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丸山議員を批難する世間の声の異常さ

既にテレビやネット等でご存知の方もおられるだろうが、丸山穂高議員が北方領土交流訪問団の大塚団長に語った言葉が物議を醸している。

その内容は以下の通り。
丸山議員「団長は戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか?反対ですか?」
大塚団長「戦争で?」
丸山議員「ロシアが混乱している時に取り返すのはOKですか?」
大塚団長「戦争なんて言葉は使いたくないです。使いたくない」
丸山議員「はい、でも取り返せないですよ」
大塚団長「戦争するべきではない」
丸山議員「戦争しないとどうしようもなくないですか?」
大塚団長「戦争は必要ないです」

私は、このやりとりを見て少なくとも議論になっていないと感じた。
議論と言うものは『聞く→問う→答える→聞く』を繰り返す中で『なぜ?』を掘り下げていくものだが、団長は丸山議員の問いに対して『なぜ』を説明せずにダメなものはダメと切って棄てている。
もちろん、団長自身は元島民という辛い経験から、丸山議員の問いかけに耳を塞ぎたくなる気持ちはあったと思う。
ただ、それとは別に実際問題として、一度取られた領土と言うものは、戦争して勝たなければ戻って来ないのが現実だ。
また、核を持っていない日本と核保有国のロシアとではまさに蟻と像。戦争以前に交渉にもならない。
現に2島返還ですら「平和条約締結の後で」と言われている。
返還されないうちに平和条約を締結して国境を確定してしまっては、北方領土が正式なロシア領とされてしまう。
丸山議員はそれらを理解した上で「ロシアが混乱している時に取り返すのはOKですか?」「戦争しないとどうしようもなくないですか?」と問いを投げかけたと推察される。

さて、今回の件で問題なのは、丸山議員を批難する世間の声だ。
同議員へ向けられた意見の大半は、本筋とは大きく外れた感情論と人格否定に終始している。
百歩譲って「中国の海洋進出著しい中、ロシアと関係を悪化させるのはマズイ」と言う意見ならば私も分かるのだが、そういう戦略的な見地からの批判は私の知る限り一切聞かれない。
テレビのコメンテーター等は、本件の事とは全く関係のない過去の不祥事をあげつらい「人として」「男として」等と言いたい放題だ。
中でもおかしな批判は「議員の資格がない」と言うもの。
何をもって資格がないと決めつけられるのだろう?
もし、戦争について語った事だとするなら、それこそ世界中の政治家が議員の資格なしとなる。

戦争について触れただけで、まるで化け物のように扱われる。
私達は、これと全く同じ事例を知っているはずだ。
かつての戦時中、戦争に反対的な意見を述べただけで「非国民」と批難されたが、同じように現在は、戦争の可能性や防衛力強化について触れただけで「軍国主義者」と言われる。
周囲と違う意見を否定し、周りと同じ意見であることに安心感を覚える。この本質は半世紀以上を過ぎた今も何も変わっていない。
丸山議員を批判する人の心理の中には「とりあえず彼を叩いておけば皆と同じになれるから安心」と言う意図が透けて見える。
しかし、これこそ「非国民」と叩いて安心していたかつての失敗と何も変わらないのだ。

このように、私達は人の意見を聞く気が無い割に、自分の意見を押し付け、その割に他者と同一である事に安心感を覚えている面がある。
これは、スペインの哲学者オルテガの言う『大衆』の典型だ。
ここで言う『大衆』は、一般的イメージにおける階級的な意味ではない。
オルテガはロシア革命やファシズムの台頭と言う激動の20世紀前半を見て、他者の意見に耳を傾けず、数だけを頼みに自分達の正義を振りかざし、他者に非寛容な態度をとる人々を『大衆』と呼び嘆いたが、私たちはそのような要素を孕んでいるのだ。
そして、このような傲慢な『大衆』による私刑が公然と行われているのが今の日本の現状なのである。
これは、今回取り上げた件だけでなく、今SNS上で行われている所謂ネトウヨとパヨクの論争も同じである。
敵だ味方だと騒ぎたて、他者と同一である事に安心感を覚える割に、意見の違う他者を一方的に攻撃する愚を犯しているのだ。

どのような意見に対しても聞く耳をもち、万機公論に決する。
我々はもう一度先人達が築き上げて来た民主主義の本質に、今こそ立ち返るべきなのかも知れない。

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