あいちトリエンナーレ『表現の不自由展』~自由の本質とは~

2010年の開催以来、3年に一度愛知県の各都市で開かれる国際芸術祭『あいちトリエンナーレ』。

内容としては、複数の会場にて各ブースごとにテーマを設けた現代アート作品を展示すると言うものだが、今回は少し毛色が違う。

何しろ、昭和天皇の御真影(写真)を焼く映像作品が、津田大介氏が監督を務める「表現の不自由展」にて展示されると言うのだ。
場所は、愛知芸術文化センター8階。
展示ブースはA23
さっそく、8月2日に事実確認の為に現地へと向かった。

同展示ブースの中に入ると、左手に顔を破られた昭和天皇の御真影の絵が3点あり3点目は×印がつけられた御真影が6枚連なり段々と黒ずんで焼かれていく様子が表現されている。
次に右手に骸骨と昭和天皇の写真が描かれた絵が2点あるのだが、これらの絵画の次に問題の昭和天皇の御真影がガスバーナーで焼かれる映像展示がある。
焼かれる映像は一瞬かと思いきや、少なくとも4枚焼かれ、その最中になぜかアリラン、アリランと繰り返す歌詞の唄が流れるという演出をとっている。
アリランは、言わずと知れた朝鮮民謡だが、聞いた印象ではオリジナルとは違う。
それはともかく、なぜ昭和天皇の御真影が焼かれるタイミングでこの唄が流れるのだろう?
筆者にはどうしてアートとはかけ離れた政治的なメッセージを感じざるを得ない。

さて、もっとも問題なのは、ガスバーナーで一国の元首の写真を焼くという演出それ自体だ。
これが芸術と言えるのか大いに疑問だ。
「これも表現の自由だ」と言う批判が返って来そうだが、この異様さは国際常識に照らすとより鮮明に浮き彫りになる。
例えば、アイルランド人がイングランドのかつての国王や王妃の写真を焼いたりするだろうか?
伝統に裏打ちされた権威である国王の写真を焼けば、他の国ならば批難は必至である。
これは、日本とて例外ではないとなぜ思い至らなかったのだろう。
また、これとは別に筆者には納得出来ない事がある。
実は、同ブース内には、平和の少女像と銘打って慰安婦少女像をモチーフにしたと言われる作品が2点展示されているのだが、既存のものと瓜二つに見えるものをオリジナルのアートと認められるのか甚だ疑問だ。
監督を務める津田氏は新聞社の取材に対し「政治的主張をする企画展ではない」と語っていたが、筆者には口から出任せにしか聞こえない。

本展示ブースは、多数の抗議(中には脅迫紛いのものも)により、8月3日を最後に終了する事となった。
津田氏サイドは「電話で文化潰す悪しき前例を作ってしまった」と語っているが、同じ事を他国の国家元首の写真で表現すればどうなるか考えて見れば良いだろう。

自由とは「何でもあり」ではない。
自由と言うと誰しもが遊園地のような感覚を思い浮かべるが、むしろ独立開業と言う方が近い。
良いことも、悪い事も、全ての結果を自分で引き受けると言う事が自由の本質なのだ。
政治的な主張をすれば、当然批判も受ける。
しかし、これも自由の一つ。
逆に、当然反論する自由も与えられる。
津田氏も、これまで散々他者の作品や主張を批判する自由を享受しておきながら、他者にはそれを許さないうのであれば、自由への冒涜である。
自由とは厳しく、責任が伴うものなのだ。
もちろん、脅迫電話自体は犯罪行為であるため、法治国家としての対応は必要なことは言うまでもないが、それ以外の批判に対しては主催者サイドは真摯に耳を傾けるべきである。
批判を弾圧とすり替え、聞く耳を持たないのであれば、アートへの議論も深まらないであろう。

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