飛び出した。長い高架橋を疾走した電車は千葉をすぎると地上に降り速度を落とした。成田を過ぎた。線路脇に警察官が立っていた。そのころの政治情勢のためである。測量士のまち佐原に停車し次の香取駅を通過すると、電車は左方向へくいっと曲がり、急な坂を上がり利根川の長い鉄橋をごーごーと音を立てて渡った。特急電車は水郷地帯を進んでいた。幼い私はひとりでデッキへ行った。電車だから自動ドアであり、ドアはしっかり施錠されているはずである。北浦を渡る長い鉄橋にさしかかった。ちょうどそのときデッキに行ったのだ。デッキのドアは故障でもしたのだろうか、なぜか開いていて、そこにロープが張られ風圧でロープがぐうらぐうら揺れていた。開放ドアのむこうに、ひろびろとしたみづうみが見えた。私はびっくりした。なんだか体ごと外へ放り出されそうで怖かった。子供の眼に世界は巨大に見える。いそいで室内の座席に戻った数分後、特急電車はなにごともないよう終着の鹿島神宮駅に停まった。


印度古往今来

 大阪の宿屋でその男と知り合った。インド・ムンバイ出身で私よりひとまわりくらい年上。当時四〇歳代くらいだっただろう。羨ましいほど顔立ちがいい男で、映画俳優になれるよと褒めたら本人もまんざらでもなさそうだった。ただし性格はちゃらんぽらん。彼を知る別の人の話によると、インド料理レストランを経営するお兄さんの手伝い(実態は居候)をしているのだが、ちっとも真面目に働かないため時々喧嘩して追い出される。そんな時は女友達のアパートに行くのだが、そこでも肘鉄をくって追い出されたときに、その宿屋にしばらく宿泊してゆくのだそうである。
 日本語が達者で明るい性格であり、会った最初の晩は日本の演歌などをいっしょに歌って盛り上がった。その夜、彼は財布からインドにいる娘さんの写真とインドの紙幣を出して見せてくれた。七歳くらいな可愛らしい少女の写真だった。あいにく忘れてしまったが、名前を嬉しそうに私に教えて、
「英語のグッドスメルという意味ね。」
と言った。そこでわたしがすかさず、
「じゃあ日本語で言えば香ちゃんだ。」
と言ったらたいへん嬉しそうな顔をした。
 ところがその後に、娘は今は一九歳で現在の顔を知らないのだと言うので、思わず唖然としてしまった。国に帰っていないの?と訊いたらうんと言う。十年も家族をほったらかしとはひどい父親だ。もしかすると奥さんに追い出されたのかもしれぬ。
 それから彼はインド紙幣を誇らしげに見せた。とてもきれいなお札で、大事に持っているらしいことがわかった。それはたくさんの文字が書き込まれていてガンジーの肖像が刷られていた。彼はガンジーを褒めた。それで私は彼がヒンズー教徒のインド人だとわかった。それまではヒンズーかムスリムか見当がつかなかった。ガンジーは良い人なのにガンで撃たれて殺されたと彼は言った。
 そのとき私は自分は佛教徒だと思わず口にしかけたところで止めておいた。ヒンズー教の教理では佛教はヒンズー教の一派で、しかも悪魔に騙されて堕落した悪いヒンズーだということになっている。ブッダをけなされたら私は反論するかもしれない。無用な宗教戦争を起こすこともないから言わなかった。私は腹を立てると変に冷静になって論理が研ぎ澄まされる悪癖がある。言葉と論理はボクサーのパンチと同じだ。人を殺すことさえできる。
 ともかく彼は明るく率直な性格で、かついいかげん男だった。会って楽しい男ではあった。
 さてここからは二五〇〇年むかし、お釈迦さんが生きていた頃のインドのお話。
 俗人の出家とは、財産家族などすべてを捨てると同時に、佛教徒コミュニティーへの参加である。出家修行者のあつまりをサンガという。漢字で僧伽と音訳する。意味を訳して和合衆ともいう。そのため先輩修行者たちによる出家志願者審査があり、それに合格しなければ出家できなかった。その審査は本人の意志といくつかの欠格事項に該当しないかの確認であった。佛教は本人の意志を最も重要視する。ほんとうに出家の意志があるか、いずれは解脱しブッダになりたいという熱い願いがあるかを先輩たちが確認するのである。このために未成年者は出家できないルール(律)が定められている。未成年者の意志確認は難しいからだ。
 それから、借金がある人はそれを返済してからでないと原則として出家できないルールになっている。なぜかというと、まずインド社会の身分制度の問題がある。後の時代に固まるカースト制度の濫觴が釈迦時代にも存在し、バラモンつまり宗教者が最も高い身分となっていた。インドでは政府よりも権力者よりも大金持ちよりも、宗教者のほうが偉い人なのである。ゆえに出家した人には王様も債権者も手出しできない。少なくとも建前ではそういうことになっている。
 そうしてまた、すべての財産を捨てるとは、マイナスの財産である借金も捨てることなのだ。それに実際的にも、出家修行者は金銭をまったく持たず、貨幣に触ってさえいけないルールであるから、債権者が出家僧に出家前の債務返済を要求しても無理な相談である。持って無いカネを支払うことはできない。
 こうしたことを逆手にとって、修行する気などちっとも無いのに、借金を踏み倒す目的のためだけに出家して、ほとぼりが冷めたら還俗するケシカラヌ人間がお釈迦さま当時に出現したようで、それは本人の意志を重視する佛教の理念に反する。それで借金がある人は原則として出家できないルールを作ったそうだ。
 ここから二一世紀の現代インドへ飛ぶ。
 宗教者が社会の最上位身分というインド社会は二一世紀でも変わることがない。だからインドには真摯な出家志願者が今も多数いる一方で、儲けのための宗教ビジネスも繁盛している。それを批判したインド映画が「ピーケー」。
 ひょんなことからインドにきてしまった宇宙人ピーケーが巻き起こす珍騒動をコミカルに描く。面白いエンターテインメントであり恋愛映画でありつつ、しっかりとした社会批判の視座を有するすぐれた作品。その中で金銭欲と権勢欲しかないいんちき新宗教教祖を太った俳優さんが演じている。ピーケーが密かに恋するヒロインの親がその教祖の崇拝者。家の中は教祖様の顔写真だらけ。多額のお布施を繰り返している。
 ピーケーとは周囲の人が付けたあだなである。酔っぱらいという意味だそうだ。宇宙人だから名前なんか無いのだ。地球人の先入偏見が皆無なピーケーは見たまま感じたままを言う。その言動が変だ。きっと酔っ払いだろうと周囲の人びとが付けたあだ名なのだ。真実は、人にレッテルを貼る私たちのほうが狂っているのである。狂って転倒している私たちは、同じように狂っている人の行いを正常と判断し、まともな人のまともな言動は酔っ払いのたわごと戯言と決めつけるのだ。
 ピーケーはスペインの作家セルバンテスが造形したドンキホーテと同類である。ドンキホーテもまたまともな人間であるがゆに「狂人」とされてしまった。
 ところで以下は蛇足である。
 宗教ビジネスの教祖がする遠隔説法の末尾の言葉を聞いて私は驚倒してしまった。概ねこんなことを言っていたとおもう。
「なになに山のなんとか峰に素晴らしい師がおり、今現在説法をしている。君はそこへ行き、師の説法を聞きなさい。そうすればきっと解脱するであろう。」
 延々と説教し、最後に次に訪問するべき師の所在を教えて締めくくる表現。これは佛教、特に大乗の経典に頻出する定型表現なのである。ことに般若経類と華厳経に繰り返しでてくる。回数があまりに多いので読誦してうんざりするほどだ。
 佛教経典はだいたい二〇〇〇年前に作られた。それと同じ型式による説法が現代インドでも行われているらしいことを知って、私はびっくりしたのだった。人間の集団がもつクセというのは頑固に変わらないもののようだ。


うずしお

 夏目漱石、高峰秀子、ジョン・レノン、太宰治、ジェームズ・ディーン、尾崎豊などなど。 時代も芸歴も教養も性別も違うけれど孤児育ちもしくは準孤児育ちの人びとだ。 孤児育ち人物の気性に共通特性がある。 あらゆることへの潔癖さである。 かれらは物事の裏側の醜いからくりが瞬間的にみえてしまう心眼がある。近づいてきた人の好意的笑顔の裏側に隠されている真の魂胆を瞬間的に見抜いてしまう。 孤児環境は感性豊かな幼児にそんな悲しい能力を植えつけるものらしい。
 そうしてある人物についていちど淫靡ないやらしさを感じてしまった以後は決してその人とつき合わない。けがらわしい相手と思うのだ。人に利用されることへの警戒がとにかく強いのである。じぶんを利害抜きに愛してくれるか、そうでないかが善人悪人の判断基準だ。全か無か思考に陥る。したがって精神不安定で、その人生はしばしばジェットコースターのごとく激しく乱高下する。
 世の中に対してもそうだ。
 社会の多数派の人びとが世の中に感じているらしい信頼感が孤児育ちには微塵もない。いつも疑いの眼で斜に構える。 狷介にして孤高、よくいえば独立心あふれる性格。普通の人より、よほどしっかりした性格でありつつ、その裏に薄いガラスの脆さを隠している。 権威への反撥と全体主義嫌いもまた孤児育ち人物の強烈な特性だ。夏目漱石は博士号を拒否した。ジョン・レノンはビートルズ時代にいったんは受けた勲章を後に英政府へ突き返した。漱石にいたっては博士号授与を断る理由に、いまトイレでウンウンいってる最中だからダメだよ、と博士号と糞尿を引っ掛ける句で応えた。私事で恐縮であるがこの私も中学時代、役所から勲章のようなものを受けさせられて非常に嫌だった。教師たちになんどもなんども断ると言ったのに力づくで貰わされた屈辱体験だった。集団強姦された気分だった。その記念メダルは川に投げ捨てた。賞状は焼いた。
 みんなでいっしょ、みんな仲良く、みんなで力を合わせて、和の精神。
 こういう言葉を聞いた瞬間、孤児育ち者はその裏にある偽善のおぞましさに反発するのだ。むしずが走る、顔面紅潮し、言葉うわずり、血圧上昇し、心臓の鼓動が早く早く高まる。「そんなのはインチキだ。そんなことがあってたまるか」と叫ばずにいられない。 それはいくつかの自然条件がそろうと、海の水や空の気体にうずが発生するようなものだ。孤児育ち人物にいくつかの因と縁がそろえば自動的に苦しみ悶えが発生してしまうのだ。 しかし世の中の幸福な人たちがその苦悶の叫びを聞いてはくれることはない。決して。 死ぬまで苦しぬ悶える人生なのだ。


花筵

 寒くなった。
 一九九〇年代だったか春の高校野球の試合中に雪が降ったことがあった。ちょうど桜爛漫だったため、これぞほんとうの桜吹雪と冗談を言ったものだが、この春もまた桜の花を激しい霙が叩いた。 今日仕事中に寒気を感じた。風邪でも引いたかと思ったところ、夜外に出たら吐いた息が白く凍った。四月半ばに呼気が凍ったのは初めての気がする。 人は下半身から老化すると言われるが私は逆だ。 足腰は今も達者である。一日に一〇キロ歩いても二〇キロ歩いても平気だ。平均して二〇キロ弱を毎日歩くため靴底がすり減り穴があく。靴は消耗しても腰や膝が痛くなることはあまりない。私の足は太い。筋肉が発達している。
 その代わり、上の方から順番に衰えている。中学生の時から白髪があって三十歳ですっかり白くなった。それから二〇年たち頭の中身も衰えを覚える。 視力はすっかり衰えた。近いものは見えるのだが遠くが見えない。眼鏡をかけても駅の運賃表の文字が見えない。 そんな視力の弱さを活用することに私は決めた。
 例えばボクサーのパンチ力は一定だが、パンチを受ける相手の感受性の繊細さにより威力が変わるだろう。痛さを大きく感じる人と鈍い人とで、パンチによるダメージは違うに違いない。 目が悪いくせに私は視覚による感受に鋭敏である。目に入る情報が何でもかんでも脳に行く。張り紙の文字、通行人の表情、とにかくすべて情報として入ってしまうのだ。これは苦しい状況である。世間一般の人は無意識的に情報を取捨選択しているのだろうか。必要な情報と無用な情報、あるいは有用な情報と有害な情報とを無意識に選別しているのだろうか。それをできる人は生まれつきの天才だと思う。聞くところによると世の中のほとんどの人がそれをできるらしい。 私はできない。視覚だけでなく聴覚情報も取捨選択できない。あらゆる情報が感覚器官を通過し私の脳へ到達してしまう。 腹がいっぱいなのに無理やり口をこじ開けられご飯をねじ込まれたら拷問だろう。私の毎日はそんな拷問の連続なのである。 私はつくづく鈍感にうまれたかったと思う。神経が鈍い人を心底から羨ましく思う。刺激が痛すぎるため、私はゲームセンターとかパチンコ店に入ることさえできないのである。あの音と光の洪水。私にとっては暴力を受け続けるに等しい恐ろしい場所だ。 繊細さは老化しないらしい。一生付き合わなければならないらしい。そこで私は自分の視力の弱さを活用することにした。
 眼鏡をかけず外出することにしたのである。眼鏡を外した私は盲人に近い。店に入っても商品が見えない。張り紙の字が文字の方から目に飛び込むこともないだろう。人の表情もぼんやりとしかわからない。眼鏡をしなければ過度な情報の洪水を遮断できることに気づいたのである。欠点は生命が危険なことだ。道路の突起物につまづく。人にぶつかる。駅のホームの柱に衝突する。それでも情報量を減らせることは精神衛生に良い。 花の春が過ぎつつある。嵐と寒さを繰り返す今年の春の花は冴えない。毎日が「気温の高い冬」である。花の美しさだけは目に飛び込んで欲しいのに、かんじんの花筵じたいが存在しない春である。


風縁

 山陰が好きで何度か出かけた。
 考えてみるといつも冬だった。春夏秋の山陰を私は知らない。
 城崎で志賀直哉の文学碑を眺めたときは、温泉町に雪が積もっていた。浜坂駅からバスで出かけた湯村温泉も雪だった。鳥取の駅前宿に泊まった晩は夜の街を散歩した。閑散として県庁がある町にしてはやや寂しかった。山陰ではないが、美作の誕生寺を訪ねたのも厳冬の朝だった。この時は津山駅でうっかり岡山行き快速列車に乗り間違えた。発車後の車内放送で気づいた。そこで亀甲という変な名前の駅でいったん降りて後続の各駅停車に乗り直した。誕生寺になぜか江戸の振袖火事の火元の振袖と称するボロボロの布切れがあった。由来を記した板を読んだがその文章はすっかり忘れてしまった。
 石見の仁摩で日が暮れてから山陰線の小駅に降りて、山の上の真言宗のお寺を訪ね、宿坊に泊めてもらった。風が吹き荒れていて、夜の知らない土地で心細かった。道を尋ねようにも人がいなかった。ようやく寺を探し当てて到着したら、
「歩いて来なさった?駅から電話くれれば迎えに行くのに」
とたいへん暖かな歓迎を受けた。楽しい夜だった。
 その翌日、午前に温泉津を訪問した。観光ガイドに載っている有名な共同浴場で湯につかった。そこでは戦争中茨城県で海軍の訓練パイロットをしていたという元気なおじいさんの話を聞いた。戦闘機などに乗る予定の若い士官に操縦を教える教官の仕事だったそうだ。関東のことなら話があう。私の家の近くに零式艦上戦闘機のボディーを作っていた軍需工場があったから、その話をしたら、わしらはそんな偉い飛行機に縁はなかった。赤トンボというアダ名をつけた吹けば飛ぶようなオンボロ練習機に乗ってたのだとのことだった。だけどそのおかげで戦死せずに済んだのだろう。その共同浴場には桶のキープがあった。常連さんがそれぞれ名前を書き入れた自分の桶を棚に置いておくらしい。酒場のボトルキープならぬ「マイ桶」である。そのあと急いで下駄作り職人浅原才一さんの家を見せてもらい才一さんの小さな仏壇に手を合わせて、温泉津駅から列車に乗った。浴場で爺さんと数時間も話をしてしまったため、列車に乗り遅れそうになっていたのである。山陰本線は本数が少ない。乗りはぐれたらと数時間待たねばならない。
 これもやはり冬。一月十日ごろだっただろうか。出雲大社へ行った。出雲市駅で支線に乗り換え、終点の大社駅で降りた。たいそう大きな木造駅舎だった。そこから二〇分ほど歩いた。駅から離れていたのだ。街をあるいて行くと右側に場末の映画館みたいな小さい建物があった。のぞいてみるとそこも電車の駅だった。
 横なぐりの強い風が吹いていた。夕暮れで薄暗くなっていた。関東も高名な風の国で、その風の国育ちだから、風の強さに驚きはしなかったが、冷たさに参ってしまった。関東の冬の風は乾ききっている。出雲の風は水分を多量に含んだ重い風であった。気温が低いせいでその雨粒はいくらか結氷していたのか、頰にあたる風が痛く感じた。質が違う風なのだ。
 寒くて長くいられないから、じきに駅に戻った。駅の中は暖かかった。
 その夜は出雲市駅から京都行きの夜汽車に乗った。車内はたいへん空いていて、車掌さんは親切だった。夜中に目を覚まし、デッキのトイレに行って外を見ると、車両の灯りに照らされた線路ぎわが真っ白だった。かなりの積雪だ。
 和田山という駅に止まった。深夜だから乗降はないが、せっかくだからホームに出て、自分の乗って来た列車を見ると車体中に雪が付着していた。凄絶な形相だった。デッキの出入口のステップなどは凍結していた。列車は深雪の山陰路をすすんだ。音が雪に吸われる。静寂だ。私は長く窓のそとの雪を飽かず眺めた。
 早朝五時前に京都駅に到着した。
 お土産用に購入したお守札を、家に帰ってから机の引き出しに蔵っておいたはずなのだが、いつのまにか無くしてしまった。探してもどうしても出てこない。会社で話し弁解したら、それでお前は縁が無くなったのだと同僚が言った


宇宙無我

わたしがうまれた翌年、アポロが月へ行ったそうだ。もちろん覚えていない。月まで40万キロ未満の距離。歩くことが可能な距離であり、この広い宇宙では異常な近さといっていい。月と地球は互いに巡り合っている二重惑星か。
また、坂を登るために汗をかくこの地球上の重力の強さは、宇宙のなかの異常に特異な環境である。宇宙の大部分の場所の重力は、たぶん、ゼロに近いほどに微弱なはず。私たちは、現代の科学技術を使わない限りは、この地球の外に出ていくことができないのだから、いわば私たちは地球に縛り付けられている。自然体力による脱出が不可能という意味で。
ところで子どもの時分から宇宙の構造とか宇宙の果てとか時間とかを考えることが好きだった私は、いまもときどき好んで夢想に耽る。
私たちは、もしかしたらブッラクホールのなかの住人なのではないだろうか。
ある位置の重力が強大になると、そこの物質はそこにくっついたきり、そこから抜け出せなくなる。さらにさらに異常に強くなると、光を含めてあらゆる事象がそこを脱せなくなる。するとブラックホールへ物質が入る一方で何も出ないのだから、(ホーキング放射等を考慮しなければ)ブラックホールの質量は永遠に増加、重力も永遠に強まるだろう。するとやがて無限の高圧力になるだろう。物理学で無限の世界は扱えない。そんな世界で何がおこるのかわからないが、もしかしたら新たなビッグバンが生じるのではなかろうか。新しい宇宙がそこに生じてもおかしくないように思う。
もしももしも、私たちの宇宙が150億年前に、そうやってブラックホール内部に発生したのだとすれば私たちは全員ブラックホールの住人である。
そうすると私たちの宇宙に外側に別の親宇宙があるということになるが、ただし情報伝達が完全に一方通行であるブラックホール内側のわれわれが外側の別の宇宙の様子を知る手段はない。
親宇宙から子宇宙、子宇宙から孫宇宙。この世界観だと宇宙は絶えず新陳代謝し続けることになる。また、ブラックホールである子宇宙へエネルギーを注入しつづける親宇宙はいつかは物質を喪失して消えるかもしれない。宇宙にも生と死がある!
そうした子宇宙その体系の全体を「宇宙」とすれば宇宙は一つだし、相互に情報を通わせることができない宇宙同士を別の宇宙とかんがえれば、宇宙はいっぱいあることになる。
ただしそれを確認するすべはない。
宇宙の栄枯盛衰の時間を過去に遡ってみる。
親宇宙の前には祖父母宇宙があったのだろう。そのまえにもその先祖があったのだろう。そうやってずうーと過去へ遡ると、どこかで無から有が生まれたと考えざるを得ない(かもしれない)。
哲学者のアリストテレスじゃないけれど、自然の運動はみな自然の法則にのっとって機械的に動いている。しかしその動作の「始原の一突き」はどうしておこったのだろう? 神が最初の一突きを」くれた(と考えるしか)ないのだろうか。


赤い灯

 イギリス映画「マイネーム・イズ・ジョー」の主人公ジョーは中年男で、町の超弱サーカーチームのコーチをしている。
 映画の冒頭。そのジョーがとあるフラットを訪れ、玄関ドアを思い切り強打しつつ、
「オープン・ザ・ドア、ジス・イズ・ポリース!」(警察だ。ドアを開けろ)
と怒鳴る。
 数秒後、窓から飛び出す数人の男たち。
 それを見て腹を抱えて笑うジョー。
「お前たち、試合よりずっとすげーダッシュだなあ。」
「痛いよー、足をくじいた」
 実は、ジョーは選手の部屋に来ただけなのである。
 筆者は世田谷区のある御屋敷町に住んでいた。ただし家賃二万三千円の安アパートである(こういう物件は探せばあるもので、わが友人は三万五千円で渋谷に住んでいた)。
 そこは高級住宅地でアパートの前が有名な映画女優の家。裏は元総理大臣邸であった。総理の家はいつもひとけがなく静かで、見た目も貧弱、大きくもなく、毎日駅の行き帰りに門前をとおる女優さんちのほうがずっと立派であった。やや離れたところに、むかしむかし、そこを通りかかった井伊の殿様を猫が招いて呼んだというすごく立派な寺があって、そこの境内は招き猫人形だらけである。
 私がこの町へ来たのも猫に呼ばれたからで、それはにゃあと鳴くほんものの猫でないけれど、顔がすごく猫に似ていた不動産屋の女店員に勧められたからである。
 前に住んだ部屋が社宅で、その会社を辞めた私は即日に宿無しとなった。暑い夏の日だった。そこで、探すあても住みたい町の希望もとくにないから、新宿から乗った電車をテキトーな駅で降りて、降りてすぐ目についた不動産屋にテキトーに入ったのであった。   そこで、すぐに住める部屋を紹介してくれ、
と私は頼んだ。その夜から寝るところがなかったのである。
 まずは良い客だと思ったのか、店のお姉さんは優しいママ猫のように、あれこれと物件を提示した。だがどれもわたしには高すぎる。今日から失業者の仲間入りをしたことだし、とりあえず寝る場所があればいいと考えていたので、
「じぶんは貧乏だからこのあたりでいちばんやすい部屋にしてほしい」
と言った。すると店員はにわかに恐ろしげなバケ猫のような低い声音に変わり、
「残念ですが、お客さんのご希望のような物件は当店にはございません。」
 そちらは当店にはございませんで済むだろうけども、こちらは無くちゃ困るから、そこをなんとかと、冷や汗流しながら、頼んだら、
「ここから二つ先の駅の近くならあるかもしれません。」
とのこと。
 私は体裁よく追い出されたわけである。
 そこでそのお言葉のとおり指定された駅で降りて入った最初の不動産屋でもおなじように追い出された。が二軒目の不動産屋であっけなく二万三千円の超安アパートにありついたのであった。
 戦後すぐの物がない時代に急造したアパートらしく、マッチのごとくか細い柱と、薄い壁。ぺこんぺこんする弱そうな床。勢い良くジャンプしたりしたら、そのまま床を突き破り、下の部屋へ不法侵入しそうなほどであった。冷房などとという文明の利器はない。暖房についても、石油ストーブは危ないので使用禁止と契約書に書いてあった。どうやって越冬するのか。
 隣室の物音はなんでも聞こえた。私にあてがわれた部屋は二階であって、隣室は大学生らしく、しかしぜんぜん騒がない性質の学生らしく、いつもいるのかいないのかわからないほどだった。友だちがいないのかしらん。
 といってもやはりお屋敷街であって、わが貧弱アパートの周わりは、きらきらしたコンドミニアムがたくさん。たくさん。同じ敷地に住む家主は、おばあさんであったであったが、驚いたことに、まだ口もよく回らぬ幼い孫たちが、
「おばば様。」
と彼女を呼んでいた。
 そこへ落ち着いた数日後であった。幸いに再就職先もすぐ見つかり、ブーンブーンと跳梁跋扈する蚊軍の攻勢をブタの蚊遣り線香で撃退して、すやすや安眠していた深夜丑三つ時、玄関ドアの向こうが赤く光っている。のみならずその赤い光がなにやら円く回転している。規則正しく回転する火というのは聞いたことがないから、火事じゃないだろうが、なんだありゃ?
 起き出し、瞼こすりながら見ると警視庁のパトカー。
 アパート前の狭い路地を占領して駐っている。
 とっさに枕元の服を掴んで窓から飛び降りようとした私。
 このとき少しだけ知恵が回ったおかげで脚を挫かずに済んだ。
「オレなにかしたっけ?」
「いや、まだしてない。」
 落ち着いて玄関ドアを少し開けて見てみたら、件の警官たちは私の真下の部屋の前で、「おい〇〇、いることはわかっているんだ。ドアを開けろ。」
などと言っている。おいおい、いったい誰が住んでるんだ?!
 結局そのまま眠れず、翌日は睡眠不足のまま出勤。眠くてつらかった。警視庁に睡眠不足の損害賠償請求してやろうかと思った。
 思っただけでしなかった(小心者でございます)。


右往左往

 若いときのポール・マッカートニーのフィルムを瞥見した。テレビ出演かなにか、ごく短い映像。説明の要はないが彼は左きき。左手で弦を爪弾く。左利きのギター弾きは、弦を張り替えるのが普通だ。なかには右利きギターを単に百八十度回してひいてしまう人もいる。左右が反対なだけでなく、弦の配列も逆になる。ポールは通常は左きき用ギターを使っているはずだが、そのフィルムでは、通常の右利きギターをひっくり返して弾いていた。彼は両方の弾き方が可能なようだ。
 筆者も左利き。
 人から器用だと褒められることもある。だがコチラからいえば、右手を使える人の方がよほど器用みみえるのだ。私は右手で楽器を弾けない。右手で爪弾いたりしたなら、小学校低学年の音楽室からきこえるようなたどたどしい鈍足メロディになってしまう。右手で弾ける人が大天才に見えるのだ。
 ところでいま私は左手にマウスをつかんでこれを書いている。そして私は左手中指で「左クリック」をする。右利きの人たちが右手人差し指で行うクリックのことである。それを私は左手中指でする。「右クリック」に相当する動作は左手人差し指でする。頭が混乱したらごめんなさい。実際に指を動かすとわかるでしょう。
 つまり右側にあったマウスをそのまま左側に移動させただけなのである。コンピューターを使い始めた頃の私は、マウス設定のことを知らず、左側のボタンを押すとイエスの意味のクリックだと覚えてしまった。それが癖になって今さら変更できないのである。
 さりながらこれは長所がある方法であった。
 パソコンは私一人の占有でない。私が設定を変更したら、その使用後に、右利き用設定に戻すことをきっと忘れるであろう。あとで使う人が、またか、などと心中に舌打ちして設定を直すことになるだろう。会社内に左手でマウスを使う人物は一人しかいないので、あたかも女ばかりの家族のなかで使用後にトイレ便座を下げていないと批難されるがごとき怨嗟の的になっていたと思う。
 私はただ右のマウスを左に移動させて使うだけだから、使用の後も大抵は忘れず右側に戻す。うっかり左側に置き忘れて、帰ってしまっても後の使用者が右に置き直すだけのことだ。怨まれずに済んでいる。
 世の中の少数派はいろいろと煩わしいのである。


東雲に

 漢方医学に関する誤解の一つは、漢方薬は長く飲まないと効かないと思われていることだ。それは半分は当たっているが、半分間違いである。
 野や山の薬草、それはしばしばし毒草だ。
 喉がいがらっぽく、よく咳が出て、夜も咳が止まらないからおちおち寝てもいられない。こんな症状にはビワの葉の煎じ薬が効く。初夏の頃お店に出まわる美味しい果物のビワの葉である。まず葉を乾燥させる。カラカラになるまで干すといい。つづいてその葉を煎じる。できれば土瓶がいいが今時土瓶ない家庭が多いだろうから、普通のヤカンでも鍋でも良い水の量が半部以下になるまで煮詰めるとちょうど紅茶のような色になる。それを服用すると、二、三日以内に咳が止まるだろう。以上の例は日本の民間伝承医療であって漢方医学ではない。またビワの葉はアミグダリンという青酸の一種がわずかに含む。微量なら人体に害はなく、薬効があるようだが、猛毒ではあるから、咳が止まったらビワの葉茶の服用はやめたほうがいい。ビワの葉は町のお茶屋さんが売っている場合がある。庭にビワの木を植えている人に葉を分けてもらうのもいい。なお、農家の栽培用ビワの葉には農薬がかかっているだろう。
 話がそれるけれども、バラ科植物は共通してこのアミグダリンという青酸を含んでいるらしく、梅の実を食べてはいけないと言われるのは、アミグダリンを多く含むので毒だからである。梅干し加工をするとこの毒成分がきれいに抜けるのだ。
 漢方医学ではこのような有毒なバラ科植物の種をよく使う。アンズの種を杏仁。モモの種を桃仁と漢方では言う。これらの生薬を含む方剤は共通して気管系に効能があり、咳を鎮める、喘息を緩和するといった効能があるのである。例えばインフルエンザなど感冒系の感染症の初期に服用すると著効がある麻黄湯は、杏仁を含めた四つの生薬のアンサンブルのクスリであり、麻黄湯の薬効解説に、
「平素から丈夫で、体力充実した人の熱性疾患の初期で、頭痛、発熱、悪寒、腰痛、四肢の関節痛などがあり、自然発汗のない場合に。感冒、インフルエンザ、関節リウマチ、喘息、乳児の鼻閉塞、哺乳困難」
などに効くと書かれている。
 インフルエンザを起こすヴィールスが体内へ侵入すると、私たちの遺伝子をヴィールスの RNA 遺伝子に書き換えてしまう。そうしてだまされた私たちの体がせっせとインフルエンザヴィールスを増やしてしまう。逆から見る言い方をすると、自分の子孫を作るためにウイルスは他の生き物に進入するのである(ヴィールスは細菌と違って単独生殖できない)。
 いくつかの医学論文に依ると、この遺伝子書き換えを阻止し、かつヴィールスの増殖をストップさせる性質を麻黄湯が有するらしい。その場合おそらくはヴィールスの種類を問わない。なぜなら漢方医学の古典が書かれた二千年近く昔と今とヴィールスの種類が大きく違っているはずなのに、古典の記載どおりに現在もこの方剤がよく効くからである。おそらく未知の新型のヴィールスに対しても効果があるであろう。
 ただし症状が進行し、体内のヴィールスがおびただしい多数に増えてしまってからでは麻黄湯では力不足なようで、昔から風邪初期だけは葛根湯または麻黄湯(=風邪をこじらせてからでは効かない)と言われてきた科学的根拠がここにあるらしいのである。
 なおこの文章を早合点して、青い梅の実とかアンズやモモの種を食べてはいけない。漢方伝統の毒抜き技術で毒性を弱めてクスリにしているので、素人が真似してはいけない。梅の実だって梅干しにする過程で毒を抜いているのである。バラ科植物を食べてアレルギーを起こすこともある。面白いことに漢方でアレルギーを治す効能を持つ方剤はバラ科植物の生薬を含むものがある。毒は薬ということであろうか。
 本説に戻る。
 漢方薬というのは生薬(主に薬草)を数種類組み合わせて調合する薬だ。薬草アンサンブルだ。だから漢方薬は基本的に食べ物である。例えば冷奴の薬味などに重宝する生姜は漢方でも生薬として頻用する。漢方医学では「しょうきょう」と読む。おなじ生姜でも、蒸して乾燥させたものを乾姜(かんきょう)といい、薬効が違う別の生薬である。
 漢方薬の多くが、このような生薬をいくつか組み合わせて土瓶にかけて弱火でコトコト煎じて濾したスープ状の液体なのである。葛根湯とか桂枝湯とか、末尾に「湯」がつく方剤は皆このようなスープ状の薬だ。中国語の「湯」は色々な食材を煮込んだスープの意味である。日本語の「湯」とニュアンスが違う。
 余談だが、二一世紀の今でも、われわれは「薬を飲む」と言う。これは変な言い方ではなかろうか? 現在の医師が処方する薬剤のほとんどは錠剤だ。日本語の「飲む」は液体を摂取する場合に使う言葉だ。それなのに錠剤の薬を服用するときクスリを飲むと言う。変な言い方だが、私の想像では徳川時代の漢方医の伝統が今に残っているのだろう。上に述べとおり漢方薬のほとんどが温かい液体だから、むかしの人たちは「クスリを飲む」と言っていた。その言い方が今につづいているのだろう。
 このように漢方薬の元はだいたいが食べ物であって、しかも長時間煮込んでその薬効成分を抽出したスープであるから、非常に消化が早い。生物学的にいえば低分子化合物なのである。ゆえに漢方薬を飲むとたちまちに効き目があらわれる。まず身体の芯からポカポカと暖かくなる。つづいて、早い場合は服薬後一〇分や二〇分で、それまで苦しんでいた症状が治ってしまう。医師の見立てがピタリと当たった時はほんとうに素早く効くのである。これは私自身が自分に服用して漢方の効き方の速さに驚いたことなのである。飲んですぐ嘘のように病状が楽になるものである。漢方薬を服用してなんの効果もなかったらそれはその時の医師の見立てが患者の状態とやや外れたということだ。診断がずれたら漢方薬を服用しても身体に特に何も起こらない。
 その処方が今の自分の病態に合っているかいないか判断する簡便な方法があるので紹介しよう。それはそのクスリを口に含んだ瞬間に美味しいと感じるかどうかだ。処方がピタリと的中した場合、口にした瞬間
「うんこれだ! これだこれ! このクスリだよ!」
と叫びたいほど美味しく感じる。そしてそう感じた処方は服用後たちまち薬効を発揮するのである。苦しんでいた病状があっけなく治る。これは私自身が経験したことなのだ(後註参照)。
 反対に、不味いと感じるくすりを服用し続けても、たいがいは効かない。お金の無駄使いになるだけだと思う。それから、食物アレルギーがあるように漢方薬に対してもアレルギー反応を起こしてしまう場合がある。薬効を感じない漢方薬を辛抱して飲み続けることは薦めない。
 昔から、良薬は口に苦しと言う。これは教訓というより実際のことを言っている言葉だ。漢方薬の中には甘麦大棗湯のように、甘く美味な薬もあるにはあるけれど、味匂いともにまずいものが多い。薬草系生薬はアルカロイドを含む植物が多い。そのため苦く不味いのである。麻黄という薬草など、野生動物は食べないそうだ。だから漢方の良薬は口に苦いのだ。そんな客観的には不味いスープ状クスリであっても、診断がピタリと的中している患者が飲んだ場合だけは非常に美味しく感じるのだ。健康な人が飲んだら顔をしかめるほどにまずい液体なのだが、面白いものである。

 漢方医学に対する誤解のふたつめは中国の医学だと一般に思われていることだ。漢方の源流は確かに中国文明にある。しかしそれは日本列島で発達したこの国の伝統医学である。現在の中国の伝統医学を中医学という。漢方と中医学とは源流が同じだから似ている面は多い。しかし似て非なるものである。これは長く述べる価値がある。
 方証相対といって症状の名前がそのまますなわち患者に投与すべきクスリであって、医師の自由裁量の幅が狭いことが日本漢方の特徴である。マニュアル化が進んでいるのである。それに対して中医学は、古来の伝統にあまりこだわらず、その患者に合わせ自在に生薬を増減させたり入れ替えたりするそうである。医師の自由裁量の幅が広いと聞く。マニュアル化が進んでいないから医師の技術によって治療効果が大きく変わるだろう。
 日本漢方は、例えば葛根湯であれば、舌を見たり腹診をしたりして、患者がわりと体力がある人で、自然に汗をかいておらず、肩こりやうなじにこりがあって、鼻水や喉の痛みセキなど風邪の初期症状を示していたら、医師は葛根湯の証と判断する。そこで葛根・麻黄・大棗・桂皮・芍薬・生姜・甘草の七つの生薬を煎じた葛根湯を服用させるのである。同じように風邪の初期であっても、痩せて青白い体質の人に葛根湯は使わない。香蘇散など別のクスリをだす。クスリを構成する生薬アンサンブルが決まっているから、レディーメイドのクスリを製薬会社が生産販売できるのである。
 医師が自由自在に生薬を配合する中医学だと、クスリのほとんどがオーダーメイドということになり、規格化されてないから、あらかじめ製薬会社が生産するのは難しかろうと思う。
 なお、ある生薬を含む漢方薬を服用すると、ドーピング検査に引っかかる恐れがあるから、アスリートは注意するべきである。


夕映に

 五年前の春、小便が出なくなって難渋した。あばら骨の下の部分を押すと痛みがあり、空気を充分に吸えない息苦しさをかんじたため町のドラッグストアで柴胡加龍骨牡蠣湯という漢方薬を購入し服用したところたちどころに治った。後で知ったのだがこの方剤は古代中国の医学の古典「傷寒論」に記載されているもので、そこに「小便不利を治す」(小便が出ない症状を治す)と書かれている。昔の人の叡智に感動したものである。
 また去る年の春に気逆を起こした。それは身体に平均的にあるはずの「気」が上の方に集まってしまうアンバランス不調のことである。頭は火照って顔があついほどなのに、足が冷えるといった症状が典型的である。この時自分で鏡を見て舌と顔色を診察し気逆を起こしていると気づいたので、町のドラッグストアで苓桂朮甘湯を購入。服用したところ瞬間的に治り楽になった。
 上に記載した二つの方剤(柴胡加龍骨牡蠣湯、苓桂朮甘湯)はどちらも精神安定効果がある。漢方の抗鬱薬と呼ぶ人もいる。
 後者の苓桂朮甘湯は古来「水滞」を治すと言われる。
 漢方は体内の無色の液体を「水」という。水滞の状態に身体がなると、めまいとか立ちくらみ、むくみ、気分の落ち込み、低血圧傾向、浮腫などをおこしてしまう。こういう水滞を治療するクスリの一群を利水剤といって、苓桂朮甘湯はそのひとつだ。これは昔から、立ちくらみ等を直すだけでなく、気分を明るくさせる効能があることが経験から知られていた。けれどなぜそうなるのかはわからなかった。それが最近になってわかりかけてきたのである。
 二〇一八年六月に山梨大学の小泉修一教授らの研究グループが、SSRI と呼ばれる抗うつ薬のひとつ、フルオキセチンを実験動物に投与。経過を観察したところ「うつ病治療薬がグリア細胞に作用して治療効果を発揮することを発見」した研究成果を発表した。
 グリア細胞とは、神経細胞を支えて栄養補給をする大事な細胞だ。その一種のアストロサイトにフルオキセチンが作用することで、うつ病治療効果が発揮されることがわかったのだそうである。
 ところでこの研究よりも前に、やはり日本人研究者の磯浜洋一郎教授(東京理科大学)が、漢方の利水剤のひとつ、五苓散がアクアポリンというタンパク質の活動を抑えて、脳浮腫を改善することを発見していた。アクアポリンは、細胞膜内外の水分移動を司っている。脳のどこかが損傷すると、そこへ水分が過剰に集中して脳浮腫がおこる。利水剤は、このアクアポリンを抑制して、水の過剰状態を直すのだ。
 神経細胞の周囲、アストロサイトの間に水が過剰だと、神経細胞がいわば水浸し状態になっていて、神経の信号がうまく伝わらない。そんなとき漢方の利水剤を服用すれば、クスリがアクアポリンの活動を抑え、神経細胞を健全に戻してくれるというわけだ。
 磯浜教授の研究と小泉教授の研究成果を総合すると、苓桂朮甘湯などがアクアポリンを抑制する結果、「水浸し」が解消されて神経細胞が元気を取り戻す。ゆえに立ちくらみ等の改善と抗鬱効果を発揮すると解釈できるのである。
 また広い意味でビタミンであるイノシトールという天然の物質があり、食べものに多く含まれているのだが、イノシトールに抗うつ効果があるとする研究が外国でいくつかある(効果なしとする研究もある)。wikipedia の「イノシトール」の項目に、抗うつ薬のフルボキサミン(これも SSRI )をうわまわる抗鬱効果がイノシトールにあるとする研究が記載されている。
 そのイノシトールもまたグリア細胞に作用するのである。それは細胞の浸透圧の調節をする。ただし作用速度がゆっくりなため、細胞外液に急激な変化があると、細胞からのイノシトール排出が間に合わず、脳浮腫をおこしてしまうことがある。こうした状況で漢方の利水剤を服用すると、アクアポリンが抑えて、細胞水浸し状態を改善すると思われる。


精神病棟三階

ところで精神病者はほんとうに狂っているのだろうか?
私にはそう思えない。
十年ほど前、ある摩訶不可思議なる因縁によって入院患者の一人として精神科病院入院病棟を親しく見聞した。
ガチャンと閉める閉鎖病棟であった。見るもの聞くものビックリの連続であったが、喜びの驚きが大きかった。
さて私がまず驚いたことは患者の彼等彼女等の無私無欲なことである。
患者たちは週一度の購買を何より楽しみに心待ちにしている。指を折って「あと何日」と数えて待っている。
閉鎖病棟であるここでは患者は現金を持たない。また持っても無意味だから病院が預かっている。その中からいくばくかの現金を引き出して、好きなものが買える。
閉鎖の外に出られることも魅力なのだ。狭い場所に閉じ込められているととにかく外の空気が嬉しい。
購買ではお菓子を買う人が多かった。 スナック菓子や甘い饅頭など。 ところが何日もせつなく待ってようやく買えた菓子を、いざとなると惜しげもなく他の患者にくれてしまうのだ。
自分はわずかしか食せず多くは人にくれてしまう。 もっとも他の患者も同じことをするから、巡り巡って結局お菓子の量は増えも減りもしないことになるのだが、患者たちは決して計算づくでしているわけではない。それは、食欲がなかったり甘いものが嫌いで食べない患者にも容赦なく与えてしまうのでわかる。
だから菓子嫌い患者のベッドの枕辺はお菓子がうずたかく積まれ、彼はあっという間にお菓子の王様になってしまう。その様子を見ても、与えた者は不平も云わず、
「あたしに帰せ」
とも云わない。あるいは与えたことを忘れてしまったかもしれないが、それならなおのこと。
さてこの「お菓子の王様」は菓子の処置に困るから、結局別の患者にくれてしまう。つまり横流しする。それをみても元の持ち主はなんら苦情を云わぬ。 ここまで執着がないともはやさとりをひらいたひとにちかい。
精神医学の教科書には「統合失調症は病識(自分が病気だとの自覚)がない。それが一番の特徴である」と書かれている。
だがこれは嘘である。
なるほど病状の波によって病識を失う時期はある。 しかし患者は自分が統合失調症と診断され、閉鎖病棟に収容され、そうして自分と家族が社会的差別を受けていることを明晰に意識している。
この人を仮に甲さんとしよう。甲さんは五十歳代後半の方で、少々気が荒く、妄想や幻視もあるようで、教科書に記述されるような典型的統合失調症だった。粗暴なところがあってつきあいづらいタイプでもあった。 しかし甲さんはあるときしみじみと私に話して聞かせたものである。
「俺にはせがれがあって三十近いんだけんど、俺が精神病だからいつまでたっても結婚できねぇんだよ。あんた外の世界に帰ったらこういう差別だけはやらねぇでくれよ」
この人は狂っているだろうか?
別の若い女の患者は妄想があるようだった。この人は乙さんとしよう。 乙さんは私に毎日決まった時刻に悪魔がやってきて襲われる話しなぞを私に聴かせた。けれども別の時にやはりしみじみと
「普通の病院なら患者とナースの結婚とかあるけど。ここは精神だから・・ね・・」
と語った。
この人も狂っているのだろうか? よく考えなければいけない問いである。
丙さんは、甲さんと同室で仲が良く、甲さんよりいくらか年輩だった。六十歳代くらいだっただろうか。
丙さんは町のどこにでいる感じの方で、どこが悪いのか分からなかった。 しかし若い時分からもう数十年精神科病棟に「住んでいた」。
いわゆる社会的入院である。
あるとき丙さんが発作を起こした。 もとより自分は医学はわからないが、息が苦しそうだった。あいにくそのとき部屋に医師も看護人も居らず、ほかの患者はグーグー高肝をかいて寝ていた。 そこで私がナースステーションまで駆けてことなきを得た。
丙さんからずいぶん感謝された。
私が病棟を去った後、拙宅に丙さんから一葉の葉書が届いた。おそらく数十年ぶりに筆記用具を手にしたのだろう。たどたどしいふるえる文字でただひとこと
「ありがたう」
とだけ書かれていた。私は涙なしにこの文字を見ることができない。
私がこの世を去るまでずっとずっと私の宝である。丙さんはふつうに人間あつかいをされたことがうれしかったようだったとあとで看護人から聞いた。
認知症 (いわゆる老人ポケ)の患者もたくさんいた。
あるおばあさんは、
「タバコですっ」
の一言で有名だった。
病院は火事が恐い。 足腰の悪い人や車椅子生活の人が大勢いる。まして閉鎖病棟である。
そこで火の管理を厳重にするため、タバコは決まった時刻に喫煙室で吸うルールになっている。
その決まりを説明するのだが、このおばあさんは何回言って聞かせても言ったそばから忘れてしまう。
それで一日中喫煙室の傍の柱の前に立っていて、忙ぎの用事の通りかかる職員に絶妙のタイミングをもって、
「タバコですっ」 (タバコの時間です吸わせてくださいの意)
その表情が眉を八の字に寄せていかにも困り果てている様子なので、言われた職員はズッコケて、つい吹き出して笑ってしまう。それで
「さっき吸ったばかりですよ」
と言って聞かせるがすぐ忘れてまた
「タバコです。」
と云う。
一般に認知症患者は、何もかもわからなくなってしまうと思われがちだが、そんなことはない。
このおばあさんの名を仮に丁さんとしょう。
丁さんはタバコを決まった時間に喫煙室で吸うことはきちんと理解している。
ただあいにく先刻吸ったばかりであることを忘れてしまうだけなのである。その証拠に丁さんは職員と患者の区別をきちんとつけている。患者は毎日のように入れ代わるし、職員もよく交替する。
にもかかわらず、丁さんは一度も患者に「タバコですっ」と言ったことがなかった。 理屈はちゃんとわかっているのである。
ちょっとまえに、
「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン」
という歌が流行った。
そんなにオンリーワンが好きならば、ぜひ精神病院に入院なさると良い。 お勧めする。
そこには芳烈なばかりに個性の光を放つオンリーワンたちがたくさんいるから。 そこはワンダフルランドだ。 奇想天外驚天動地のできごとも連続する。
ある男性はアルコール依存症と肝臓病で入院 していた。
余談になるが、アルコール依存症は本当に恐い病気である。世間は酒を百薬の長とか、社交の潤滑油とか、般若湯だとかそんなふうに持ち上げて宣伝してはいけない。ほかの精神疾患の予防は困難だが、アルコール依存症に限っては酒さえ飲まなければ罹患しないのだから。
アルコール依存症患者は飲みたくて酒を飲むのではない。
酒がきれると精神的不安定に苦しくなり、手が震えるなどの症状がおきる。それで飲みたくないのに飲むのだ。飲めば酒が効いている間だけ症状は治まる。 でも切れると同時にもっとひどい状態に襲われる。
アルコール依存症患者は毎日々々休みなく酒と格闘しているのだ。
あれは一種の弱い麻薬である。本物の麻薬より始末の悪い麻薬だ。なぜなら外出すれば町中到る所に酒が売られているし家内でもテレビを毎日見なければならぬ。それを目にして飲まずに耐えるのは本当に難しい。 拷問のようなことである。とにかく生まれつきの下戸以外は誰でもかかる可能性がある。アルコール依存症患者の人格自体を蔑んで見下すべきでない。
さてSさんはアルコール依存症で入院していた。
病棟内ではもちろん飲まない。飲まないし飲みたい気持ちも起きない。酒を飲める可能性がない場所ではアルコール依存症患者はかえって気楽に暮せる。
それはともかく、Sさんはすこぶる男前のいい好漢であって、
「俺は悪知恵だけははたらくんだよ」
と云った。
Sさんは自由に外出の許可を得られる。外出時には、もし飲酒すると激甚な不快感に襲われる嫌酒薬を飲むのである。肝臓がアルコールを分解するとき一時的にアルデヒドという毒物ができる。いわゆる下戸な人とは、生まれつきアルデヒドを解毒しにくい体質なのである。嫌酒薬はアルデヒドを分解できないように作用する。いわば人工的に強烈な二日酔いを起こす薬だ。
その薬のお蔭でSさんは自由に外出できるから、
「外でね、ジュースのペットボトル買って、中を酒に詰め替える。 荷物検査で蓋あけてジュースの中身まで調べないからね。それで、のみ終えたらトイレの窓から外にほりき投げちまう。誰が捨てたか証拠がないだろう。」
持ち込みくらい簡単だよと、快活に笑った。もっともSさんは話すだけで実行はしなかった。する様子もなかった。 一緒にいるとたのしくなる、景色のいい人であった。
ちょうどこの時、夏の甲子園高校野球大会で地元のチームが全国優勝した。みんなでテレビを見て歓声をあげて応援したものだ。 優勝の瞬間にはみんな抱きつきそうに喜んだ。
自分は一回戦の勝利を見て、その左投手の大きく縦に割れるカーブを高校生打者は打てないと感じたので、
「もしかしたら優勝か準優勝するかもよ。」
と云っておいた。
患者たちはその言葉を記憶していて、私のことをすごいとか予言者だとか言って誉めてくれた。私は素直に嬉しかった(また余話になるがこの大会は強打者に左打ちが多かった。私も左利きなので、ああいうタイプの球がいかに打ちづらいか想像できた。 実際どのチームの打者も全然タイミングがあわなかった。)
とにかく私は、あの精神科病棟でそれまでにない深いやすらぎを得たのである。
そのあと生き馬の目を抜く娑婆世界に戻ってから、あのようなやすらぎを感じたことは一度としてない。
あの情景を小説にしたいと発願し書こうとしたものの才能がなく書けなかった。もしも偏見を無くすために映画化したいという人が現われたなら協力したいと思う。
むかし北杜夫氏が書いた「マンボウ医局記」はいい本だ。北氏は精神病院に産まれ、幼少から精神病者と一緒に過ごし、自身精神科医にして患者でもある稀有な人だった。だから偏見がないのだ。ああいう仕事の協力ならばぜひしたい。
看護人たちは概して偏見がなかった。 毎日々々患者と身をもって接しているからだろう。それに対して医師たちは、かなしいことにダメ人間をしていた。
中には謙虚な方もいたが、高慢ちきで「おまえらと住む世界が違うよ」と態度で表現する背の高い男 がいた。この男は診察室での数分の面接以外では決して患者と会おうとせず、対等な人間として接しようとせず、好き勝手に病名をつけて澄ましていた。やる気のない人でもあった。
フケの多いボサボサの髪と不潔な白衣をだらしなく着た男性医師もいた。 始めて会ったとき医者だと信じられなかった。先に述べたアルコール依存症患者Sさんのほうがよっぽど医者風で立派に見えた。
診察室内で患者の欠点をあげつらって威圧的に叱りつけるのを趣味にしていた女もいた。サディストに違いない。患者はうつむいて嵐が過ぎ去るのを待っていた。彼女も患者と肌で接しようとしなかった。自己の妄想中に浮かび上がった病名に固執して、患者にその病名による狂人のシールを貼付することにこだわった。その女医は パラノイア (偏執症)でもあったのだろう。
それなのに患者たちの多くはこの女 を悪く言わなかった。 「Y子先生はよくしてくれる」とさえ言っていた。
医師たちはつねに外国製の高級車を 時に運転手を従えて乗り回していた。
これらのことから私は、あまりに純真無垢なこころの持ち主は、娑婆世間で痛めつけられ、狂わざるを得ないのではあるまいか。そう思うようになった。
どうかしている人間は閉鎖病棟の外側でのさばっている。
そうしてまともな人間は隔離病棟に収容され差別されているのではないかと。
その質問をある患者にぶつけてみた。
この人の名をKさんとしよう。 Kさんもまたアルコール依存症と肝臓病である。年齢は四十歳代前半。 妄想等はない。外見はただの人である。酒で身を持ち崩した、いわゆる世間的価値では「人生の落伍者」と蔑まれる立場にある。
Kさんはじっと私の話に耳をかたむけてこういった。
いくらか吃音の声で
「そうかもしれないけど、おれはやっぱ違うとおもう。 やっぱり外で一所懸命働いている人がまともで、俺はまともじゃないと思うし、そう思わなきゃいけないとおもう」
これを聞いた瞬間、わたしはこの人は狂っていないし、ここにいる人たちは全部狂っていないのだと確信した。メディア機関にお願いがある。 事件報道の際
「容疑者は統合失調症のため精神科へ通院していました」
と言わないでほしい。 ほかの病気のとき同様のことを言うだろうか。たとえば
「容疑者は糖尿病のため内科へ通院していました」
などと
精神病棟内ではたしかにいろいろの事件が起こる。 奇想天外の事件の連続である。
ケンカもあるし色恋沙汰もある。また、外の世界に出てから犯罪をする人もいる。でもそれは所謂「正常な」 人々も犯罪をすると同じことである。 いかなる人も悪事をする。 悪事をする緑に過えば悪事をする。反対に、良いことができたのは良いことをするご緑にめぐり返えたからなのである。 その人の手柄ではないのである。


心はペパーミント

 映画「ニューシネマパラダイス」。
 主人公の小さな少年トト。
 映画館・天国座の椅子から体をよじり振り向いて、背後の高いところ、獅子の口から吐き出されている神秘的な青白い光に見惚れる。
 少年の多感な心に、技術の不思議さが映じることがおそらくだれにでもあることと思う。トト少年にとってそれは、大きなスクリーンに老若男女の喜怒哀楽を映し出す青い光。そして、映写室でそれを投射させるアルフレードおじさんだった。アルフレードは戦争に行って帰らない父に似ていた。
 筆者の少年時代は、大手映画会社が続々と経営に行き詰まるほどの急激な映画退潮と重なって、映画館に入った記憶さえあまりなく、トトのような映画への感慨を私はもたない。私にとってのそれは、レコード盤と針である。
 くるくるまわる大きな黒い板に音が入っていることさえ不思議であった。そこに、かするかかすらないかのように微かに接触する針先から音が出るそうだが、これが不思議で神秘的であった。だいいち、重そうなアームがなぜに宙空に静止できているのか、それがどのような機構で、絶えず揺れ動くレコード盤との絶妙な距離を保ち、針に溝をトレースさせているのか、これが謎で、たまらなく魅力的であった。
 一九八二年ごろのことだが、中学生だった私は、高性能な再生装置を買ってもらった同級生の家に遊びに行ってレコードを聞かせてもらった。彼は大きい音でかけて聞かせてくれた。
 繊細で傷つきやすいレコード盤を丁寧に取り出し、再生機に載せる。その荘重なしぐさがいかにもミステリアスな神殿入場儀式のよう。
 ジャケットから出されたレコート番が高貴な匂いを放ち、それがこれから聞く音楽への期待の胸を膨らませる。
 針を置く。
 まず、チリチリと針のスクラッチ音がする。
 つづいて楽器のチューニング音がした。
 一瞬の間をはさみ、ドラム奏者のスティック打音七回。
 また一瞬の間を挟み、密度の濃いあたかもオーケストラのような分厚いバンドの大きな滝のような三連音がなだれくだった。なんどもなんども。
 私は飛び上がるほどその音楽に魅了されてしまった。
 その友人に録ってもらったカセットテープを私は、かぞえきれないほどたくさん聞いた。聞けば聞くほど新しい発見があり、嬉しい喜びがあって、私に中学時代のすべてのようになった。聞いているうちに私の魅了は、そのアルバムの音から、詞に移っていった。音楽の素晴らしさにまったく引けを取らない素晴らしい詞だった。ひとつひとつ、言葉が光り輝き、しかもその言葉たちが、音と少しの齟齬なくぴったり合っていた。函と蓋がぴったり噛み合っていたのだ。この音楽にはこの詞しかないと思わされた。そのうちに当時のヒット曲のなかに同じ作詞者の作品を数多く発見した。そのうちのいくつかの作品の詞のセンスの秀逸さ、言葉の美しさが少年の私を酩酊させた。
 そのレコードは八一年にソニーから出た大ヒット作だったのである。作曲者は残念ながら先年亡くなった。
 ちょうど同じ頃、フィリップスとソニーがコンパクトディスクを発売した。何年かするうちに、世の中みんな CD に移行してしまった。 CD はレコード針の役目をレーザー光に置き換えたもので、再生方法の原理はそれほど革新的でもなかった。私にとっていちばん変わったのは、同じ演奏なのに CD で聞くと何故か感動しないということと、あの神秘的な針のトレースを見ることができなくなったことだった。簡便で、匂いもなく、味気なくなった。
 時代がさらにさらに変わった今では、ただ一瞬のダウンロードだ。音楽が物理的に再生されている様子を見るなんて夢の夢だ。大きな三〇センチ LP 時代の美しいアルバムジャケットアートなども、荘周の夢のようになってしまった。
 中学を出てじきに働き始めた私は、音楽を聞く時間を失った。彼らに受けた影響はすごく大きいけれど、考えてみればわずかに二年ほどのつきあいでしかなかった。
 長く離れ暮らした小学校の跡を訪ねると、こんなに小さかったのだろうか、と人は怪訝の想いに耽るものだ。
 こころのポケットを展いて、音楽を出してくれたレコードとたち。
 時のながれという電車がぼくたちを引き裂いて、あんなに偉きく見えた彼らが、ビルの硲間に背伸びしては首をすくめるタワーのように、いまは小さく変わった。
 老いたぼくはじぶんの死をおもう。慄然とする。死はじぶんにとって死刑執行みたいだ。じぶんは期日未定の死刑囚に過ぎない。からだが元気なときは死がこわくて「うまれてこなければ良かったのに」と思う。でも病気になると、死が少しもこわくないのだ。むしろ死は懐かしい故郷に感じる。むかし二階の屋根の上に登って瓦を降ろす仕事をしたとき、上がるまえはすごく恐くて脚が震えた。脚をかけたはしごが体重でしなったときは、とてもあがれないと思った。ところがいったん上がってしまったら恐怖は消えた。むしろすがすがしかった。死もまたそんなことなのだろうか。
 路面電車がまきあげる風の木の葉が、無臭を志向するこのモノクロームの世界に、光あふれるささやきを届けてくれる朝が、ふたたびくるのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?