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須賀敦子の背中を追う 1.

いとぐち

「須賀敦子」という名前は、実はずいぶん前から知っていました。

古い記憶にあるのは『トリエステの坂道』という本の背表紙。この本、最初はみすず書房から1995年9月に出版されたようなので、たぶんみすず書房出版の他の本を探す時に目にしたのだと思います。例えば、中近世の絵画を見る時、いまだに参考にしているジャン=クロード・シュミットの『中世の身ぶり』という私の本。1996年3月にみすず書房出版から初版が出版されています。私は書店でこの本を手に取る時、近くに並んでいた須賀敦子の『トリエステの坂道』を目の端に見たのかもしれません。いずれにしても、もう何十年も前のことです。その時は「ありきたりのイタリア旅行記だろう」と勝手な烙印でも押したのでしょう。ついにこの本のページを捲るようなことはありませんでした。

実際に須賀敦子の本を読むきっかけになったのは、一昨年ツイッターでフォローしている方の美しい写真が添えられた素敵なツイートを目にしたことです。「写真にも言葉にも、心を揺さぶられました」とコメントしたところ、「写真は自分で撮りましたが、文章は須賀敦子さんの本から引用しました」という内容のお返事をいただきました。

「須賀敦子、須賀敦子、須賀敦子...。はて、記憶にあるが誰だろう」

そう考えながら、日本のアマゾンを検索したのが始まりでした。『トリエステの坂道』という本のタイトルを見つけた瞬間、私が彼女の名前をなぜ知っているのか、すぐに過去の記憶が蘇ってきました。どうやら「ありきたりのイタリア旅行記を書くひと」ではなさそうです。早速、本を読んでみることにしました。

最初に読んだのは『ミラノ 霧の風景』。この一冊で、私は完全に須賀敦子の文体の虜になりました。文章が素晴らしいのはもちろんですが、彼女の「イタリア人と結婚してイタリアに住んでいた」というバックグラウンドも、ドイツ人と結婚してドイツに住んでいる私の関心を、ことさらかき立てたのだと思います。それからはもう夢中で、次から次へと彼女の著作を読み進み、白水社から出版されている「須賀敦子コレクション」を皮切りに、一年とかからず彼女の全集(河出書房新社)まで読破してしまいました。

こうなると、彼女がかつて居た場所に実際に立ってみたくなります。

彼女と関係の深い街といえば、最初に踏んだイタリアの地であるジェノヴァ、イタリア語コースに参加したペルージャ、留学していたローマ、結婚式を挙げたウディネ、結婚後住んでいたミラノ。その他にもフィレンツェやトリエステ、ヴェネツィアなどが思い浮かびます。実は、夫が非常に親しくしている叔母がフィレンツェに住んでいる関係から、イタリアには年に二回、三回と出かける私たち。彼女の本を読み始める前に、ジェノヴァ、ペルージャ、ローマ、ミラノ、ヴェネツィア、トリエステにはついては、既に訪れたことがありました。しかし、特に印象に残っているエッセイの舞台となっているミラノ、ヴェニス、トリエステには、ぜひもう一度行きたい、須賀敦子の視線を追うようにその地を歩いてみたいと思いました。

そこで、去年の春から今年の春にかけて、叔母に会うためフィレンツェに行く道中、トリエステ、ヴェネツィア、ミラノとカメラを片手に順に旅をして回りました。イタリアの街といえば、数百年前の風景を容易に思い浮かべられるくらい古い街並みが保存されている場所が少なくありません。彼女がイタリアに居た約半世紀前と比較したら、例えば建物に入っているテナントなど細部は別として、その大枠は現在もほとんど変わっていないと考えて良いと思います。そんな街を須賀敦子のことを考えながら歩いていると、もしかしたら次の角を曲がった時、バッタリ彼女と鉢合わせるのではないか。そんな気持ちになることが何度もありました。

須賀敦子の背中を追う旅。彼女が見た風景を探す旅。
これから何回かにわけて、訪れた先で私が見たものごと、出会った土地の人々の話を、その時々に撮った写真を添えながら、少しずつ書いていこうと思います。

後記

この須賀敦子を巡る一連の記事を書いたのは2019年のことで、当時私は文字通り彼女の著作にのめり込んでいました。一度読み始めると癖になるというか、なんというか、彼女の文章には不思議な魔力があります。最初に単行本から読み始めて、ついには全集を買い込み舐めるように読み切ってしまう人も、たぶん少なくないのではないかと思っています。
夫の(そして今では私にとっても)母親代わりの叔母がフィレンツェに住んでいることから、記事の中にも書いたように、私たちは里帰りするように毎年何度もフィレンツェを訪れます。この習慣はコロナウィルス禍期間を除き、現在でも同じように続いています。しかし、実は私のイタリアに対する第一印象は最悪でした。この時は帰りの飛行機のなかで、猛烈なスピードで遠ざかるブルネレスキのクーポラを空から眺めながら、「二度と来るか、バカ野郎」と心の中で毒づいたものです。それが今では、私の終の住処であるドイツと並び、イタリアはヨーロッパで最も好きな国になりました。その(私にとっては)コペルニクス的転回には実に様々な要因が作用していますが、優しく穏やかなフィレンツェの叔母の存在と並び、須賀敦子の著作も大きく貢献していることは間違いありません。

(この記事は、2019年6月27日にブログに投稿した記事に新たに後記を書き加えた上で、転載したものです。)