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"なぜ叱られたかわからない子供"の哲学

「相手の立場に立って」

「わたしの常識あなたの非常識」とはよく言われる言葉だが、頭ではわかっていても実際そういう場面に出くわすとそれがわからなくなる人はかなり多い。それは「相手の立場に立ってものごとを見てみましょう」と言われても、結局はわたしはわたしでしかありえない以上、自分の脳味噌でしか"相手の立場"に立つことができないからだ。それでは「客観的にものごとを見ましょう」はどうだろうか?

「客観的に見てお前は間違っている」

「客観」というものが普遍人類に存在しているとわたしたちは考えがちである。しかしおうおうにして、当事者は本気で「客観的」にものごとを見ているつもりでも、大真面目に「陰謀論者」と互いに相手をラベリングしたり、「ネトウヨ」「パヨク」と罵り合ったりする事態が発生する。それでは"客観的にものごとを見た"場合にどちらかが必ず陰謀論者であるとか、右翼と左翼のどちらかが必ず(少なくともその件に関して)間違った主張をしている、ということは言うことができるのであろうか。できそうな気がする。どうしてできそうな気がするのだろうか?はっきり言ってしまうなら、「自分は陰謀論者でなく◯◯という主張をするやつらは陰謀論者だ」「あいつはパヨクだから嘘しか言わない」といった信念があるからにすぎない。(ほんとうに「決着」がつく場合もあるが、それは後述する。)

「自分は間違っていた」

相手のそういった"信念"を「間違っている」と言う根拠はなんだろうか?そして決着のつかない論争を繰り返した結果、ときたま"どちらかが間違っていた"と言うことができ、かつ相手も(表向きは認めていなくとも、たとえば心の中では)負けを認めることがあるのはどうしてだろう?ずっと決着のつかない論争と「誰それが間違っている」と言うことのできる主張の違いは何か?

「その研究は何の役に立つんですか?」

ここでわたしの嫌いな言葉を例に挙げて考えてみよう。「その研究は何の役に立つんですか?」というやつである。
相手はなぜその質問をするのか考えると、たいていの場合は壇上の研究者や学生を困らせる目的でそれを聞いている、ということは考えられるが(それはそれで嫌だが)、本気でその質問をしている人に出会わないこともない。本気でそれを聞いている人は、もちろん「研究は社会の役に立ってこそ意味がある」と思っているから聞くのだが、それを研究している人が「社会の役に立つから研究している」という場合は少なそうである。むしろたとえば、「純粋に自分が知りたいだけ」をモチベーションに研究を続けている気がする(そういった研究をする人が実際にどう思っているかはこのさい重要ではない。これは適当に挙げた例である)。
そういうとき、「純粋にわたしが知りたいだけだから、何の役に立たなくてもいいです」と答えたところで「何の役に立つんですか?」と聞く人を納得させられるだろうか。あるいは、記者会見で堂々と「わたしが知りたいだけです」と答えられる研究者は何人いるだろうか。

「社会の役に立たない研究は意味がない」

どうして彼らの問いと答えが噛み合わないのかというと、彼らの「公理」がそもそも異なっているからだ。
「何の役に立つんですか?」と聞く人は、「社会の役に立たない研究は意味がない」という"公理"を軸に動いているが、「自分が知りたいだけ」でひたすら研究している研究者は「(社会の役に立つかどうかはどうでもよく)人間は知的好奇心を満たすことが重要だ」という"公理"に基づいて研究するのである。"公理"は"ゲームのルール"と読み換えてもよい。

「より多く得点すべき」

たとえばバスケとサッカーは、同じ「たくさんの人間が1つのボールを用いてプレイし、より多く相手側のゴールにボールを入れたチームが勝利するゲーム」だが、ルールは大きく異なる。たとえば、「バスケでは手しか用いてはいけないが、サッカーでは手を用いると反則になる」とか、チームが何人で構成されるかは大きな違いだ。あるいは、もっと概念的な共通点を探してもいい。「より多く得点すべき」はバスケとサッカーの"共通ルール"だが、下位のルール、たとえば「手しか用いてはいけない」はバスケ選手の間でのみ共有されるルールであり、サッカーではそれが反転される。バスケをプレイする以上、「手しか用いてはいけない」は当然のように思われるルールだが、それはバスケの世界の外に出た瞬間に当然ではなくなるわけである。

「なんか空気が許さない」

つまり、ある集団で共有される(あるいはある個人が信奉している)"公理"は、別の集団あるいは個人においては自明でなくなる。さらには、相手と自分の"プレイしているゲーム"が異なることもあるのだ。
「その研究は何の役に立つんですか?」と聞かれた「人間は知的好奇心を満たすことが一番大事」と信じている科学者が思わず「いまは役に立たなくても、いつかは役に立つかもしれないですよ」と(そんなこと普段は考えているわけないのに)口走ってしまうのは、ついうっかり相手の試合に入り込んでいるからである。それは「科学研究は社会の役に立ってこそ意味がある」というルールが支配するゲームの試合である。
サッカーなんかやったこともないのにいきなりサッカーの試合に出ろと言われたバスケ選手も、見よう見まねでボールを蹴ったりはするだろう。だが、そもそもバスケしかやったことのないバスケ選手をサッカーの試合に出すのは無茶というものだ(しかし、「なんか空気が許さないので」サッカーの試合に出てしまったりする)。「なんか空気が許さないので」、「科学研究は社会の役に立ってこそ意味がある」ゲームを一緒にプレイしてあげるわけである。

「わたしの役に立つだけです」

同じルールに基づいてプレイするチームメンバーの間では、そのルールに反する行動を取れば「反則」と言われる。「その研究は何の役に立つんですか?」と聞かれて「わたしの役に立つだけです」と答えるのは、「何の役に立つか」という質問に答えてはいるが、"不正解"である気がする(「自分の役に立つ(たとえば知的好奇心を満たしてくれる)」という答えが正解のひとつに思える人はいるかもしれないが、大勢の記者が詰めかける記者会見でそれを言うのが"不正解"っぽいことはご理解いただけるかもしれない)。
なぜかというと、"ゲームのルール"は「科学研究は社会の役に立ってこそ意味がある」だからである。役に立つというだけではいけない。だからこそ堂々とそう言う勇気のある研究者はあまりいないし、「今はまだわからないかもしれませんが、いつかは社会の役に立つかもしれません」とか「役の立たない研究に科研費を割くと他の研究が栄えるんです」とか答えたりするわけだ。そう言ってやっと「何の役に立つんですか?」の人を納得させることができる。

「じゃあなんで神がいるって言えるんですか?」

もっと壮大な話をしよう。いちばん当たり前のように正しいと思われている「科学的なものの見方」だって、数学と論理学という"公理"がなければ成り立たない。数学(の公理)と論理学(の公理)はなぜ正しいのかといわれると、それは宗教の人が持ち出す"神"の存在と同じものになってしまう。宗教の人がすべてを「神の怒り」とか「神が創ったもの」で説明するときに、科学の人が「じゃあなんで神がいるって言えるんですか」と聞いても宗教の人が"科学の人が納得する"理由を言えないのと同じように、数学の公理と論理学の公理が"何に基づいて"正しいのかを説明しようとすると、数学や論理学の言葉でしか説明できなくなることに気がつくだろう。

「ステロイドは皮膚病を悪化させる」

それでは、脱ステロイドの医師が脱ステロイド療法を子供に施して賠償金を支払うよう命じられた(というだけでは十分でなく、その病院がほんとうに支払わなくては一応"非を認めた"とは言えないだろうが)のはなぜだろうか?
「ステロイドは皮膚病を悪化させる」と本気で信じているだけであれば何の落ち度もないのではないか、と思われるかもしれない。だが、脱ステロイド信者とステロイドを使う派の両方とも、「皮膚病を治すべき」という共通の"ルール"に基づいて"プレイ"している。もしステロイドを使わずに皮膚病が悪化したなら、脱ステロイドは"間違い"といえるのである。
だがもしここで、「皮膚病を治す」ために脱ステロイド療法を試みるのではなく、「ステロイドはとにかく使ってはいけない(皮膚病を悪化させるから、ではなく純粋に「使ってはいけない(前提条件なし)」だけ)と信じている脱ステロイド論者の医師がいたとしよう。
その医師にとって患者の皮膚病が悪化するか否かは問題ではない。結果としてステロイドさえ使っていなければ「正しい」。患者の皮膚病が悪化したことで裁判所から賠償命令が下るかもしれないが、それは患者と裁判官が「皮膚病が悪化する」=「正しくない」という"公理"を持っているからであり、その医師には通用しない。(もしかしたら賠償金を支払うかもしれないが、それはたとえば支払わないと差押えが来るからとかで、"非を認めた"わけではないだろう)。
「皮膚病が悪化してもいい、とにかくステロイドは使ってはいけない」は自明に間違いに思えるが、それはわたしたちが「皮膚病は治すべき」という信念を自明そうに持っているからである。そしてそれはその医師にとっては自明ではない("医師"という肩書きがあるから「皮膚病は治すべき」という公理も共有されていそうに思えるのだが、その肩書きを外してしまうなら共有されていなくてもおかしくないだろう)。

「お前こそ陰謀論者」

陰謀論者が陰謀論者と言われるのも同じことである。"非陰謀論者"と"陰謀論者"の主張する事実は真逆だろうが、いずれも「現実に起こった(起こっている)ことが事実とみなされるのは正しい」という共通の公理がある。
そこで現実に起こってもいないことを主張する方は「陰謀論者」とみなされる。なぜ互いを陰謀論とレッテル貼りしあうのが絶えないのかというのは、その「現実に起こったこと」を確認するのが難しいからにほかならない。たとえば「政府はワクチンを売るためにワクチン接種を進めている」というのが「本当に政府高官の考えていること」なのかどうかは、庶民には確認するすべがない。ただどちらも自分のものの見方の方がうまくものごとを説明できると思っているだけである。それは、「神が創ったから」この世界が存在すると説明する宗教の人と「ビッグバンがあったから」この世界が存在すると説明する科学の人とが、いずれも「自分のものの見方の方がうまくものごとを説明できる」と信じて疑わないのと同じだ。

「なんでママが怒ってるかわかる?」

それは幼い子供がなぜ自分が叱られたのかわかっていないという現象に通ずる。幼い子供には「公共の場で大声を出したり走り回ったりするのはマナー違反」という"公理"が共有されていない。そもそも「マナー違反はいけない」という公理すら共有されていないかもしれない。だから大人はしつけを通して子供にそういった"公理"を共有するように教える。
そのプロセスは「先進国が後進国を科学啓蒙する」ことや、「民主国家が専制国家を民主化しようとする」ことに似ている。密林の奥地の未開部族は彼らなりに日食という現象を説明できているが、それは「科学の目で見れば」正しい説明ではないというだけである。科学が「上」で後進国の宗教が「下」という図式も、「科学の目」で見た結果だ。「科学者の眼鏡」を外した瞬間、そこは無重力空間となり、上と下は簡単に入れ替わる。

corvusのいろいろ(普段は科学雑貨をつくっています)
lit.link/scientia

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