母の日


わたしは日付が変わるのをあえて待ってこれを書いている。そうでないと気持ちの整理がつかなかったからである。


昨日は”母の日”であった。ショッピングモールの玄関すぐのところにはカーネーションがところ狭しと並べられ、よく行くお菓子屋さんにはこの日に合わせたお菓子の詰め合わせセットが並べられていた。店の中は何時もに増して家族連れが多かった。中にはご高齢の母親の手を引いて、店の中を歩く男性の姿も見られた。


母へのプレゼントはここで買おうと決めていた店があった。1ヶ月近く前から何度も下見をし、手にとっていくつか候補も絞っていた。数日前に購入しようと思って一度店を訪れたが、その日は決められずに結局昨日もう一度店に行ってみて、あれこれ物色してからようやく購入にこぎつけた。ラッピングをしてもらい、準備は整った。あとはこれを母親のところに届けてくるだけであった。買ってその足ですぐ行く予定にしていたが、忘れ物を思い出して一旦自宅に戻ることにした。


自宅に戻る途中から、気分がだんだんと重くなってきた。忘れ物を取ってすぐ家を出ればよいだけだったのだが、自宅に戻るとますます気分が重くなりしばらく休んでから行こうと椅子に座った。座ったはいいが、なかなか立ち上がれなかった。行かなければという気持ちは十分あった。せっかくここまで準備もしたのだし、長居しなくてもちょっと顔を見るだけでもいいじゃないかと何度も自分に言い聞かせたが、体は全く動かなかった。母の日だからきっと施設もご家族がたくさん訪れているだろうし、行かなかったらがっかりするはず、行かなきゃならんのだ...と頭は考えるが気持ちが全くついていかない。


そうしているうちに時間はどんどん過ぎていった。いつもなら多少気が進まなくても自分を抑えてやるべき事はやってきた。でも今日はそうしようという気持ちにどうしてもなれなかった。もし行ったらどうなるか、行かなかったらどうなるのかと考えはじめたが決められなかった。しかしこのままという訳にもいかないので、手がかりを求めてタロットカードを引っ張り出してきたが、出てくるカードがどれも今の自分の心境をすばり表すようなものばかりで最後は自分の心に聞いて決めるしかないと腹をくくった。


結局、わたしは行かなかった。

正確に述べるなら今の状況をトータルで見て、行かない方がいいと判断したのである。プレゼントは手紙を添えて宅急便で送ることにした。感謝の気持ちを伝えるのが今私にできる精一杯なのである。


わたしはこの媒体でも過去何度か母については記しているが、今どういう状態なのかを含めその後の事はなかなか書く気持ちになれなかった。わたしはあまり周りの人に自分の原家族の事は話さないし、ごく稀に本当に行き詰まった時に占星術師で私の家庭の事情を詳しく知っている人に相談する程度である。私には今まで起きてきた事について、それを総体的に見て整理するための時間と助けが必要だった。今こうして書く気持ちになったのは、誰かに分かってほしいからというより、似たような状況にある方々が何かのきっかけでこれを見てくださる事があれば、何か伝わるものがあるかもしれないと思ったからである。


母が精神的なバランスを崩し、そこからパーキンソン病の診断が降りて施設に入所して10年余りが経つ。2008年からずっと近くで母の様子を見てきたが、本当に山あり谷ありでいかに平静に自分を保つかを毎回試されてきた。元々母と私は性格的に合わなかったのだが、病気になってさらに関わることが難しくなり、我慢することが増えていった。子供の頃からお互いどこかで無理をしないとつきあえなかったのが、母が病気になってから自分をコントロールすることができなくなり、やりたい放題になってきたのでこちらがそれにできる限り合わせていくしかなくなったのである。


母は病前から、というより幼少期からこだわりの強い人だったようで、それがさらにひどくなっていった。感覚も病気の影響もあって過敏さが増したのか、例えば身に付ける衣服も自分にとって快適な肌触りや型でないと全く受け付けなくなった。そうなると着れるものがかなり限られてくるため、彼女の要望に合うもの(特に下着類)を探すのは至難であった。せっかく買っても気に入らなければ一切袖を通さない。そして気に入ったものは延々とそればかり身に付けるので消耗も早かった。ポケットのついてないズボンとかゴムの幅まで指定してくるので、彼女のリクエスト通りのものを探して、50キロ以上離れた店舗まで行くこともあった。


また、病気の診断が確定する以前から、度々”治療拒否”もあった。3年前に一度せん妄がひどくなり2週間ほど入院したがその時もDrの出した薬をまったく受け付けず、最後の切り札で症状を緩和するために出されたテープ剤(肌に直接張り付ける、薬が飲めない人用の外用剤)を、背中の一番手が届きにくい場所に貼ったら、それも見事に剥ぎ取ってしまったため日中ナースステーション預かり(常時経過観察ができるようにしておかないと何をするかわからないから)になった。暴れたりすることはないのだが、無言で抵抗する状態で嫌なものは一切受け付けませんという感じであった。幸い当時の主治医は非常に親切かつ適切に母を診てくださり、どうにか薬を飲んでくれるようになって症状が落ち着いて退院に至った。病気は少しずつ進行はしているが、急変することもなく今に至ることができたのはこのときのDrのお陰であると思う。


ただそれですべてが解決したかというとそうではない。その後も度々薬を間引いたり、施設職員が見ていないと捨てたりすることもある。また施設に往診している医師が気に入らず、もう何年も誰にも診てもらってないと平然と私に訴えるのは今も続いている。そして私がこれまで一番頭を悩ましていたのが、母の病院へ連れていってほしいというリクエストである。


医療従事者である私にとって、母の状態が今すぐに病院受診が必要かどうかを見極めるのはそれほど難しい事ではない。ましてや施設が委託している病院があってそこが治療方針を決めて必要であれば他の病院への紹介も行うシステムがあるので、私がそこに割り込む理由はないのである。それでも私が母を訪ねていく度にこんな症状があるのにだれも診てくれないから病院に連れていって欲しいと執拗に訴える。また外出すると、今からなら間に合うから○○病院(病院も母指定でないと絶対に行かない)に連れていって欲しいと車中でしつこく訴える。そんなことが延々と続いていた。


あまりに何度も言うので、施設の看護師さんに相談の上何度か治療の妨げにならない範囲で病院に連れていったことはあった。それは皮膚のトラブルが相次ぐ冬に皮膚科を受診したことなのだが、そのときに出された塗り薬はほぼ、本人が”べたべたするのが嫌だから”という理由で使うことはなかった。そういうことが時間を置いて二度三度と繰り返されたので、私は出された薬を使わないのなら病院へは連れていかないときっぱり断った。ところが昨年夏足の傷から感染し足がパンパンに腫れて熱が出るという事件が起きた。その上最初にもらった抗生剤がまったく効かず、肺炎を起こすと命に関わるという状態になっていた。当然しばらく通院を余儀なくされ、今回は本人もこのままだと死ぬかもしれないという現状を理解したのか、しぶしぶと飲み薬も塗り薬も受け入れてくれたのだが、これがしばらく忘れかけていた彼女の病院受診欲求に火を付ける結果になってしまったのだ。


足の感染は2ヶ月ほどで完治した。その後も再発の兆候はなかったので私はほっとした。しかしその頃から別の異変が起きはじめた。最初は自室で転倒し頭をぶつけたという施設からの連絡だった。病院に行くほど深刻ではなくちょっとよろけてぶつけただけというのでそのまま様子を見てもらうようにお願いし、そのときは仕事の状況もあってすぐには訪問はしなかった。それからしばらくして施設に面会に行ったとき、介護士さんに”最近ベッドで寝ずに一晩中車椅子に座ってることが度々ある”と声をかけられた。本人に聞いてみたが無言だった。そのとき私は違和感を感じた。もしかして、とある思いが頭を掠めたがそれはないだろうと振り払った。が、昨年12月に入ったばかりの頃に母が車椅子で寝ているときに車椅子から落ちてあちこち打撲したという連絡が入った。打撲自体は軽度なので、湿布と痛み止めの処置ですんだのだが気になったので後日母からお願いされていた届け物も持って様子を見に行った。


施設に着いて、母の部屋に入る前に届け物の件で介護士さんに話をし、そのあと最近の服薬状況や処方内容を確認しておこうと看護師さんがたまたま近くにいらしたので声をかけて少しの間話をした。ちょうど母の部屋のすぐ前で、声は十分聞こえる距離であった。話が終わったので母の部屋に入ると母はいつもどおり車椅子にちょこんと座ってじっとしていた。近づいてよく見ると、母は靴下を脱いで素足の上に脱いだ靴下を乗せていた。ダメ元でどうしたのか尋ねたが、さあという答えしかなかった。認知症が急に進んだ訳ではない。やりとりは普通にできる。そして開口一番、調子が悪いから○○病院に連れていってとせがんだのであった。足の状態を見たが、ずっと素足でいたわけではないのは肌の色で何となく推察できた。空調はあるとはいえ、寒い季節にずっと素足でいるとかなり足先の循環は悪くなるがその兆候があるとは見えなかった。おそらく私が外にいるのに気づいて脱いだのだろうと察知した。そのとき背筋がひんやりするのを感じた。今までのことが一斉に鮮明に頭の中で再生されたあと、これはもう私が太刀打ちできる状態ではなくなったと思った。


毎年12月末から翌年3月までは、インフルエンザの流行などを考慮し私は面会を自粛している。それは施設にも伝えてあり、かわりに電話で連絡を取り合うようにしているのである。今年に入ってからも、足の太ももに職員が気づかないうちにアザが出来ていた、車椅子でうたた寝していて正面のテーブルに頭をぶつけた、などなど何回か施設から連絡はあったので、時期が終わって面会ができるような状況になったらうかがいますと返事もしていた。だから母の日は久しぶりの面会になるはずだった。でも行かなかった。行けばよかったのに、という気持ちよりも今は安堵の方が強い。行っても行かなくても、苦しいのは同じだと思った。同じ苦しみなら、行かない選択の方がお互いのためかもしれないと思った。


母が脱いだ靴下を見たときに察したこと、それは母があえて自分を危ない状況に置いて傷ついた自分を他人に見せることで、自分の要求を叶えようとしているのではないかという彼女の恣意的な行動とその理由についてであった。もちろん病気の進行による身体・精神的機能の低下という要素を込みで、彼女の最近の負傷や様子がそれを考慮してもどこか不自然さを否定できない面があってのことである。ベッドで寝ない理由は結局本人が語らない限りはまったく分からないが、寝具などは全く変わっておらず脊椎などの障害も痛みも出ていないのでどのみち身体的な理由ではなさそうである。そして座位で寝ることで睡眠は当然浅くなり、日中もうとうとが増えるのはやむをえず、それが元での怪我が増えてもおかしくはない。なぜそこまでするのかは、”自分に何かあれば病院に連れていってもらえる。手厚く手当てをしてもらえる”からで、その原体験がどこにあるのかも前もって私は知っていたので、真実は本人しか分からないものの、その前提で慎重に関わった方が良さそうだと気づいただけでも私にとっては十分だった。


なぜ行かなかったのかは、もちろん気持ちがどうしてもついていかなかったのもあるが、もし会いに行ったら私と再び接点ができることで、また自分を痛めて病院に連れていって欲しいと訴える光景が繰り返されるのが想像できたからである。いわゆる私は彼女の”トリガー”になってしまっているので、彼女のこだわりや欲求をこれ以上刺激するようなことは避けた方がよいと判断した結果でもあるのだ。彼女が自分を痛め付けてでも叶えたい欲求はおそらく本能的な、生存欲求にも匹敵するほどのものなのだろう。その原因となった出来事はここでは詳しくは書けないけれども、彼女の親きょうだいに関わる事柄で、彼女自身が執着を捨てきれない限りは子であるわたしにはどうすることもできないものである。


もちろんこのままをずっと続けるかどうかは分からない。あるとき意を決して会いに行くかもしれない。母の物質的な必要にはこれからも応じていくので、どのような形でもやりとりは続いていく。何かあれば連絡はとれるし向こうも連絡はしてくるだろう。しかしこれ以上の無理や我慢を自分に強制はしたくないので、母に言われた通りのことはもうできないかもしれない。今回のことで、わたしは人間としての限界を思い知らされた。そしてこれからは自分の心を守りつつ母と関わる以外に道はなさそうだと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?