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コズミックスペース
家は出遅れるし快速には乗れないしで相当どうしようもないが雨は小雨で、ならまあまだいいかと思う、というか思うようにする。
この、思うようにする、という自覚、観念がおそらく大事で、と自分をはげまし、心から思えていることというのはあんまりなくて、なんとなく、とか、どうも、とか、どうにも、みたいに、なんというか懸隔、たんてきに達成までの遅延がある。
なにごとかをなそうと思ってなすときの、思ってからなすまでの間には限りない遅れがはさみ込まれる。
限りない、としたのは、もちろん思考ののちすぐに行動があるわけでないというのも一面あって、他方すぐに生じなかった行動も永遠までのいつかの時点で成就しうる、そこまで行かずともある行動のうちに結実しうる、ということもふまえるなら、かぎりない、無限の、遅延、繰延べ、遅滞こそが思考と行動とをつないでいるというべきだろうと思ったから。
あいにくひとは行動ののちで思考と行動を総括しがちであるから、遅延はのりしろのように思考と行動との間で重ね貼られて、見えなくなってしまうのだと考えるとどうか。
Twitter的な集約ののちに遅延のありようはとらえることが難しくなっている。
遅延のうちに、さらに思考をさしはさみ更新してゆく仮覆いの思考運動。
もとの話からおおいにずれたがこれもまた仮設に架橋された思考更新のひとつだったりする。
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