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SweetFish

かつて調査に明け暮れていた頃、僕は偶然、とある悲惨な事件に出くわした。何人もの人びとが僕にそのことを語ってくれた。悲しかった。調査報告書に載せるわけにもいかないものだから余計に悲しかった。それで僕は、小説に書こうと思ったのだ(かつて別PNで他サイトに掲載していたものだけど、執筆以外に営業活動をしっかりしなければ誰も読まないようだったのでこちらへ引っ越しました)。


Ⅰ.籃の章

1.初夏の夕暮れ

コットンのカーテンを揺らして、少し温くなった風が頬を撫でる。まだ低い西日が、ゆらゆらと畳の上を泳ぎ渡ってゆく。ごとごとと廊下の向こうでものを動かす音を聞きながら、わたしは丸い座卓の上で英語の宿題を進めた。ゆっくりと、淵の水が回るように、時が流れてゆく。幸せ、ということばが頭をよぎる。わたしは、たぶんまだそれではない。けれども、今このひとときは、ずっと続いて欲しいと思うようなものだった。

父が亡くなって、もう五ヶ月になる。自宅を兼ねたこの建物で、父は質屋と骨董屋の間のような店を経営していた。家の東側は二十畳ほどの土間になっていて、お客さんが質草にしていったありとあらゆるがらくたが詰め込まれたまま残された。その南側は、その中でも多少ましと思えるものがいくつか陳列された店舗の構えになっていて、自然、寝食は建物の西側の二室に限られていた。

がらくたをごそごそと弄って遊んでいるのは、隣家に住む幼馴染みの裕太である。彼に骨董趣味があるというわけではないだろう。彼は、女一人の所帯になってしまったわたしが寂しくないように、いろいろと理由をつけてはこうやって上がり込んで来るのだ。今日は一緒に勉強をしようという触れ込みであったが、結局彼はすぐそれに飽きて、早々ぞうきんを片手に土間へと引っ込んでしまった。

わたしは、裕太が大好きだ。気兼ねを感じさせないその優しさに、ずっと守られてきた。有り難いと思う反面、とても申し訳ないとも思う。最近裕太は、時折普段とは違う鋭い眼光を向けることがある。肉を喰らう、獣の気配だ。わたしは、いつでもそれを受け入れるつもりだ。そのくらいしか、わたしに返せるものはない。でも結局彼は、一度もそうした態度を示すことはなかった。獣の気配が収まらないとき、彼はぞうきんを手にとって土間へと去る。わたしはその度に、歯痒い苛立ちを覚えた。

「なあ、店はもうやらないのか?」
「だってわたし、品物のこととか判らないもの」

廊下の向こうから聞こえて来る穏やかな声音に、少し大きな声を上げて応える。店はあまりうまく行っていたようには思えなかったが、わたしが大学に行くくらいの学費や生活費分は備えがあった。持ち家でもあるし、取り立てて切羽詰まった状況はない。知らないことに手を出すつもりはなかった。

「でもほらこれとかさ、絶対値打ちものだよ」

どすどす、と足音が響いて、タオルを首に掛けた裕太が現れる、両の手には、三十センチほどの魚の置物を抱えていた。

「これ、絶対金だよ」
「まさか。金色ってだけでしょう?」
「重いんだ。すごく重い。七キロもあった」
「どうやって量ったの?」
「そりゃ、秤でだよ」
「こういうやつ?」

わたしが手振りでクレーンのような仕草をすると、彼は鼻の汗を拭きながら頷く。あれ自体骨董品なのではないかと思われるほど旧い秤の使い方を、彼はとっくにマスターしてしまっているようだった。彼こそ、骨董屋に向いているのではないだろうか。

「七キロだと、一億円だぞ?」
「へーいちおくえん」

わたしは英語の宿題に戻りつつ生返事をする。どんなお客さんか知らないが、そんなご大層なものを質に入れるわけがない。もしそんなことがあったとしても、すぐ取り返しに来るだろう。くすんだ黄色っぽい置物よりも、眼と汗をきらきらさせている裕太の方が百倍価値がある。今時珍しいくらいのおばかさんだ。彼は、汗を拭いたり置物を拭いたりしていたが、やがて顔を上げて口を開いた。

「じゃあ、これ持って帰ってもいいか?」
「どうぞ?」

裕太はこんなふうに、週に一度くらいがらくたを持ち帰る。彼は毎晩わたしを自宅での夕食に誘ってくれるのだが、そのことがわたしの心の負担にならないように、気を遣ってくれているのだ。彼の愛好するロボットの玩具の横には、達磨だの羆だのの置物が日に日に増えていっている。今日からはこのいささか大きすぎる魚も、お仲間に入れていただくことになるのだろう。わたしは、ふうふう言いながら重荷を抱える裕太の背中を見ながら、サンダルをつっかけてお呼ばれにつき従った。

2.黒く長い影

小躍りする裕太を傍目に、わたしはひどく不吉な気持ちに襲われていた。魚の置物-おそらく鮎ではないかということであったが-は本当に金無垢で、美術的価値をまったく考慮しなくても一億円を軽く超えるほどの価値があるという。本当に金なのか調べたいと言い出した裕太に、軽い気持ちでつきあっただけだった。本物と言われるなど、思いもよらないことだった。指輪だの時計だのを預かって、五千円だとか一万円だとかを貸していた父の商売におよそ似つかわしくない。土間の隅にぽんとうっちゃって置くのも不可解だったし、何も言い残さなかったのも不思議だった。何かよからぬ素性のものなのではないだろうか。そんな黒々とした気持が脚元からじわじわと上ってきて胃の辺りを締め付ける。

「金より重い物質は自然界には滅多にない」

裕太が「教授」と呼ぶその人物は、四十を過ぎたくらいだろうか。ほっそりとしていたが筋肉質で、豹のような動物を連想させられる。ぴっちりとしたジーンズに黒いタンクトップを着て、その上からボタンもかけずに白いコットンのダンガリーを羽織っていた。伸び放題の髪が痩せた頬にに掛かっていたが、髭はしっかりと剃られている。脚でも悪いのか、大股ながら少し癖のある歩き方だった。

「だから偽物が作りにくいのさ。それが、この物質が珍重されてきた理由でもある」

わたしたちは教授にお礼を言って大学を後にする。重いトランクケースは裕太が引き受けてくれた。裕太も、ひとときの興奮が過ぎて口数が少なくなっている。敷地を出て二十メートルほどの沈黙の後、わたしはようやく口を開くことができた。

「ねえ裕太」
「うん」
「それ、やっぱり返してもらえるかな?」
「ああ、もちろんもちろん。元々これは美穂んちのものだし」
「惜しくなったってことじゃないのよ。全然あげたって構わない。裕太にはいつも助けてもらってるし」
「そんなこと」
「でも、これは何か違う。きっと裕太に迷惑がかかるわ」

自分でも何を言っているのかよくわからなかった。裕太にもよくわからないだろう。けれども、裕太は黙って頷いていた。彼も、後ろからゴロゴロと車輪の音を響かせてついてくる金の鮎に、何やら不吉なものを感じとっているのだ。ここで手を離して逃げても、この禍々しさから逃れることはできないだろう。広い世の中の誰かが、わたしの家にこれがあることをきっと知っている。この影は、この置物にではなく、わたしの家に刻まれた何かなのだ。

地下鉄を降り、いくつもエスカレーターを乗り継いで地上へと出る。裕太は、つとトランクケースから手を離し、消え入りそうになっているわたしの両腕をつかみとる。大きな、温かい手。そう、ぎゅっとしてて。ずっと。ちらりとそんなことを思った。

「探そう!」
「探すって・・・何を?」
「持ち主をさ。親父さんの帳簿とか残ってるんだろう? それで、持ち主に返すんだ」
「そう、そうだね」
「そうだよ!」

持ち主なんて、見つかるわけがない。根拠もなく、わたしはそう思った。裕太の眼もそう言っていた。けれども、わたしたちは何かせずにはいられない気持ちだった。早く、早く楽になりたい。こんな禍々しいものからは今すぐにでも縁を切りたかった。

折角の日曜がもう終わろうとしている。わたしたちは、父が遺した帳簿の類いを全てひっくり返して、魚とか鮎とかの文字を探した。けれども、これといったものは何も見つからず、わたしたちは埃と汗にまみれたまま言葉を失っていた。座卓をたたんだ六畳の真ん中で、二人とも丸太のように転がった。日が陰ってくると、冷たい風が忍び込んできて頬をかすめる。

しばしの沈黙の後、わたしの背後でそれが眼を覚ます。いつものそれとは違うささくれ立ったような感覚に背中がぞくりと寒くなった。鋭い眼光が肩口から背筋を這う。獣の気配。それは、いつも裕太が土間へと退散する合図となるものだった。けれども、裕太は動けない。土間には、【あれ】があるからだ。

「なあ、美穂」

獣がゆっくりと寝返りを打ち、人の言葉を発する。畳の下の奥の方から聞こえて来るそれに、わたしは応えなかった。やがて大きな手がわたしの肩に掛かる。病でも侵されたような、内に籠もった熱気を孕んでいる。わたしはぎゅっと眼を閉じて、いや、と呟くのが精一杯だった。

裕太が再び、ごめん、と告げて裏口を後にする。待って、と声を掛けたかったが、できなかった。これが先週のことだったら、わたしはにっこり笑って両の手を広げ、彼を迎え入れただろう。でも今は無理だ。【あれ】は、廊下の奥から黒々とした気配を放っていて、わたしはそのせいでおかしくなっている。わたしがそんなだから、裕太までおかしくなってしまった。これ以上、この呪わしいものに裕太を汚される訳にはいかなかった。

隣家からは、肉じゃがの匂いがする。わたしは、裕太の傍らでそれをお呼ばれしていた筈だった。悔しくて情けなくて、口唇を噛む。畳の上に、ぽたぽたと雫が落ちる音がする。わたしは、隣家に嗚咽が聞こえぬよう、傍らの座布団を二つに折って突っ伏した。

3.鮎は川を遡って故郷に還る

小ぶりのバスが、川沿いの道を軽快に上ってゆく。抜けるような青空の中ほどには、船尾も見えないような巨大な船が、雲の色を模して浮かんでいる。水面はきらきらと陽光を反射して、わたしはそれに眼を細めた。昨日のみじめな気持ちが嘘のように軽やかな心持ちであった。

もうこのまま寝てしまえ。汗と涙が混ざったものが頬にまとわりついたまま、わたしは捨て鉢にそう思っていた。そこへ、どんどん、と激しく裏口を叩く音が響いてくる。裕太が戻ってきたのだ。正直、今夜はもう顔を合わせたくはなかったが、彼の差し迫った様子から察するに、無視を決め込む訳にはいかないようだった。

「美穂、見つかったぞ!」

飛び込んで来るなり、裕太はわたしの両肩をおさえつけて揺さぶる。獣の気配は消えていた。既に風呂に入ったものと見えて、お陽さまの匂いがする。

「な・・・なにが?」
「持ち主だよ! 【あれ】の!」
「え・・・ええ?」
「こ、これ、これ!」

裕太が押しつけてきたのは、彼のスマートフォンだ。わたしは、促されるままにそれを耳にあてる。

「もしもし」
「その声は、小川さんかな?」

割れた土の鈴のような声。電話の相手は、痩せぎすの教授のようだった。

「先生?」
「ああそうだ。君は、【あれ】の元々の所有者が知りたいのではないか?」
「・・・知りたいです」
「そうだろうな。君たちのような若者には、【あれ】は重すぎる」

昼間と変わらず、冷たく突き放すような声。けれども、教授はわたしたちのことを心配してくれていたのだ。こんな遅くまで、その出自を調べてくれた。冷たい人物の訳がない。さっきの一件ですっかり涙腺の緩くなってしまったわたしは、今日初めて会っただけの相手に不覚にも嗚咽を漏らした。教授は、うん、うん、と子守歌のような調子で意味のない相づちを打ち、わたしが落ち着くのを待ってくれていた。

「それで・・・いいかな?」
「はい、大丈夫です」
「君たちの街に流れている川があるな。X川だ。そこを百キロほど上ると、『渡瀬』という地域がある。バスが出ているから駅から乗るといい。そこに、おそらく元々の所有者がいたのだろう」
「いたのだろう、とは?」
「残念ながらそこから先はわからない。行って誰かに聞いてみるといい。きっと答えがわかるから」

教授が調べたのは、金の鮎にかかわる伝承であった。青森県にはそういう言葉があるが、これは実際に泳いでいる鮎が金色ということで、置物の話ではないという。ただ一つ、鮎の置物にかかわる伝承が、この街と同じ川沿いにあることから、これでほぼ間違いないだろうというのが教授の読みであった。

「どんな伝承なんですか?」
「村の庄屋が川に『ヤナ』をかけた。『ヤナ』はわかるか?」
「ごめんなさい、わからないです」
「魚を捕るための罠だ。十メートル四方くらいの巨大なザルのようなものだ。それを川の中に仕掛けるのだ」

まったく想像がつかないが、はい、と適当に返事をして続きを促す。

「ある日庄屋の夢に竜神が出てきた。産卵のために川を降りるから、邪魔になるヤナを外せという。庄屋はそれにしたがってヤナを解体した。翌朝その場所に行ってみると、金の鮎があったという。それを祀り上げ、村は繁栄した」
「その鮎が【あれ】なんですか?」
「おそらくは」

教授から二・三の具体的なアドバイスを受けた後、ありがとうございました、と告げてスマートフォンを裕太に返す。裕太も教授に対して二言三言告げて、そして電話を切った。互いに見つめ合う。長年のつきあいだ。言葉にしなくてもわかることがある。さっきはごめん。こちらこそ。一通りのアイコンタクトが終わると、裕太が口を開いた。

「なあ、美穂」
「うん?」
「お前くさいぞ。風呂に入ってこいよ」
「え、そんなに?」
「肉じゃが、あるから」

踵を返す裕太の背中に、聞こえないように小さな声で、ばか、と言ってやる。おばかさん。だから、大好きだ。だからわたしは――。

翌日、朝の支度に手間取っているふうを装って、先に行ってて、と裕太に告げる。けれども、登校するつもりはまったくなかった。ライトグリーンのワンピースを頭から被って、薄手のボレロを肘にしてサンダルをつっかける。今日中に返してしまおう。そしてわたしは、腹を減らせて待つ獣のところに帰ればよい。昨日から中身が入れっぱなしになっているトランクケースをごろごろと引き摺って、わたしは学校と反対の方角へ歩き始めた。

4.瀬を早み

バスが駆ける。くねくねと曲がりくねった道だが、運転手さんが慣れているのだろう。ヘアピンが飛ばないように髪を押さえながら、わたしは開け放った窓からの景色を楽しんだ。やがて、大きな大きな岩が見えてくる。ぶつかる、と思ったとき、バスは器用にくるんくるんと回って、丸く屈曲した橋をきれいに曲がっていった。

「かぶとばし」

少し振り返って、運転手さんがにっこり笑う。

「なんですか?」
「兜岩。昔はあれのせいで、上の村へ上がれなかった。で橋を作った。岩をぐるっと回って。だから、兜橋」

背後で稜線に消えてゆく巨岩を後ろ眼にしながら、わたしは相づちを打つ。それから更に十分も走っただろうか。バスは百軒ほどの家が建ち並ぶ集落へと入っていった。集落の真ん中あたりで、唐突に広場が現れる。バスはそこで終点のようだった。人なつこい運転手さんにお礼を言ってバスを降りる。曲がりくねった石段を降りて集落を出ると、さっきバスの中から見た川のほとりに出た。ざあああ、と眼の前の瀬を、膝丈ほどの水が流れて山と山との間へと落ちてゆく。街より随分気温が低いと見えて、日中というのにまだ肌寒いほどだった。

じーっ、と古めかしいベルが家主を呼び立てる。ハイハイ、と剽軽な声が近づいてきて、がちゃりと玄関の鍵が開いた。少し髪の薄くなったかまきりのようなこの老人が、この「村」の区長だった。渡瀬村という名前は、数年前の合併とともになくなってしまっていて、今はY市の中の自治区として存在しているということだった。教授のアドバイスどおり、通っている高校の名前と自分の名を告げた。

「小川? ・・・美穂さん?」
「はい」

区長さんは少し怪訝な顔をしたが、すぐに、どうぞどうぞと奥の部屋へ招き入れてくれた。質屋の隅に置かれていた桐箱の中身を開けて見せ、説明をする。帳簿に記録がなかったことは何となく伏せた。父が何かよからぬことをしていたとしても、それがどんなことなのかはわからなかったし、敢えて言うことでもないだろう。ただ、質草の中に埋もれていたとだけ告げた。区長さんは、うーん、と唸ったまま黙り込む。予想外の反応だった。それはうちの村のものだとも言わなかったし、それはうちの村のものではないとも言わなかった。

「あの・・・区長さん?」
「困ったな・・・僕には、何も言うことができないよ」
「それはいったいどうして・・・」
「カミミヤに行きなさい。そこで聞くといい」

区長さんは座布団から立ち上がり、からからと窓を開いて戸外を指さす。川沿いの家々から百メートルほど上った山道沿いに、二十軒ほどの家屋があるのが見える。その最上部に大きな赤い鳥居が設えられており、村を睥睨していた。

区長さんは、重いトランクケースを框から下ろすのを手伝ってくれる。気をつけてね、と声を掛けてくれた。気をつける? きっと道でも悪いのだろう。優しい人柄に思われた。けれども、最後にわたしを一瞥すると、するすると玄関を閉めるなり、がちゃりと鍵を掛けられたのには少し凹んだ。村人が喜んで、ご神体の帰還を祝う。そこまでシンプルな話にはならないだろうと薄々感じてはいたけれど、何だかそれ以上にややこしい状況がここにはありそうに思われてならなかった。

川へと注ぐ小さな水路を辿って、わたしは重い荷物を少し浮かせて山道を上がる。トランクケースにつけられた小さな車輪は、枯葉や小石のせいでほとんど機能を発揮していなかった。その山道が尽きると、その次は、見上げても何段あるかよくわからない、長い長い石段だ。横向きになって、トランクケースを一段、二段と持ち上げる。二十五段を過ぎたところで、息が切れてどうにもならなくなってしまった。ふう、と腰を下ろして下方を眺める。渡瀬村の風景は一望できたけれども、その先にある筈のわたしの住む街は、靄が掛かったようになっていて見ることができなかった。

やれやれ、と声を出して立ち上がる。脳裏に掛かった薄い靄のような不安は、たぶん気のせいだ。もう何段かの石段を登り終えたその先で、きっとこの鮎は歓迎されるだろう。何しろ四千万円の価値だ。そしてわたしは無罪放免だ。そうしたら、まず携帯電話を取り出して電源を入れよう。そして裕太に電話をしなくては。きっと心配しているだろうから。屈託ない笑顔を思い浮かべると、思わず自身も笑みがこぼれてくる。よいしょ、とトランクケースに手を掛けた。

5.月光

真っ暗な闇の中に真っ白な紙片が四枚、丁寧に並べられている。柵の嵌まった窓から月の光が落ちているのだ。わたしは、それを見つめながらただ呆然としていた。涙はない。怒りも悔しさも、状況がわかればこそ生ずる感情なのだろう。わたしは、自分がなぜこんなことになっているのか、さっぱりわからなかったので、どうにも激しい感情の持ちようがなかったのだ。お気に入りだったワンピースは裾と胸元が破れていて、おまけに鉄の匂いがする。

座り込んだ部屋は六畳ほどで、眼の端には洋式の便器。左手にはてらてらと光る鉄の格子。やがて、その向こうにあるドアががちゃりと開いて、警官が現れた。

「これ」

木訥な言葉でわたしにひょいと四角い塊を渡す。わたしの携帯電話が、ぶーん、ぶーんと唸っていた。

「いいんですか?」
「まあ、少しくらいは」

ありがとう、と礼を言って緑のボタンを押す。電話の相手は裕太だった。怒ったような声だった。当然だ。学校には来ず、携帯電話はつながらない。怒られて当たり前だった。

「もしもし」
「美穂、無事なのか? お前どこに居るんだ?」

無事? 無事なわけがない。どこにと言われてもどこだろう。牢獄だ。牢獄に居る。

「渡瀬だよ」
「やっぱりそうか。で、返せたのか?」
「それがその・・・」
「うん?」
「捕まっちゃったよ。今は駐在所の牢屋の中」
「捕まった? 何でだ?」
「殺人罪だって」
「はあ?」

幸いなことに、石の階段を上りきったその先は平坦な境内で、わたしはトランクケースを持ち上げる労苦からようように解放された。ごろごろとそれを引き摺って、人の気配のする建物の玄関をからからと開き、すいませーん、と大声を上げる。やがて狐が化けたのだろうと思われるような色白のつり目の女性が現れ、わたしをじろじろと見た。どう切り出したものか、と考えあぐねる間もなく、どうぞ、と女性は甲高い声で言う。きっと、区長さんが連絡をしておいてくれたのだろう。

くねくねとした廊下を進んだその奥に、四畳半ほどの小さな小部屋がある。中央には囲炉裏が設えられていて、入ってきた入り口以外には、低いところに小さな窓がひとつあるきりだった。おそらくこれは茶室というものだろう。座布団に座って待っていると、するすると衣擦れの音が近づいてきて、やがて仙人とも思えるような白髪の老人が現れた。

「こんにちは」

老人は応えず、じろじろとわたしの顔を見る。あの、と言いかけるが、それを遮るような手振りをして、老人は囲炉裏を中央に私の左へどっかりと座り、トランクケースを指さした。わたしが桐箱を開いて見せると、老人の眼はかっと見開かれて三倍ほどの大きさになる。体調でも悪いのだろうか、ひどく黄色い肌であった。老人はやがてぶるぶると震えだし、その黄色い肌が紅潮する。大丈夫ですか、と声を掛けようとした矢先、老人の方から口を開いた。しわがれた声が、怒りに満ちていた。

「情けだ」
「・・・え?」

どういう意味だろう、と思う暇もなく、わたしはものすごい力で、どん、と押し倒される。悲鳴も出なかった。馬乗りになった老人がワンピースの胸元に手を掛ける。キーッ、と布の裂ける音がした。逃れようともがいたところへ、平手が飛んでくる。ぱん、と乾いた音がして、くらくらと脳裏に火花が飛ぶ。老人は、抵抗しなくなったわたしを睥睨して立ち上がり、桐の箱を持って部屋を後にした。がちゃり、と鍵の掛かる音がした。

「あの・・・」

真っ暗な部屋で、全体重を掛けてきている老人に声を掛ける。老人は、返事もしなかった。程なく戻ってきた老人は、もう一度、情けだ、と告げて鍵を掛けた後部屋の灯を消し、ワンピースの裾に手を掛けた。再び、布の裂ける音。そして老人は、暗闇の中でわたしの腰を押さえつけて一旦馬乗りになる。わたしは、老人の重みと敵意で押しつぶされそうになっていた。頭が真っ白で、何も考えられなかった。

突然、老人の様子が変わる。ごりごりとした敵意が消えて、代わりに押さえつけてくる重みが倍ほどにもなった。窓の外から虫の声が聞こえてくる。老人は、動かなくなってしまった。わたしは、太ももを這うぬるっとした正体のわからない感触に怯えながら、動かなくなった老人の下をどうにか抜け出す。老人が最後に触ったあたりの壁をまさぐり、スイッチを見つけてそれを点した。老人は死んでいた。わたしが抜け出したときに少し動いたものか、よじれて横向き気味になった上体のその腹部には、木の柄をつけた小ぶりのナイフのようなものが深々と刺さっていた。

Ⅱ.稚の章

1.デジャブ

窓の向こうが朝の気配になってきた頃、わたしはようやくうつらうつらと眠りに落ちることができた。雀たちが朝食を探して声を掛け合うさまが伝わってきて、それがわたしのささくれた心を和らげてくれる。けれども、それもほんの束の間のことで、わたしはどやどやとした男たちの喧噪に叩き起こされた。何台もの車が外を行き交い、苛立ったような声音が四方から響いてくる。やがて鉄格子の向こうの扉が開き、昨夜来のつきあいの気の弱そうな駐在さんが格子の鍵を開いてくれる。

「ごめん、ちょっと出てくれるかな?」
「はい」

血が固まってゴワついたワンピースの胸元をかき合わせて、鉄格子をくぐる。通された部屋では、ポマードで頭を塗りたくって、三つ揃いのスーツに身を固めた男がテーブルの向こうに腰掛けていた。わたしの姿を見るなり、少し眉をひそめて声を荒げる。

「おい伊藤くん、もう少しどうにかならなかったのか」
「はっはい、しかし何分、住民の方もいろいろと騒がしく・・・」

ぐずぐずと言い訳をする駐在さんに、スーツの男はひとつ舌打ちをして、わたしに自分の向かい側に掛けるように指で合図をする。駐在さんは敬礼をひとつして出て行った。

「小川・・・美穂さんかな? わたしは県警本部の吉田という」
「はい」
「今から取り調べだ。だがその前に言っておくことがある」
「はい」
「昨日、電話をしただろう。ここから」
「はい、しました」
「拘留中にああいうことをされては困る。おかげで・・・」

刑事は言いよどみ、わたしは首を傾げる。

「つまり、逮捕取り消しだ。取り調べが終わったら出て行っていい」
「本当ですか?」
「ただし、僕がいいと言うまで村から出るな。それをしたら、逃亡・公務妨害で改めて逮捕だ」
「それはいつまでですか?」
「捜査が終わるまでだよ」

わたしが裕太と電話をしたことで、逮捕が取り消しになったということだろうが、どうしてそうなったのかさっぱりわからなかった。ただ、そのことでこの吉田という刑事が随分と腹を立てていることはわかる。わたしはひとつ頷いて余計なことは言わないことにした。刑事は、ふん、と鼻を鳴らして小さなノートパソコンを開き、それで?と切り出す。

「置物が見つかったんです。先週の木曜日に」
「置物? いや先週のことはいい。昨日、上杉家で何があったかを言いなさい」
「うえすぎけ?」
「神社に行っただろう?」

カミミヤ家だとばかり思っていたが、あの神社は上杉という人物の家のようだった。わたしは、石段を登るあたりからの話をする。吉田刑事は、電光のような勢いでキーボードを叩いてその内容を入力してゆく。がちゃがちゃがちゃ、とこちらも喧嘩腰だ。わたしが一通りのことを話し終えると、吉田はちらと上目遣いにこちらを見て口を開いた。

「それで全部?」
「はい」
「つまり君は、殺していない、と?」
「そうです」
「本当のことを言った方がいいよ」
「本当のことって何ですか?」
「何か恨むところがあって殺した。そうじゃないの?」
「違います! どうしてそうなるんですか」
「証拠がある」
「どんな証拠ですか?」
「被疑者には、言えないよ」

だめだ。全然話が通じない。しかし、よく考えたら通じていないのは確かにわたしの話の方だ。気がついたら死んでいました。めちゃくちゃだ。もしかして、わたしの方が錯乱しているのだろうか。わたしは、何かの目的のために上杉の家に行って、そして目的の人物を刺し殺した。そして、偽りの記憶を塗りたくってここで居直っている。違う違う。絶対に違う。わたしは自身かぶりを振りながらも、どこかに違和感を感じていた。村に入ってからずっと感じていたこと。わたしは以前、この村に来たことがあるのではないか? けれども、どうにも思い出すことはできなかった。黙り込んだわたしに、吉田刑事は爪でこんこんとテーブルを叩いて口を開く。

「折角暴行の痕跡を拵えたんだから、正当防衛の線を主張すればよかったのに。嘘の代償は却って高くつくよ」
「わたし、嘘なんかついてません」

吉田は取り合わず、眼も合わせずに、もう出て行っていいよと合図する。玄関口の部屋で椅子に座って待っていると、再び彼が現れる。数枚のプリントされた書類を並べられ、声に出して読みなさいと指示されて、一語一句読み上げた。悔しくて声が震えたところもあったが、どうにか涙をこらえた。全部読み上げたところで、下にサインをしろと言われて署名する。灰色のインクを親指につけられて、拇印を押した。

血糊のついたぼろぼろのワンピースのまま、わたしは駐在所の外へ出た。ボレロとサンダルはどこかに行ってしまったようだった。

「残念ながら規則でね。衣服は支給してやれないんだ。誰かを呼んで、その人が来てくれるまでここで待ったらどうだ?」

自身も出てきて煙草に火をつけながら、吉田刑事はぼそりと呟く。結構です、と捨て台詞をして、わたしは素足のまま路上へ出た。ざあああ、と瀬の音だけが響いていた。

2.拾う神在り

あまり人目につきたくなかったので、往来を避けて川へと階段を降りた。ごろごろした石の上を歩いて瀬に近づくと、木の板を渡した小さな橋が架かっているのがわかる。板はそれぞれ鎖でつながっていて、最後の鎖は手前の岸に鉄の杭で固定されていた。橋の少し下手で、石の上に座り込んで電話を掛ける。裕太はすぐに出た。

「美穂、だいじょうぶか?」
「うん。よくわからないけど、解放された。今は河原に居るよ」
「僕も向かっているところだ。二時間くらい掛かるかもしれない」
「裕太、学校は?」
「休んだけど? 何か文句ある?」

いいえ別に。けれども、これは完全にわたしの家から始まったトラブルだ。裕太を、あの不機嫌な刑事に会わせたりするのは正直気が進まないし、申し訳ないとも思った。でも――。

「ねえ裕太、」
「うん?」
「あのさあ、これは・・・」
「なんだ?」
「ごめん、ありがとう。きっと来てね。会いたいから・・・」
「悪いものでも食ったか? うん、着いたら電話するよ」

もう一度、ありがとうと告げて電話を切る。サンダルもないし、服もこの有様だ。財布もどこかに行ってしまった。このまま二時間、川面を眺めて待つより他はなかった。

じゃり、じゃりと背後から足音がする。電話もないし、裕太が到着するにはまだちょっと早いだろう。まだ一時間とは経っていなかった。橋を渡る人だろうか。少し服をかき合わせて俯きやり過ごすことにする。

「ああ、やっぱり小川さんだ!」

剽軽そうな声音に怖々振り返る。昨日の区長さんだった。

「区長さん・・・おはようございます」
「おはようございます。酷い目に遭いましたね?」
「え・・・」

昨夜、鍵を開けて人を呼んだ。狐眼の女性が、きゃあ、と叫んで走り去る。その後、がやがやと大勢の男たちがやってきた。男たちは皆、わたしを慮る気配もなく、二人がかりで肘をとって髪をつかんで引き回す。血だ、とか、呪いだ、とか口々に叫んでいた。あれが、この村のわたしに対する態度なんだと思っていたので、区長さんの朗らかそうな態度はひどく訝しかった。

「うちね、旅館やってるんですよ。温泉旅館」
「そうなんですか」
「泊まってお行きなさい。村から出られないんでしょう?」
「でも、お金ないですし」
「いいのいいの。小川さんなら、お金いらないから」
「どういうことでしょうか」

ただより怖いものはない。いったいいかなる趣旨のお誘いなのだろうか。猜疑のまなざしに気づいたのか、区長さんは少し真面目な調子になる。

「小川さん、あなた元々は、『仲間』という姓ではありませんか?」
「いいえ、違いますけど」
「お母さまの旧姓は?」
「知りません」

本当だった。優しかった母は、わたしが小学校に上がるのを待たずに病没してしまっていて、わたし自身、どんな人だったか今ではぼんやりとしか覚えていない。父はよく母の話をしてくれたのだけれども、どんな姓だったか、どんな出身だったかなどは何も語らなかった。わたしも、訊こうとはしなかった。区長さんは、わたしが望ましい答えを告げなかったことに戸惑ったのか、うーん、と呟く。

「じゃあこうしましょう。お金は後から払ってもらいます。それならどうですか?」
「それはありがたいですけど、区長さんにご迷惑にならないですか? ここでは、わたしは嫌われ者みたいですけど」

そんなこと、と区長さんは手をぶんぶんと振り、そののち周囲をきょろきょろと見渡してから、ぐいと顔を近づけてくる。剽軽な表情がかき消えて、ぎらぎらとした眼の上には青筋が浮いていた。

「わたしはね、今回の件は陰謀だと思ってる」
「陰謀?」
「そう。あなたはそれに巻き込まれただけだ。かわいそうに」
「誰の陰謀なんですか?」
「そりゃあ、上杉か水野のどっちかだ。犯人は茶室の窓をくぐれる奴だ。そんなに大きな体じゃない。女か、子どもか・・・」

手を引かれるままに手すりのない細い橋を渡る。川を渡ってテニスコートの間を抜けると、黒いすす掛けをした木造の大きな屋敷が現れた。陰謀? 誰が、何のために? わたしは、裕太にメールをひとつ打った後、黒々とした暖簾をくぐり抜けた。

3.褐色の鮎、碧の鮎

暖簾をくぐった先は広い土間になっていて、手前には大きな囲炉裏を囲むように背もたれのないベンチが並べられており、奥には普通のホテルふうの、カウンターが置かれていた。カウンターの奥には古びた大きな柱時計が掛かっている。わたしはその時計を見て、再び不思議な既視感にとらわれた。父のお客さんがああした時計を持ってきたことでもあっただろうか。

区長さんがひらひらと手を振って、わたしを右奥の上がり框へと誘う。おおーい、と声を掛けると廊下の奥から、はあーい、と元気な声があがり、わたしと同じような年頃と見える、浅黒く日焼けした少女が大きな盥を携えて現れた。背格好まで、わたしと同じくらいだった。少女は、わたしを見るなりぎくりとした顔になり、取り落としそうになった盥を受けて中腰に構えた。

「お父さん・・・!」
「うん」

父親と呼ばれた区長さんは、浅黒の娘とは眼も合わせずに受け流す。いいわ、と彼女は醒めた声で言い、盥を置いて仁王立ちにこちらを見る。

「ねえあなた、上杉のおじさまを殺したの?」
「こら、亜由実・・・」
「黙ってて」

ぴしゃりと区長さんを黙らせて、どうなの、と詰め寄る。わたしは、彼女のまっすぐな眼を見返して、殺してない、と応えた。正当防衛の方が有利? そんなこと知るもんか。わたしは殺してないんだ。一歩も引くものかと娘の眼を見返す。娘の方もしばし睨みを効かせていたが、やがて、わかったわ、と応えてにっこりと笑った。

「さあ、脚を出してちょうだい。あら、すごい汚れて。御沓は?」
「なくしちゃいました」
「旅館の草履、自由に使っていいわ。さあこっちに座って」

框に腰掛けたわたしの脚を盥につけ、娘が丁寧に洗ってくれる。熱い湯が、彼女のマッサージとともに浸みこんでくる。わたしは、昨夜来の寝不足も手伝って、頭がくらくらとしてきた。娘は、焦点の合わないわたしの瞳を見上げて、もう一度にっこり笑う。

「あたし、亜由実っていうの。仲間亜由美」
「仲間?」
「ええ、そうよ。あなたと同じ」
「わたし、違うわ。わたし小川美穂っていうの」
「へえ、そうなの? まあいいや。よろしくね?」
「うん。よろしく」

左の脚が終わり、右へと移る。

「あの、信じてくれて、ありがとう」
「眼を見ればわかるよ。美穂の眼は逃げる奴の眼じゃなかった」

脚を洗い終わると、促されて廊下を奥へと進み、家族風呂と書かれた一室に通される。

「脱いで」
「あ、うん」

女同士とは言え、初対面の恥ずかしさはややある。けれども、ここは脱衣所で、わたしはもうとっくにこの汚れた服を脱ぎ捨てたくなっていたので、思い切って背中に手を回し、ワンピースを引き上げて脱ぎ捨てた。

「ありゃ。下までか」

亜由美が声を上げる。血糊は、薄地のワンピースを抜けて下着にまで黒々と跡を残していたのだ。けれども、わたしは彼女の声音のおかげで陰鬱な気持ちにならずに済んだ。おどけた亜由美の声音は、彼女のお父さんにそっくりだった。わたしは思わずぷっと笑みを漏らした。亜由実は、うん?とわたしの眼を見返して笑いかける。

「下着は売店のを持ってきてあげる。上は? 浴衣でいい?」
「あ、うん。ありがとう」

わたしたちは、数分の間に無二の親友にでもなったようだった。亜由美は開けっぴろげな性格と見えて、すかすかしたわたしの心にするすると入り込んでくる。脱衣所から浴室へ入るとすぐに、わたしは髪から脚まで執拗に洗った。けれども、鉄の匂いは鼻腔に残っている。半露天に開かれた檜の浴槽に浸かり、わたしはばしゃばしゃと顔を洗った。

気がつくと、見知らぬ柾目の天井を見上げていた。じっとりとした日差しはなくなっていて、空一面が緑がかった黒雲に覆われ始めていた。急に冷えてきた空気が、十畳ほどの和室に忍び込んできている。わたしはというと浴衣を着せられており、腹まで布団が掛けられていた。視界の隅に黒っぽい影が座り込んでいるのが見えた。

「・・・裕太?」
「ああ、美穂だいじょうぶか?」
「わたし・・・?」
「湯あたりして倒れたんだそうだよ。僕がついた時には、よく寝ていた」

ふうわりと。高からず低からず。裕太の声だ。わたしは裕太に対して恋愛感情はないと思う。けれども、やはりいつも居てくれる人が側に居ないままにあんな一晩を過ごしてしまうと、失いたくない、と身の程知らずな気持ちにもなってきてしまう。優しいまなざしに包まれるだけで、眼の奥がぎゅっと熱くなる。けれどもわたしは、湧き上がる自分の感情を嫌悪した。こんな浅はかな思いがもし知られたなら、裕太はきっとその重みに耐えかねて逃げ出してしまうだろう。

4.わたしとは虚ろな器である

「ああ、起きたの。だいじょうぶ?」

裕太がフロントに電話を掛けてわたしの無事を告げると、すぐに亜由実がやってきた。

「うん、ごめんなさい、迷惑かけて」
「いいよ。お客さんではよくあることだし」

亜由実は屈託のない笑顔で、お昼食べちゃってね、と言い、座卓の上を指さした後、部屋を出て行った。

わたしたちは、差し向かいに並べられた昼食に手をつける。見たことのない斑模様の魚の塩焼き。大きな米粒のような正体不明の和え物。鰻の蒲焼きが三切れ。座卓の脇に置かれたお櫃には、ほぐした魚とこれまた見たことのない茸の入った雑炊が何杯分も入れられていた。わたしたちは、学校の授業の話などをして、昼食のひとときを過ごす。どちらも、置物の話も切り出さなかったし、殺人事件の話もしなかった。

けれどもやがてその時は訪れる。わたしたちには、もう他に話すべきことがなかった。しん、とした沈黙が訪れる。少し遠くの瀬の音がさらさらと聞こえてきた。しばしの後、裕太が重い口を開く。

「なあ、美穂」
「・・・うん」
「教授に電話しなくちゃ」
「先生に? どうして?」
「教授が、便宜を図ってくれたんだ。警察の偉い人に知り合いが居るからって」
「じゃあ・・・」

不可解だった刑事の態度がようやく腑に落ちてきた。わたしは、証拠が不充分という理由で解放されたわけではなかったのだ。わたしが頷くと、裕太がスマートフォンを弄って、座卓の上に立てて置いた。わたしが手に採ろうとすると裕太が押しとどめる。やがて小さな画面の中に、眼の落ちくぼんだ教授が現れた。

「先生・・・」
「小川くんか。大変だったようだね」
「ええ、あの、ありがとうございます」
「まだ礼を言うのは早い。大変なのはこれからだよ」
「は、はい」
「わたしは授業があるから金曜の夜まではそちらへは行けない。君たちが、探すんだ」
「探すって・・・犯人が他に居るってことなんですか?」
「じゃあ、君が殺したの?」
「違います。違う・・・と思います」

教授は左側の口唇を曲げて笑う。皮肉めいた笑いだったが、眼は優しく細められていた。

「いいかな小川くん。世界は生者のためにあるんだ。犯人なんか誰でもいい。君は、君が犯人じゃない【かもしれない】ことを示せばいいだけだ。それを、探すんだ」
「でも、そんなことが・・・」
「できるさ。だいじょうぶ」

話してごらん、と言われて、わたしは教授と別れてからのことを話す。教授はふんふんと相槌を打ちながら、時折かさかさと鉛筆でメモを取っているようだった。その話は関係ない、とも、それは違う、とも言わず、教授はわたしに聞き入ってくれた。

「へえ兜橋。面白いね」
「面白いですか?」
「興味深いってことさ。何か、その村にとって重要なことなんだ」
「でも、運転手さんですよ? 事件に関係あるんですか?」
「地元の人が言ったことだ。大切なことだから、伝えたんだよ。今日は暑いね、という世間話よりも、ずっとずっと大切な情報なんだ」
「それはどうして?」
「わからないね。現時点では」

促されて、話の続きをする。恐ろしい目に遭ったことについては、要点だけにして済ませた。駐在所での一夜についても、手短にしたが、教授は特に追及してくる節もなかった。一通り話し終えると、教授はふーむと唸って頭の後ろで手を組み、画面の後方へと下がった。リクライニングを倒したようだった。

「いろいろと、訳のわからないところがあるな」
「はい、全然わからないんです」

たぶん、教授の「わからない」とわたしの「わからない」は全然違うのだろう。教授は、ふん、と鼻を鳴らし、コーヒーを煎れてくる、と言って席を立った。裕太とわたしは、特に話し合うことがあるでもなく、互いに部屋のどこかをぼんやりと見つめて時を過ごした。すると程なくして、沈黙の隙間を抜け、遠くの嶺から雷鳴が聞こえてくる。ざあっ、と激しい雨がやってきて、わたしたちは慌てて立ち上がり、室内の窓を閉めて回った。

Ⅲ.遡の章

1.媒介

教授が、熱そうな飲み物をすすりながら戻ってくる。

「よし、一つ目からいこう。上杉亮三は『情けだ』と言っんだな? 『情けをやる』とかではなくて?」
「『情けをやる』だと意味が違うんですか?」
「『情けをやる』といったら、『子種を授ける』という意味だな」
「じゃあ、そうだったかもしれません」
「小川くん、ここは重要なところなんだ。よく思い出して。『情けをやる』と言われた?」
「・・・いいえ、『情けだ』と言われました」
「ふむ。何だろうな? 君はどう受け取った?」
「その・・・ごめんなさい、わかりません」
「ということは、君に対して何かを伝える意志はなかったんだな」
「どうしてですか?」
「相手が理解できていなさそうな表情をしたら、普通は言葉を足すさ」
「じゃあなぜそんなことを口にしたんでしょう?」
「預言だよ」
「よげん?」
「言葉を、預けたのさ」

わたしはたぶん、ぽかんとした顔をしていたのだろう。教授は眼を細めてコーヒーに戻り、左手で何かをがりがりとメモした。やがてカップを置き、よし次の話にいこう、と向き直った。

「村人たちが『血だ』と言ったのは、君の衣服についた返り血のことだったかな?」
「ええと、たぶんですけど、違うと思います」
「なぜ?」
「何となく。言っていた人の視線が・・・」
「どこを見ていた?」
「集落の方です」
「ふむ。では『呪い』はどうだ? どこを見ていた?」
「・・・眼を伏せているひとが多かった気がします」
「よっぽど怖かったんだろうな。二十一世紀にもなってなあ」
「怖かった?」
「そのとおり。君も村人に対して怖れを抱いたことだろう。それは当然だ。だけど、村人も怖れていたんだよ。だから君をおさえつけた。怖くもない女の子を大人数で押さえつけなくちゃいけない理由なんかないだろう?」
「そうかもしれません」
「だから、村の人たちを恨みに思ってはいけないよ。みんな、怖いんだ」
「はい」

しかし呪いとはなあ、と教授はもう一度呟き、ぎしぎしと椅子を揺らしてくるくると回る。背もたれ。教授の顔。背もたれ。三度回ったところで、椅子はぴたりと画面の中央で止まった。ぐい、と身を乗り出してきて、ぎらぎらとした眼がわたしをとらえる。

「いいかい、『呪い』が成立するためには三つの条件が必要だ。すなわち『呪い』を発する人間、『呪い』を受ける人間、そして媒介となる超常現象だ」
「どういうことでしょうか」
「殺されたのがカミミヤの主であり、殺したと思われる人物が君だったからこそ、『呪い』が成立しているんだ。他の人間が殺されたならそれは『呪い』ではないし、他の人間が殺したならばやっぱりそれは『呪い』ではないんだよ」

ちょっと待って下さい、と裕太が口を挟む。

「美穂は、この村には初めて来たんです。その美穂がどうして『呪い』を・・・あれ? 美穂が『呪い』を発しているんですか? それとも『呪い』を受けている?」
「小川くん、渡瀬村は初めてなのかい?」
「ええと、たぶんそうです」
「たぶんとは?」
「その、自信がなくて。いつか見たような、って気持ちも時々あるんです」

再び沈黙が訪れる。まだ夕刻頃だろうに、窓の外は真っ暗になっている。雨音や雷鳴よりも、屋根から伝う大粒の雫が縁側を鳴らす音の方が大きく響いていた。

「いずれにせよ、小川くんには何か『印』がついているということだ。村人が見てすぐわかるような何かが」
「それは、先生にも見えるんですか?」
「残念ながら、僕には見えないな。普通の、浴衣姿のかわいい高校生だ。だが、村人には見えている。それは突き止めておく必要があるだろうな」

思わず両の手で頬を囲う。何か顔についてでもいるのだろうか。教授には似つかわしくないおべんちゃらに浮かれる気にもなれず、わたしは自身に埋め込まれた『印』なるものに怯えるばかりだった。

「それと、超常現象」
「超常現象っていうのは何ですか?」
「普通では考えられないような出来事だよ。幽霊が出るとか、人が消えるとかそういう類のことだ。何か心当たりは?」
「特に・・・そんなことはなかったと思います」

そうかな?と。教授は何やら思い当たることがあるようで、自分の採ったメモをじっと見返す。わたしは少し不安になった。超常現象。普通では考えられないような出来事。何かあっただろうか。わたしの自覚する範囲では、そんなことがあったようにはどうしても思われなかった。

2.秘めたるは蕾なるが故

「まあ、とりあえずそこは棚上げしておこう。次は証拠の件だ」
「刑事さんの言っていた?」
「そのとおり。わたしも、警察の知人からそれについては知っている。けれども、今の君の話にはそのことが出ていない。だから吉田刑事は苛立っていたのだろう」
「どういうことですか?」
「凶器となった短刀の柄には、君の指紋がべっとりとついていた」
「ええ?」

指紋が短刀の柄に。なぜだろう。思い出したくない夜のことを必死に回想する。ああ、と思い当たった。あれが、そういうことだったのか。

「あの・・・」
「思い出したことがあるかな?」

わたしはというと、顔が紅潮して言葉が出ない。裕太が心配そうに覗き込んで、どうした?と訊ねたが、わたしはその声音にますます縮こまった。裕太が聞いたらきっと怒り出すような気がした。それともあきれてしまうだろうか。画面の向こうで教授が、ああ、とひとつ机を叩いた。

「わかったよ。言わなくてもいい」
「・・・わかったんですか?」
「わかったよ。でも小川くん、これはどこかで必ず吉田くんに言っておかなければいけないことだよ。気持ちはわかるけれども、端折ってはいけないことだった」

どういうことですか、と裕太が口を挟む。教授は眼を閉じて考えている様子だったが、やがて口を開いた。

「じゃあ今日は僕が言おう。彼女は、短刀の柄を、そうではない何かだと勘違いして、つかんだのだ。おそらく、無理矢理つかまされたんだろう」
「そうではない何か?」

一瞬の沈黙の後、裕太はびくんとしてこちらを振り返る。お前、と言いかけるのをこちらから遮った。

「だって、ああなって、手を採られて導かれたら、普通はそう思うでしょう? そんなことまで警察に言わなきゃ駄目だなんて思わなかった」
「それで、握ったのか?」
「だって、怖かったのよ? 殺されるかもしれないと思ってた。やれと言われたらやるしかないじゃない」

最後は消え入るような声になった。裕太は怒った表情をしていた。こんな裕太を見るのは、もう十年ぶりくらいのことだった。ごめん裕太。わたしだって嫌だった。でも死にたくもなかった。もっと醜いことをやれと言われても、きっとわたしはやっただろう。わたしは、裕太に捧げるべき白さをその身に持たない人間なのだ。口唇を噛んで俯き、裕太の叱責を待った。

裕太は何も言わなかった。畳の目地を数えながら、わたしはその沈黙がいっとう辛かった。黙られるくらいなら怒られた方がよっぽどましだ。殴ってくれても構わなかった。けれども、何もなかった。裕太が、裕太じゃなくなってしまった。いや、そうではない。裕太にとってわたしは、優しさを与えるにふさわしい存在ではなくなってしまったのだろう。でもそれはわたしが変わってしまったということではない。わたしが、元々この程度の人間だったということが、今ここで露見しただけのことだ。

小川くん、と声を掛けられて我に返る。顔を上げると、裕太は部屋に居なかった。雨音に紛れて、席を立ってしまったようだった。教授は少し済まなさそうな顔をして、続けてもだいじょうぶだろうか、と言う。

「はい、だいじょうぶです」
「あいつもまだまだ子どもだなあ」
「そうなんでしょうか」
「性的なことに関しては、男の子は女の子よりずっと子どもだ。というか、ガキなんだな。こればっかりは仕方ない」
「でも、わたしが悪いんですし」
「うん? いや、そんなことはないよ。そんなふうに思うべきじゃない。むしろ、そんなふうに思うから、刑事を混乱させたりすることにもなる」

まあ後でよく話し合いなさい、と教授はこの話題を切り上げて座り直す。

「区長が・・・面白いな?」
「興味深い?」
「そのとおり。彼の名字は『仲間』で、君のことは『仲間』と呼んだ。そして、ただ区長というだけにしては、親切すぎる」
「犯人だと?」
「そこまではまだわからないね。でも何か隠してるな。不自然なことが多すぎる」

わたしは、ようやく一息つけたこの隠れ家が、何かの陰謀の一部とは信じられなかった。信じたくなかった。亜由実の開けっぴろげな笑顔、それによく似た剽軽な父親。そこには、企みのない温かみがある。わたしはそのように信じ続けたかった。

「あの先生、今区長さんが経営する旅館に居るんですけど・・・」
「うん」
「身の危険がありますか?」
「どうかな。仮に区長が犯人だとしても、君に害は及ばないだろう」
「なぜですか?」
「君に警戒を促したからだ。自分で自分のやりたいことを難しくする必要はない」
「じゃあ他の人が犯人だったら?」
「たぶん区長はそう考えているのだろう。目星がついている感じだな。君を招き入れたのはたぶん、犯人から守る意図があるんだろう。今夜は安心して寝るといいよ」

わたしは、教授の言って聞かせるような言葉遣いに少しだけ安堵した。

3.舟は嵐に湊を探す

教授はわたしの緊張が少し和らいだことを確認すると、自らのスマートフォンを取り出して四角いバーコードを示した。登録しておけ、ということだろう。わたしは、自分の携帯電話にそれを取り込んだ。

「今、着信をくれないかな? 後で明日からやって欲しいことのリストを送るから」

わかりました、と告げて教授に電話を掛ける。教授は、もらったよ、と告げてスマートフォンをひらひらとしてみせた。

「ありがとうございます」
「どういたしまして」

おやすみなさい、と告げると、教授の姿は消えた。わたしは浴衣の上から旅館の用意してくれた上着を羽織り、裕太を探しに部屋を出る。たとえ裕太に愛想を尽かされることになったとしても、今までありがとう、くらいのことは伝えておきたかった。

裕太はすぐに見つかった。大浴場を出たすぐのところにあるゲームコーナーで座り込み、法被姿の亜由実と談笑していた。思いの外上機嫌そうな様子に、わたしは少し胸をなで下ろした。それと同時に、わたしの胸はちくりと疼く。そんな人の近くに居ないで。わたしの側に居て。黒々とした感情に巻かれる。わたしは今どんな顔をしているのだろうか。『呪い』だ。金の鮎が現れてからというもの、ずっとわたしはこんななのだ。

嘘の笑顔を作る自信もなくて、わたしは廊下の陰に隠れたまま出るに出られなかった。やがて二人は、じゃあ、と互いに手を挙げ左右に分かれる。わたしはというと、へなへなと崩れて絨毯の床にぺたんと尻餅をついた。手で顔を覆って、黒く纏わりつくものが身を離れてくれるのを待ったが、それはいっこうに立ち去ってくれる気配を見せなかった。

「何やってんの美穂。こんなとこで」

唐突に背後から声を掛けられ、わたしはびくりとなって振り返る。大仰な掃除機を携え、吸い込み口を肩に担いだ亜由実が立っていた。

「亜由実・・・」
「シーツ掛け直しといたよ。二人分くっつけといたから」

意味深げな笑顔をしてよいしょと座り込む。わたしが軽口に乗れない様子だと見て取ると、眉をひそめて覗き込んできた。

「どうしたの? 何かあった?」
「さっき」
「うん?」
「さっき亜由実、裕太と話してた」
「ああごめん、美穂そういうの気にするタイプ?」
「違う。そんなんじゃない。わたしたちは、そんなんじゃない」
「そうなの?」
「そうなの。でもわたし、裕太の顔が・・・」

言葉の端が虚空に消えて追い切れない。わたしは自分が何を言おうとしたのか自分でもよくわからなかった。亜由実は、よしよしと言いながら、わたしを抱き込んで背中をぽんぽんと叩く。

「裕太くんにはあたしから言っとくからさ、今夜はあたしの部屋に来ない?」
「え?」
「裕太くんもさ、独りになる時間が必要なんだよ」
「それってどういう・・・何か話したの?」
「話したよ。美穂のことどんだけ大切に思ってるかって。延々と。もうお腹いっぱい」

亜由実はにこにこと笑う。何だかはぐらかされたようだった。けれども女同士らしい屈託のなさで誘われて、わたしはついつい言われるままに亜由実に手を採られてついてゆく。女子寮と書かれた磨り硝子の扉を潜って、一番奥の部屋へと向かった。寝るためだけとおぼしき四畳ほどの小部屋が、いかにも女子らしい小物や衣装で溢れていた。

ちょっとシャワー浴びてくる、と言い残して亜由実は部屋を出て行く。数分の時が過ぎて、わたしは待つことを選んだ自分を悔やんだ。亜由実は、裕太の元へ行っているのだろう。あたしから言っておく、と彼女は言っていた。本当にそれだけだろうか。子鹿のようなすらりとした彼女の肢体が脳裏をよぎる。携帯電話を開いて裕太の電話番号を探す。押せない。押して何を言う? わからない。ぶるぶると指が震えた。魔が差した、というのだろうか、突然わたしは、がちゃがちゃと携帯電話を操作する。呼び出し音が耳元で鳴り、相手が電話に出た。

「もしもし?」
「先生・・・」

震え声で言うだけ言って、あわてて電話を切る。わたしはいったい何をしているのだ? なぜ教授に電話をかけたのか、なぜ一言だけ発していたずら電話のように切ったのか、自分でも何がなんだか訳がわからなかった。だめだ。もうだめだ。頭の中はぐちゃぐちゃで、何も考えられなかった。

ぶるぶるっ、と携帯電話が一瞬だけ震える。先生からのメールだった。怖々開くと、【おやすみなさい。またあした】とだけ書かれていた。わたしはなぜかほっと胸をなで下ろして、短く返事を打って携帯電話を閉じる。程なくして、おまたせー、という朗らかな声音とともに、亜由実が部屋へと戻ってきた。びっくりするほど脳天気な絵柄の、七分丈のパジャマ姿を見て、わたしはなぜか少し落ち着いた。黒々とした影は、もうどこかに消えてしまっていた。

4.天使

セミダブルのベッドに誘われて、二人身を横たえる。鼻と鼻がくっつきそうなほどの距離の向こう側で、亜由実の大きな瞳の中にわたしが居る。右のわたしも左のわたしも、わたし同様にしょげ返っている様子だった。

「ねえ美穂」
「うん」
「だっこしよう。ぎゅーっ、って」
「え?」

返事をする間もなく、するすると手が伸びてきて、わたしは温かく柔らかいものに包まれた。亜由実の頬はすべすべとしていて、わたしの頬をくすぐる。耳元で、亜由実の声が響いてくる。

「やっぱり、似てる」
「なんのこと?」
「美穂ね、お母さんに似てるんだ。あたしを生んですぐに死んじゃった」
「そうなんだ・・・」

亜由実の真意がわかってきて、わたしはそっと手を回し返して亜由実の背を撫でる。亜由実はそれに応じて、クスクスと笑った。

「お父さんが昼間言ってたの。オオホンヤが戻ってきた、って」
「オオホンヤ?」
「『仲間』一族の、ね。直系の子孫」
「それがわたし?」
「そう思ったみたいなのよ。本当、お父さんの勘違い。ごめんね?」
「でも、似てるんだ?」
「といってもあたしは写真でしか知らないんだけどね。でも不思議だね。世の中にはそっくりな人が三人は居るって言うけど」

わたしは、亜由実の寂しさに応じながらも、どこかで教授の言葉を思い出していた。わたしには、『印』がついている。村人の誰にでもわかる『印』が。しかし『仲間』一族の誰かに顔が似ているからといって、それがなぜ『呪い』になるのかはよくわからなかった。

ぶるぶる、と携帯が震える。ごめん、と言い訳してわたしは亜由実の腕をほどき、サイドテーブルで明滅する携帯電話を手に採った。メールは教授からのもので、明日からわたしがやるべきことが示されていた。亜由実が枕に顔を埋めたまま口を開く。

「裕太くん?」
「え? ううん、違うひと」
「どっちにするの?」
「え?」
「すっごく、嬉しそうな顔してたよ」
「わたしが? 今?」

亜由実は、眼を細めて笑う。

「だいじょうぶ。あたしは、裕太くんを獲ったりはしないよ」
「何言ってるの」
「あたしのこと、怖い眼で見てた」
「そんなこと」
「いいのいいの。でもだいじょうぶ。あたしは、美穂からきちんと許可が出るまでは、裕太くんには手を出さないから」
「え、ちょっと、どういうこと? 裕太のこと気に入ってるの?」
「まあ、ちょっとね。田舎はどこも若者不足だから。体が丈夫で優しいひとなら誰でもいいよあたし。ここで生きていく、って決めてるから」

女同士の牽制。今はそれが心地よかった。興味ないと言われても信じられないだろうし、興味があると宣戦布告されても穏やかではない。けれども、淑女の協定は結ばれたのだ。わたしたちは、半分本気でにらみ合いながら、クスクスと笑い合った。ひとしきりの後、亜由実はわたしを許さず、それで?と水を向けてくる。

「裕太は、好きだよ。何ていうか、わたしの仏さま」
「はあ?」
「いつも見ていてくれてるの。いつも同じ笑顔で。それだけでいいの。御利益満点」
「じゃあ、そっちのメールは?」
「こっちは・・・天使さまかな」
「は、はあ・・・」
「服の縁がいつもひらひらしててね、羽が生えてるみたいなの。いつも遠い雲の上に住んでいて。でも困ったら助けに来てくれる。そんな感じ」
「美穂ってさ。何か浮き世離れしてるよね」
「そうかな?」
「詩の世界で生きてるみたいだ」
「それもしかして悪口なの?」
「そんなことないない。素敵な生き方だと思うよ。あたし、気に入った男のこと他人の前でそんなふうに誉めたりできない。こっぱずかしくて」
「やっぱり悪口なんじゃないの」

そんなことないって、と亜由実は眼をくりくりさせて笑う。もう、と言って手元の枕をぶつけた。やったな、と亜由実も反撃してくる。二人とも揉み合っているうちにベッドからどしんと落ちて、わたしたちは隣室からノックで注意を受けた。こそこそと暗闇の中ベッドへ戻る。

「だから、ね。どっちも違うんだよ。わたしなんかが裕太の隣に居ていい訳ない。だから、亜由実がもし裕太のことがいいって言うんなら・・・」

言葉尻が苦しくなって言い淀んだ。戸外の防災灯の薄明かりが、柔らかく亜由実の頬を照らしている。亜由実は、もう寝入ってしまっていた。わたしは、びゅうびゅうと吹き付ける強風と、真夏の蝉の声のような強い雨の音を聞きながら、亜由実の傍らでそっと眼を閉じた。

Ⅳ.領の章

1.断絶

目覚めると、亜由実は既に居なくなっていた。東側の窓から明かりが差し込んでいて、戸外では小鳥たちの声が嵐の去ったことを告げていた。浴衣を脱いで、裕太が持ってきてくれた袋から衣服を取り出して身につける。白い靴下、ベージュののショートパンツ。横縞のタンクトップの上に、半袖のブラウスを着流す。鏡の前でくるっと回るとブラウスの裾がはためき、少しだけ教授っぽい気がした。

寮を抜けて大浴場の前を通り、数段の階段を上がってホールに出る。あっ、と法被姿の亜由実が気づいて、慌ただしく近づいてくる。

「おはよう、亜由実」
「おはよう、まだゆっくりしてていいよ?」
「でも・・・」
「昨日の雨でね、いろいろ大変なんだ。大きな岩が落ちてきて兜橋に亀裂が入って傾いてる。危なくて誰も通れないんだ」

確かに、対岸では慌ただしく軽トラックが行き交い、大人たちが大声で何かを伝え合っている。みんな真剣な表情だった。兜橋。地元にとって大切な何か。それが損なわれてしまったのだ。

「大切な橋だったんだよね」
「そりゃそうだよ。あれが通れかったら、村の外に出られない」
「・・・え?」
「食材も届かない。クリーニングも来てくれない。でもお客さんは帰れない。そりゃあ、困る」
「ちょっと待って。誰も出られない、誰も入れない、ってこと?」
「だからそう言ってんじゃん」

ごめんね、と話を切り上げて、亜由実は仕事に戻る。思っていたよりもずっと大ごとのようだった。わたしは喧噪の中、他の旅客たちに混ざって朝食の席につく。程なく裕太が現れ、亜由実に促されて向かいの席に座わった。しばしの沈黙の後、わたしの方から口を開く。

「裕太、着替え、持ってきてくれてありがとう」
「あ、ああ。うん。そんなんで、よかったか?」
「うん。いつもありがとう。感謝してる」
「いや・・・」

亜由実がほいほいとぞんざいな掛け声を出しながら膳を運んでくる。食べようか、と二人で笑い合い、箸をとった。もっと言葉が必要かもしれないと思っていたけれども、裕太がいつもみたいににっこり笑ってくれるならそれでいい。膳の上を見渡してすぐわたしは、ちょっと待って、と亜由実を呼び止めた。

「なあに?」
「これ、何? この白い和え物。昨日のお昼にもあったよね?」
「ああそれ。へぼだよ」
「へぼ?」
「蜂の幼虫」

亜由実は忙しそうにして去る。

「・・・蜂の幼虫だって」
「美穂、お前旨い旨いって食ってただろ。僕のもやるよ」
「いや裕太だって食べてたじゃない。わたしのをあげるよ。遠慮しないで」
「いやいやいや・・・」

微妙な心持ちではあったが、おいしかったのは事実だし、折角出されたものを残すのは忍びなかったので、わたしたちは互いにあてがわれた分をしっかりと食べた。けれども、正体を知らずに食べていたときよりも微妙な味わいであったことは否めなかった。粒が口の中ではじける度、わたしは幼子を殺しているような気分に見舞われた。

食事を終えるとすぐにわたしは、裕太が部屋から去った後の話をする。

「だから裕太、わたし、すぐに始めたいの」
「でも美穂、あんな大雨だったんだし、道も泥濘んでるとこがあるだろう。まして、犯人はまだ村の中に居る訳だろう? 教授も明後日には来てくれるって言ってるんだし、ここは大人しく待つべきじゃないか?」
「先生は、来ないよ」
「え? 何で?」
「橋が壊れた」

わたしは、亜由実から聞いた話を裕太に伝える。裕太は背もたれに掛けていた肘をがくんと落として、あっけにとられた顔になってしまった。

「そりゃあ、なおさら出ちゃだめだろう。村の人も神経質になってるんじゃないか?」
「だめ。これは、わたしが行かなくちゃいけないことだから」
「何で・・・そうなる?」

あたしはここで生きていく。亜由実はそう言っていた。カミミヤの神主は、わたしに何かを預けて世を去った。わたしには、村人が怖れるような『印』が刻まれている。わたしは、まだ刑事に伝えなければならないことがある。わたしの手元には、天使から貰った大切なメールがある。ここには何かがある。わたしが見つけなければならない何かが。

2.反撃

「なあ美穂、こんなこと言いたくないけどさ」
「なに?」
「お前、こないだからちょっとおかしいぞ。僕に嘘までついて学校は休むしさ」
「それは、迷惑かけたくないと思ったんだもの」
「でも結局迷惑になってるだろ」
「それは・・・そうだけど。ごめん」
「だからさ、余計なことに首つっこむのはやめてさ」
「それは・・・できない」

裕太は、はあ、とため息を一つつく。ごめん裕太。何でもあげようって思ってたのに。裕太の言うことなら何でも聞くって思ってたのに。でも、これが終わったらきっとそうするから。裕太のどんなささくれでも、ぶつけてくれていい。だから今は。そんな思いを重ねて、わたしは裕太の眼をじっと見る。裕太は少し沈黙してから、再び口を開いた。

「教授からのメール、見せて貰ってもいいか?」
「ああ、うんいいよ」

わたしは携帯電話を開いて、裕太の方へ滑らせる。裕太はかちかちとボタンを押してわたしの携帯電話をじっと見ていたが、やがてこちらを向いて口を開く。

「これさ、旅館の人に聞けないかな?」
「え、だってたとえばこの一つ目のやつとかさ、村の神社の数を数えること、とか。こんなの地元の人に聞いたらわかるんじゃないか?」

わたしが口を開くのも待たず、裕太は片手を挙げて、すいませーん、と声を挙げた。たまたまなのか思うところあってか、はーいと返事をしてやってきたのは区長さんであった。お茶のおかわりですか、と相変わらず剽軽な調子は変わらない。わたしたちは互いに少し眼を見合わせたが、結局わたしが口を開くことにした。

「あの、区長さん。ちょっとお伺いしたいことがあるんですが」
「はいはい、何でしょう?」
「この村に、神社はいくつあるんですか?」
「え、神社ですか?」
「はい、三つある筈だから調べてきなさい、って・・・」

わたしは言葉の途中で口を噤む。区長さんは、昨日垣間見せた怖い怖い顔になっていた。こめかみに青い筋が浮き出て、眼はかっと見開かれている。

「それ、誰が言いましたか?」
「わたしがお世話になっている大学の先生ですけど・・・」

区長さんは、ごくりと喉を鳴らす。口唇の端から泡のようなものが見える。少し震えていたが、程なく落ち着いたふうを装って区長さんは口を開いた。

「神社はね、二つですよ。二つ。カミミヤと、シモミヤね」
「二つなんですか?」

そうです、と言い残し、何かしなければならない仕事があるような顔をして、区長さんはわたしたちの前から消えた。

「・・・二つだって」
「でもあれ、何かおかしいよな」
「裕太も思った?」
「うん」

仕方ない、と裕太はつぶやき、ぐい、と背もたれを押して椅子から立ち上がる。

「僕もついていってやるよ」
「いいの?」
「駄目って言っても窓からでも出て行きそうだから」

ありがとう、と告げてわたしも席を立った。

玄関端で少し困る。靴がない。旅館で貸し出しているのはゆったり散歩を楽しむことはできそうな華奢なつくりの草履だけで、村中を回るのには明らかに向いていなさそうだった。と、そこへ亜由実が通りかかる。

「あれ? 美穂出かけるの?」
「うん、ちょっと調べなくちゃいけないことがあって」
「ああ、天使ね?」
「あ、うん。そうそう」
「ちょっと待ってて」

ぷい、と亜由実は大浴場の方へと消えた。天使って何だ?と裕太が訊ねる。何でもないよ、とお茶を濁した。亜由実はすぐに戻ってきて、ブーメランのマークがついた白っぽい運動靴をタタキの上に並べる。

「これ、買ったけど使わなかったやつだから。あげる」
「ええ、そんな悪いよ」
「靴も寿命があるんだ。放っておけば固くなっちゃう。使ってよ」
「じゃあ、お金払うよ」
「財布もないのに?」
「また、今度・・・」

わかったわかった、と亜由実は笑って、わたしの背中をぽんと叩く。靴を試してみると、わたしの脚はそれにぴったりと収まった。

「天使の羽」
「え?」
「らしいよ。その靴のマーク」

へえ、と相槌を打ってブーメランの模様を眺める。あまり裕太の前で天使天使と連呼されたくなかったが、裕太は靴の話かと納得してくれたようだった。わたしは、何か後ろめたいような気分のまま、ほっと胸をなで下ろした。

3.ドッペルゲンガー

木々の隙間から漏れてくる陽光は、わたしたちが石段を上がるたびにその場所を移し、わたしたちを追ってきているかのようだった。わたしたちが長い石段をようよう登って息を切らしていると、誰かが呼びに行ったものと見えて、すぐに建物の中から吉田刑事が現れる。おはようございます、と大きな声を出して挨拶をすると、ああ、と右手を挙げて近づいてきた。

「何しに来たの。こんなとこへ」
「あの、ちょっと調べごとがあって」
「例の人物に言われてかな?」
「はい、まあ、そうなんです」
「いったい何を調べるんだ?」
「鳥居とか灯籠に書いてある字を読んでこい、って」

吉田刑事は怪訝な顔をしたが、すぐに、あそこの、と吉田刑事は自分が出てきた建物の方を指さす。

「黄色いテープが貼ってあるだろう? あそこから中には入らないように」
「わかりました。それから、ちょっと刑事さんと話したいんですけど」

裕太は、あまり愉快な話題ではないと見えて、少し距離を開ける。その間にわたしは、手短に指紋の一件について説明した。吉田刑事は話の内容については予期していたようで、特に驚くふうもなかったし、警戒が解けた雰囲気もなかった。わたしが話し終えると、少し口唇を曲げて笑う。

「まあ、今となってはそう言うしかないだろうな。でも、君はまだ嘘をついている」

どんなことですか、と言おうとして口を噤む。どうせ被疑者には話せないと言うのだろう。吉田刑事はわたしの様子を見て再び笑った。

「話してあげてもいいよ。どっちみち、起訴状が発送できないんだ」
「橋が壊れたせいでですか」
「そういうこと。だから、今は君の主張も可能性のひとつとして捜査はしている。ただ君の主張には大きな問題があるんだ」
「どんなことですか」

来たまえ、と促されてわたしは参道をまっすぐに本殿の方へ向かう。靴を脱いで上がり、刑事が開いた格子の引き戸を通って本殿の中に入ると、不思議な光景が眼に飛び込んできた。大きな天窓が設けられていて、それが建物の中央部に光を運んでいる。そこにはちょうど囲炉裏のように仕切りが設けられ、中には土が敷き詰められて花が咲いていた。その中央付近に、六十センチ四方ほどの小作りな社が設けられ、厳重に鍵が掛けられていた。

覗いてごらん、と促され、一応一拝してから中を見る。思わず、あっ、と小さな声が漏れた。そこには、あの鮎が鎮座していた。まるで何年も前からそこにあったように、古びた赤い座布団を押し潰して置かれていた。

「君が昨日言っていたのはあの鮎のことかな?」
「そう、そうです」
「ところがどっこい、あの鮎はこの村を離れたことが一度もない。毎日拝んでいる人が何人も居る。だから、君の家から鮎が見つかる訳はないんだ。なぜ、そんな嘘をつく?」
「わたし・・・わたし、嘘なんかついてません」
「じゃあつまり、君は黄金の鮎は二体あると主張する訳のかな?」
「そんな、そんなことはわかりません」

吉田刑事は、ふん、と鼻を鳴らして本殿を後にする。わたしも後ろ眼に禍々しい気配を放つ鮎を見ながらつき従った。植わっている花は蒲公英のようなありふれたものに見えた。けれども何だろう。蒲公英にしてはやけに背が高く花が大きい。別の品種なのかもしれなかった。本殿を出たところで、吉田刑事が再び口を開く。

「さっきも言ったように、起訴状が送れない。かといって外部と通信手段ができるまで遊んでいる訳にもいかない。だから一応探してはいるよ。二匹目の鮎をね」
「そうなんですか」
「そう。昨日から、ずっと探している。しかしどこにも見当たらない」

まだ何一つ腑に落ちてわかったこともないというのに、そんなことを言われても何とも応えようがない。そうですか、と温度の低い応えを返して裕太の元へと戻り、見聞きしてきたことを話した。裕太もおかしな顔をする。それはそうだ。あの鮎は、裕太が見つけ、裕太が大学に持ち込んで検査をしてもらったものだ。訝るのも無理のないことだった。

わたしたちは教授の言うとおり、鳥居や灯籠、手水鉢などに書かれた字を見て回る。幸いなことにどの字もくっきりとしていて、読み取れないところはなかった。手水鉢の字を書き取ったところで、裕太が曲げた腰を伸ばして不平を言う。

「なあ、こんなこと、何か意味あんのかな?」
「わからないけど、たぶん。先生が言ってるんだし」
「でもあいつ、結構いい加減な奴だぞ?」

じろり、と裕太を睨みつける。そりゃあ、元々教授は裕太の親戚で、よく知り抜いてもいるだろう。でも、こんな言い方はない。教授はいつも夜遅くまでわたしたちのことを気に掛けていてくれるのだ。この作業にも、きっと何か意味があるに違いない。美穂は、なるべく丁寧にメモを採りながらそのように思った。

鳥居正面右側:村社
鳥居正面左側:神明神社
鳥居右側:昭和五年 寄進 硲電力株式会社
鳥居左側:寄進 上杉兼三 上杉喜助 上杉長平 上杉たえ 木村与平
右側灯籠:昭和五年 寄進 硲電力株式会社
左側灯籠:寄進 上杉兼三 上杉喜助 上杉長平 上杉西松 上杉たえ
手 水 鉢:昭和五年 寄進 硲電力株式会社

4.荒ら家

カミミヤが村のもっとも上流側にあるのだから、シモミヤがもっとも下流側にあるのだろうとは思っていた。兜橋をぐるっと回ったすぐのところにもう一つの支川があり、それを遡った先に、それはあった。わたしたちは、それがカミミヤとは全然異なる佇まいであることに、半ば呆然とする。石段はところどころが崩れ、その上にはたくさんの落ち葉が積もっていた。その先に短めの境内があり、その奥に小ぶりの本殿だけが設けられている。境内にも、落ち葉はぎっしりと詰まっていた。わーん、と耳元を虫がかすめる。裕太はたまらず、早く終わらせようぜ、と不平顔で言った。

「でも、これじゃああんまりじゃない?」

わたしは落ち葉を掻き分けて本殿へたどり着く。立てかけられた竹箒を見つけて、境内を掃くことにした。落ち葉はあまりに多く、作業は雪かきのようになってしまった。虫を手で追いながら、石畳の参道から落ち葉を追放する。その後、石段の上も掃き下ろすことにする。汗がぽたぽたと落ち、それをそよそよとした風が撫でて心地よい。箒が一本しかなかったせいか、裕太は手持ち不沙汰にわたしの姿をぼんやりと眺めていた。

一通り掃除が終わると、何か清冽な心持ちになってくる。どんな神が祀られているかとも知らず、わたしは小さく手を合わせた。きっと、何もかもうまくいきますように。それが終わると、裕太の待つ鳥居まで立ち戻って、教授の指示の続きを始めた。カミミヤに比べると古びたところが多く、中には読めないようなところも多くあった。

メモを採り終えると、わたしはもう一度拝礼をして踵を返した。石段に脚を掛けようとしたところで、背後から誰かに、お待ちよ、と声を掛けられる。しわがれた老人の声だった。怖々振り返ると、わたしより頭一つ分も小さい老婆が、本殿の右側の斜面を降りてくるところだった。腰には大きな網篭をぶら下げ、両の手にはスキーで使うような赤い派手なストックが握られていた。

「おはようございます」

老婆は、ほいほい、と返事とも掛け声ともつかぬ声を上げながら、崖といってもよいほどの斜面を器用に降りてくる。すたすたとわたしの立つ石段の際まで無遠慮に近づいてきて、わたしはつい出迎えるようなかたちで境内の中程へと戻った。老婆は、ちょうどわたしを突き飛ばしかねない程の距離までやってきて口を開く。

「あんたあ、何でこんなとこにおるだね」
「ええと。その・・・」
「容疑が晴れたんかね」
「いいえ。まだ、そうではないみたいですけど」

老婆は、わたしが渦中の人物であると心得ているようだった。けれども、木訥な物言いながら、昨晩の村人たちのような敵意は感じなかった。とはいえ、ことさらに言い訳をするのもおかしな話で、わたしは特に語ることもなく黙って老婆の出方を待った。

「あんた、この様子をどう思うだね」
「何か、荒れてますよね」
「昔はこんなんじゃあなかったんだよ」
「村の暮らしが不便で、街へ人が出ちゃったんですか?」

老婆は少し悲しげに首を振る。老婆によれば、牛をやめて耕耘機を入れたことで草刈り場に入らなくなり、プロパンガスが来て薪を採りに林に入らなくなり、林業が儲からなくなって森を整備するのをやめてしまったのだという。

「草地も森も、みんな屋敷の一部やった。それが、便利になればなるほどわしらは麓へ下りることになる。山の社は遠くなってしまったのさ」
「悲しいことですね」

悲しい?と老婆はわたしを一瞥する。

「そうな、確かに悲しいな。けんど、大事なとこはそこじゃねえ」
「どういうことでしょう?」
「オオホンヤなら、自分で考え」
「わたし、その、オオホンヤじゃありません」

わたしは手短に、自分なりにわかっているつもりのことを言う。わたしが『仲間』の誰かに似ているのはただの偶然で、『仲間』とは関係のない人間なのだと説明した。老婆は初め少し驚いた様子であったが、やがて自分の中では腑に落ちたところがあったようで、ふんふんとわたしの話を聞くともなく相槌を打った。

「だから・・・」
「まあ、どっちみち大した違いはないわね」
「え?」
「偶然似とる、血縁で似とる。だからどうだちゅう話だわ。血縁であっても、オオホンヤになるつもりがなきゃ他人だし、偶然でも、お前がオオホンヤになるゆうたら、そうなるわ。だからこれはお前の胸一つのことだわ」
「そんな無茶苦茶な・・・」
「試しに言うてみたらええわ。私がオオホンヤになる、いうてな」

お掃除ありがとさん、と言って老婆は器用にストックを突きながらとんとんと石段を降りてゆく。わたしは何か足元を失ったような心持ちになって、裕太の方を見る。裕太も何だかぽかんとした顔をしていた。

鳥居右側:嘉永三年 寄進 水野重郎 水野■八 水野源右衛門 水野末吉 水野太助
鳥居左側:なし
灯籠右側:明治三十二■ 寄進 水野重■ 水野利八 水野源■ 水野タカ 仲間喜八
鳥居左側:石工 豊国 大橋金蔵
(■ 判読不能)

Ⅴ.闘の章

1.きれいなもの

二人で黙々と山を下りる。汗はすっかり冷えてしまって、暗い森の中では寒さすら感じるほどだった。森を出ると、赤いストックの老婆はとっくに居なくなっている。これで二つ。区長の言葉に従うなら、第一の調査は終了だ。けれども教授は三つであると言っていた。たとえ教授が正しくとも、あの区長の様子からすると、三つ目を見つけるのは困難なことかと思われた。田圃と森の間に立ちすくんで、わたしは何も考えられずにぽかんと突っ立っているばかりであった。

「おい、美穂」

うん、と眼を細めて逆光になっている裕太の顔を見上げる。

「一つがカミミヤで、一つがシモミヤだろ? もう一つあるんなら、その真ん中あたりにあるんじゃないか?」
「あるのかな?」
「あの区長の雰囲気からすると、何かは、ありそうじゃないか?」
「・・・真ん中あたりっていうと、集落のあるあたりだね?」
「行ってみよう」

わたしたちは、集落に入って狭い路地をあっちへこっちへと行き来する。何度も同じ路地を迷い、シャッターの閉まったかつては商店街だったような場所を抜け、ぐるぐると彷徨った。けれども、神社はおろか、お地蔵様の一つも見つからなかった。わたしはぐったりと疲れてしまって、バスの来ないバス停のベンチで座り込む。裕太は腰掛ける気がないものと見えて、わたしを見下ろして立木にもたれて腕組みをした。

「なあ美穂」
「うん」
「もうさ、いいんじゃないか?」
「何が」
「お前がやったんだろ? 乱暴されそうになって」
「・・・なにそれ」
「調べたんだ。暴行されそうになって殺しても過剰防衛にはならないんだよ。美穂が咎められることはない。僕もどうとも思わないよ。仕方ないことだったんだ」
「どうとも思わない、ってどういうこと」

わたしは、猛烈に腹が立ってきて裕太を睨みつける。一度だって、わたしは裕太に嘘をついたことなんてない。そんなふうに言われるのは心外だったし、ひどく情けない心持ちにもなってくる。

「俺・・・美穂のこと好きなんだ。ずっと前から。だから、俺の側に居ればいい」

びくり、と自分の肩口が震えるのがわかる。裕太が自分のことを「俺」などと言うのを見るのは初めてだった。

「美穂、あんな目に遭えば、当たり前だ。誰もお前を責めたりしない。抵抗したってことは、お前がきれいな人間だってことなんだよ。だから・・・」
「わたし、きれいなんかじゃない」

喉の奥に石が入っているようで、普通にしゃべれない。一度、自分でもびっくりするような大声が出てしまうと、糸で手繰るように言葉が続いてきて、わたしは常にない調子でまくしたてた。

「わたし、怖かった。殴られたんだよ。頭がチカチカして真っ白だった。わたし、殺されないで済むなら何でもしようって思ったよ。握れと言われたから握った。口を開けと言われたら開いただろうし、脚を開けと言われたら脚を開いたよ。わたしはそういう、」

最後まで言葉が出なかった。がしーん、とすごい衝撃が来て、わたしはベンチからひっくり返って芝生の上に横倒しになる。たぶん、殴られたのだ。当たり前だ。わたしは、昨晩殴られてもおかしくなかったのだ。なのに酷く悔しかった。痛くて悔しくて、涙がぼろぼろこぼれる。裕太はわたしに乗りかかり、ブラウスに手を掛けた。いいよ。もっと殴ってくれていい。何なら脚を開こうか。裕太はまだわたしに執着してくれている。ならばわたしは、頬でも何でも差し出そう。

結局、わたしの思い通りにはならなかった。何やってんだ、と男たちが現れてわたしたちを引き離す。わたしは、熱く腫れぼったい左の頬を押さえながら介助を受けて立ち上がった。村の男たちは、自然、わたしの前後に立って裕太を睨みつける。その内の一人が、剣幕も鋭く裕太に詰め寄ろうとするところを、わたしは腕をとって止めた。

「あの、いいんです」
「いや、ほうでもな・・・」
「・・・ちょっと喧嘩しちゃっただけなんです。本当、大丈夫ですから」
「けどもやさ、オオホンヤに手を上げるなんて、一昔前じゃ考えられんぞ」

ほうだほうだ、と周囲の男たちも頷いた。

「本当、お騒がせして・・・ごめんなさい」

そういうことなら、と男たちの肩の力が抜けた。裕太は踵を返して広場を去る。わたしには、呼び止める言葉もなかった。こちらを見もせずに石段を降りてゆく姿を見届ける。もう涙は止まっていた。じんじんと頬が心臓のように脈を打っていた。

2.ナカミヤ

よく見ると、広場にはぐるりと水路があり、ちょっと手を洗ったり果物を冷やしたりするスペースがそこかしこに設けられていた。バス停からほど近い水路で、誰かが腰にしていたタオルを冷やして手渡してくれる。ありがとうございます、と受け取って左の頬に当てた。少し口唇の端を切ったようで、そこに冷たいタオルを当てると心地よい痺れが訪れる。
諍いの連鎖を止めるのに精一杯で、ついつい「オオホンヤ」を否定する機会を失ってしまった。周囲の親切がそこから来るものだとしたら、と思うとひどく申し訳ない気持ちになってくる。また後で説明しよう。今は、人々の親切にすがりたかった。

「あの・・・どなたか、ちょっと教えていただきたいんですけど」
「なんだん?」
「このあたりに、神社ってありませんか? カミミヤとシモミヤ以外で」

人々は顔を見合わせた。ぼそぼそ、とこちらに聞こえるや聞こえざるやと言った声で耳打ちをし合う。お嬢様が、とか、東京、といった単語が漏れ聞こえてきた。やがて、返事をしてくれた初老ながらがっちりとした男性が口を開く。

「ここが、そうだよ」
「え?」
「ここにあったんよ。オオヤシキと、ナカミヤと、サンシが。この広場は、全部オオホンヤの敷地だったの」
「ここが・・・」

改めて周囲を見渡す。五十メートル四方ほどの空間には、バスのための小さな工場のような建物と、反対側にブランコや滑り台がいくつか、それとこの屋根つきの停留所があるきりだった。水路の水はさらさらと流れ、小さな赤い蟹がつがいで涼を採っているのが見える。敷き詰められたアスファルトには、もう昼近くなった陽光が照りつけてゆらゆらと空気を揺らしていた。

それで、とわたしは食い下がる。

「あの、わたし、そのナカミヤの鳥居とかに書いてあった字が知りたいんです」
「字?」
「あれだら? いつ作っただとか、誰が寄付しただとか」
「ああそれか。ほだったら、ムナフダとかに書いてないかん?」
「あかんあかん。全部燃えたわ」

村人が口々に情報を発する。どうも火事にでもなったのか、取り壊しの際に燃やしたかしてしまったようで、わたしの見たいものはここにはない様子であった。わたしが眼を伏せていたのがそんなにがっかりしたように見えたのか、村人たちは少し黙ってから、またわあわあと口を開いた。

「ほうでも、だいたいはわかるだら?」
「できたのはいつだん? オオホンヤが村に来た時よりは後だで」
「カコチョウがあるら。寺に」
「ほだほだ。ほんで寄付は・・・」
「まずオオホンヤだろ? ほいでミズヤ、キヤ・・・」
「ハシゲンんとこは?」
「あらいかんわ。昔はそんな金持っとらなんだ」
「嫁がようけ持っとるら」
「そういう場合て、寄付するんけ?」
「ほらあ、するわよ」
「あと何だっけ? 何か外国人のさ」
「おお書いてあったなあ。誰やっけ」
「読めなんだでなあ」

あはは、と何だか座が朗らかになってくる。まったく会話の内容はわからなかったのだけれども、わたしも釣られて笑う。少し首を傾げて、男たちの会話に切りがつくのを待つ。やがて一人の男がふとこちらを見て、眼を細める。

「ほうして座っとると、やっぱ似とるなあ」
「早穂ちゃ、元気にしとるかん?」

あの、と申し訳ない気持ちで事情を切り出す。母親の名も早穂などという名ではまったくなかったし、誰かに似ているのはたぶん偶然だ、と告げた。男たちはずいぶんがっかりするかと思いきや、ほおー、と何やら感慨深げにしている。

「ほんなことがあるもんだなあ」
「ほいでも、こんな似とるお嬢さんが、たまたま村に来るて」
「ほだ。何かの導きやなあ」
「わしら、あんたの顔見とるとなあ、ええ気持ちになるわ。いつでもおいでんな?」
「ほだほだ。うちに泊まったらええから」
「泊まるんならハシゲンとこでええだら。ハシゲンも金とったりはせんやろ」

何だろう。いつの間にか蚊帳の外に出されて、男たちの漫才大会が始まってしまう。区長さんもこの人々の一角を占めている人物のようだった。けれども、区長さんはいったい何をびくびくしていたのだろう。ここのひとはみんな朗らかで、ここがナカミヤの跡だよ、と屈託なく教えてくれた。特に隠す謂われがあるようには思われなかった。

ナカミヤ:年代不明
寄進者:オオホンヤ ミズヤ キヤ ハシゲン 他一名 他外国人一名
石工等:不明

3.祖霊たちの家

教授が何を知りたいのかよくわからないので、わたしは男たちが勧めるままに、集落からカミミヤとは逆方向へ坂を上ったところにある寺を目指すことにした。別れ際の挨拶がてら、わたしは先ほどから疑問に思っていることを訊ねる。

「あの・・・皆さんは、わたしが殺人犯だって思ってらっしゃらないんですか?」
「ほらあ、思わんわ」
「どうして?」
「見りゃあわかるわ。ほんな、『呪い』が憑いとるようにも見えんし」
「『呪い』?」

こら、と口を滑らせた男が他の男から小突かれる。男は何かに気づいたと見えて、眼を白黒させて押し黙る。

「『呪い』って何ですか?」
「・・・あー、街の娘さんには関係ない話だわ。ごめんな、気にせんどくれ」
「でも、その、何のことかくらい・・・」
「こりゃあ、村の中のことだで」

敵意があるわけではない。けれども、突然シャッターが降りてしまったような感じだった。もう何も教えてもらえなさそうな気配に、わたしも気圧されて黙り込む。気ぃつけていきん、と温かな言葉をもらいながらも、わたしは後味悪く、広場を後にした。

寺は思いの外新しいつくりで、インターホンも最新のものがついていた。そっと押すと、庫裏の奥で電子音の音楽が軽快に流れるのが聞こえて来る。はいはいはい、と元気のよい声が近づいてきて、玄関の扉ががらがらと開く。恰幅のよい四十歳ほどのおばさんが現れて、にっこりと笑う。

「こんにちは。あの、わたし小川と言いますけど、ご住職さんはいらっしゃいますか?」

ほいおりますでよ、とおばさんは割烹着をはたはたとはためかせてわたしを奥へと誘う。障子を開け放った、立派なソファーのある部屋へと通されて、待つように言われた。ソファーに掛けずに、脇に置かれた書架の中身を眺める。仏教の教えに関する書籍が主のようだった。程なく、これまた恰幅のよい作務衣姿の頭を丸めた僧侶が現れる。はいはいこんにちは、とおばさんと同じような口調であった。

「こりゃあ、本当にオオホンヤの生まれ変わりのようだなあ」
「あ、いや、あの・・・」
「聞いとる聞いとる。『仲間』の衆が電話くれたわ。それにしてもよう似とる」
「はい、はあ・・・」

それで何のご用ですかいな、と僧侶はわたしにソファーを勧めつつ、自らもどっこいしょと腰掛ける。引っこ抜くのが難しいハンプティダンプティのように見えて微笑ましい。ええと、と思い返す。期せずして、複数の用向きが重なっていた。

「まず、なんですけど、ナカミヤのですね、」
「ああ鳥居ね。それも聞いた。誰やったかいな?」
「オオホンヤさんと、ミズヤさんと、キヤさんと、ハシゲンさんです。でも後二人誰だかわからなくって。一人は外国の方だそうです」
「オオホンヤさんはあれだら。『仲間喜八』だよ。あそこは代々襲名やから」

やったから、やな、と住職は少し言い直して言葉を続ける。

「ミズヤは、水野さんとこのホンヤやわ。えっと・・・あの神社いつ頃やったかな? 鳥居は結構遅くに作り直しとる。昭和の・・・三十年頃やな。ほやから、水野邦生さん。このひとは、校長先生やっとったわ。キヤは上杉やな。ホンヤは亮三さんとこやけど、神主が他所の神社に寄付はせんでな。シンヤの正雄くんとこや。ハシゲンはほれ、旅館の」
「区長さん?」
「ほだほだ。ありゃまだ若かったで、寄付の名義は親父さんやな。利助さん」
「灯籠はもっと古かったんですか?」
「古かった。というても、『仲間』のイットウは結構新しいでな。文久やなかったか?」

こっちに来んさい、と言われてソファーを立つ。住職は器用に膝の重さを使ってよいしょと立ち上がり、アリスの国で起きたようなことにはならなかった。大ぶり小ぶりの太鼓が並べられた廊下を通って本堂に移動する。壁には一面に、細長い家のような置物が並んでいた。住職はどこからか脚立を持ってきて立てかけ、よいしょよいしょと登り始める。大柄な体格の割に華奢なつくりの脚立で、わたしは慌ててそれに飛びつき倒れないように支えた。

これだこれだ、と言って住職は一番上にあるひときわ大きな家を採り上げて、よいしょよいしょと脚立を降りる。その場にどっかりとあぐらを書いて、置物の屋根部分をぐいと引っ張る。中からは細長い木札が数枚、ばらばらばら、と出てきた。住職はそれを並べて見比べ、ああこれだ、と指さした。

「ほらこれ。文久元年。こん年に、『仲間』の初代が亡くなっとる。灯籠もその頃やったやないかな」

わたしは、木札に書かれた全く読めない崩し字を眺めながら、言われるがままに頷いた。灯籠にどんな名前があったかまでは、住職はきっと覚えていないだろう。そんな感触であった。

鳥居
年 代:昭和三十年頃
寄進者:仲間喜八 水野邦生 上杉正雄 仲間利助 他一名 他外国人一名
灯籠等:文久年間前後 寄進者は不明

4.ノリ

置物を片付けた後、わたしたちはソファーのある部屋へと戻る。おばさんが冷たいお茶を出してくれた。わたしは、教授からのメールを開いて内容を確認し、口を開く。

「こうこくちし?かな? 皇国地誌の写しはありますか?」
「こうこくちし? どんな字を書くだん?」

こんなです、とメールの文面を見せる。下に書かれたちょっとしたメモを読んで、住職は、ああ、と膝を打つ。

「郡村誌か。あるよ、あるある」

ちょっと待っとりん、と住職は再び立ち上がり、今度は襖を開いて奥の部屋へと入っていった。やがて小脇に抱えるほどの紋つきの手文庫を携えて戻り、ガラステーブルの上でそっと蓋を開く。中にはぎっしりと、和紙で作られた文書類が詰め込まれていた。二の腕が痒くなってくるような、古びたものの匂いが鼻をついた。

こちらもまた達筆でまったく読めない。住職の方が慣れたものと見えて、教授の求めた情報の部分を解読してくれた。これでよし。これらの調べごとがどうしてわたしの潔白を示すことにつながるのかは、裕太の言うとおり、さっぱりわからない。けれども、教授がやってこいというのだから、きっと何か重要な情報なのだろう。大股でゆらゆらと揺れながら歩く教授。いつも皮肉っぽく笑う教授。優しくてほっそりとしていた父とは似ても似つかない。けれども、わたしの中で教授への慕情は日に日に深くなっていた。

供されたお茶をいただきながら、住職が文書箱を片付けてくるのを待つ。これでええかな、と住職も満足げな表情だった。わたしは、村の宗教に携わる人物と見込んで、彼にどうしても聞いておきたいことがあった。

「和尚さん、仏教には『呪い』ってありますか?」
「『呪い』は、仏教にはないなあ。ありゃ陰陽道とか修験道とかそういう宗教じゃないかね」
「その、オンミョウドウとかって、この村で信仰されているんですか?」
「いんや。・・・あれかね。『仲間』イットウの『呪い』の話をしとるんかね?」
「そう、そうなんです。村の人、誰も教えてくれなくて」
「うーん」

お願いします、と手をついた。住職はますます困った様子でウンウンと唸っていたが、やがて、ええでしょう、と言い、自身もお茶のグラスを手に取った。

「けんども、全部はよう言わん。これは村の『ハジ』になることやから、村のもんから言う訳にはいかん。わしはまあ、正確には村のもんやないでな。でも、ちょっとだけや」
「はい」
「『呪』と書いてノロイ、『祝』と書いてノリ、おんなじもんや。この村には、祝福があった。そしてそれはあるときから、大きなしっぺ返しに変わったんや。それが呪い」
「超常現象・・・なんですか」
「そのとおり。『仲間』の一族にはそれがあった。それが村を栄えさせた。そして、悲劇が襲った。最初は小さくじわじわと、最後には大きな炎になった」
「それは、どんな超常現象だったんですか?」

住職は人差し指を立てて口元へ寄せる。それについては語れない、という手振りであった。わたしは、頭を巡らせて与えられた情報を租借しようとするが、さっぱり訳がわからなかった。少し済まなさそうな顔で住職が小さく小さく口を開く。

「それは・・・今もある。あんたはたぶん、見た筈だ」
「え?」
「頭のええ教授ならきっとわかる。これでもしゃべり過ぎたくらいやわ」

住職はどこからか手拭いを取り出して額の汗をぬぐう。何時間もしゃべったようにぐったりと疲れてしまっておられる様子だった。おばさんが出てきて、あれあれ、と言い、ふうふう言っている住職を器用に立たせる。ありがとうございました、と言うと、住職は背中越しに左手をひらひらと振ってくれた。それが、もう帰りなさいという合図だった。

坂道を下って集落を抜ける。どの小道も、中央の広場へとつながっていると見えて、わたしは涼しい風が抜けるバス停の元にしばし佇んだ。ここはもちろん、わたしの祖先が暮らしていた場所などではない。けれども、この広場の寂寥感はひどく胸を締めつける。生け垣に囲まれた大屋敷。生け垣の南側には参道があり、その奥の一段高いところに、舞台と本殿とがある。オオヤシキから石段の方へ向かって少し下ると、そこには熱い湯気の出るコウバがあり、女工たちが藍染めのもんぺ姿で汗を拭きながら機械を操作している。工場と屋敷の間の小道を、三人の少女たちが笑いながらブランコの方へと走ってゆく。

ぐう、と腹の鳴る音で、わたしは白昼夢から目覚める。今日は結局昼食を採らず仕舞いだったのだ。わたしは、宿題を終えたときのような清々しい気分で、宿への帰路に就いた。

戸数:四十八戸 社三戸 寺一戸 人数:男百二十三人 女九十七人
地味:村内南側に巨岩あり陸路を絶つ 川湊あり水運業を主とす 湧泉あり湯治場として外客多し
社:上宮神社 村の東北ヒカゲ山中にあり 最新天照大神命 創立不詳
中宮神社 村社 村の中央湧水池下にあり 祭神多岐理姫命 創立文久元年
下宮神社 村の東南兜岩にあり 祭神宇迦之御魂神 創立不詳
物産:鮎一万 栗三石 楮百斤 蚕糸五十斤
民業:男 商業五名 工業二名 その他は農業 女 商業二十名 工業十二名 その他は男子の業に従う

5.入れ替わり

そういえば。まだ課題は残っていた。小橋を渡って旅館に戻ると、玄関の脇に裕太が手持ち無沙汰そうにもたれている。わたしは、ひとつ大きく息を吸い込んで吐いた。どうかどうかわたしの顔が、普通の笑顔になっていますように。どこかの神様に念じてから、努めて明るく声を掛ける。

「裕太」
「あ、美穂・・・おかえり」
「ただいま」
「あの、さ、さっきは・・・ごめん」
「いいよ。全然怒ってないから」
「そんなわけ・・・」
「怒って殴り返したら、裕太は楽になれちゃうでしょ? だから怒ってあげないの」
「え・・・?」

そんな気持ちもなくはなかった。けれども、わたしは殴られて当然の人間だというだけなのだ。誘われれば夕食をご馳走になりに行き、押し倒されれば脚を開くような女。わたしにとって嬉しいことも、わたしにとって辛いことも、全部受け入れてきただけだ。裕太はわたしに愛を告げた。ちょっと状況が状況だっただけに素直に喜べないところはあるけれども、それでも、身震いするほど嬉しかった。でも今はだめだ。流されずに、自分で選び取る人間にならなくては。
行こう、とすれ違い様に裕太の背中をぽんと叩き、暖簾を潜る。おかえりなさーい、と友情とも接客とも判じ難い亜由実の明るい声が響いた。

まずは夕食に専念しなければ。微妙な表情を浮かべている裕太を正面にしても、それは特段辛い作業ではなかった。何しろ酷い空腹なのだ。補給路の途絶えた旅館は、どうにか地元の作物を駆使して料理を供してくれる。それが却って野趣の妙があって心地よい。もちろん、へぼも出てきた。ぱくぱくと口に入れ、何種類かの雑穀と一緒に炊き込んだご飯も掻き込んだ。

「美穂」
「んー?」
「何か・・・すんごい食いっぷりだな」
「裕太はお昼食べたの?」
「まあ、一応ちょっとだけ」
「わたしね、食べ損ねたの。だからお腹減っちゃって」
「そ、そうなんだ」
「へぼ、要らないなら食べたげる」

いろいろ試してみよう。自分は精々こんな人間だと思い込んでいた。でももしかしたら違うかもしれない。半ばあきれ顔の裕太を尻目に、わたしは亜由実のような元気者のふうを装って二食分の栄養を取り込んだ。

「裕太、スマートフォン貸して」

とっぷりと日の暮れた戸外を眺めながら、腹の内がこなれるの待ってしばらくして、わたしは裕太に声を掛けた。

「ん、何でだ?」
「先生の顔見て話したいから。わたしのじゃ、声しか聞けないから」
「ああなるほど」

裕太がするするとスマートフォンを操作する。戻ったらわたしもスマートフォンを買おう、と思った。幾度かの呼び出しサインが繰り返された後、教授が現れる。

「先生、こんばんは」
「ああ」

ぶっきらぼうだが、眼は細められている。皮肉に曲げられた口唇。偉そうに肘掛けにもたれて、ほそくごつごつした指を体の前で組んでいた。わたしは、見聞きしてきたことをなるべく詳しく語る。教授は、時折首を縦に振ってわたしの話を促した。居眠りとも相槌ともつかないような仕草だった。

「先生?」
「ああ、うん。そんなところかな?」
「はい。それで、『呪い』のことなんですけど・・・」
「ああ、わかったよ」
「わかったんですか? あれだけで? わたし、さっぱりわからないんですけど」
「まあ、それは仕方がない」
「わたしの頭が悪いからですか」
「そんなことは言ってない。こっちはこっちでいくつか調べたことがあるからね」
「そうなんですか」
「それに、村落を五十も百も見てるからわかるということもある」
「教えてもらえませんか?」
「村落研究を?」
「違います」

教授は鳩が喉を鳴らすようにして笑う。皮肉っぽくない、少年のような笑い。むくれた顔を作ってみたけれども、こんなものを見せられてはだめだ。自然とわたしの頬も綻んでしまう。

「だが住職は間違っている。たぶん村人全員が誤解しているな。『呪い』と『祝福』は別のものだ」
「別のもの・・・」
「どこかで入れ替わったんだな。だから、村人たちには連続した現象として把握されている」
「何が、入れ替わったんですか?」
「鮎だよ。金の鮎だ」

Ⅵ.邂の章

1.盆歌

「金の鮎が入れ替わった?」
「そうとしか考えられないね。渡瀬村には昔から今日に至るまでずっと金の鮎があったという。そこへ君が別の鮎を持ち込んだ。普通に考えれば、これは違う、と言われて突っ返されるべきものだ。しかし上杉亮三はこれを持ち去り、どこかへ隠匿した」
「ということは?」
「金の鮎は二体ある。ひとつは『祝福の鮎』で、もうひとつが『呪いの鮎』なんだ」
「わたしが持ち込んだものが『呪いの鮎』なんですか?」

さてね、と教授ははぐらかす。そうとしか考えられなかった。あれが現れてから、わたしの周囲はおかしくなってしまったのだ。あの禍々しい輝きを思い起こす度身震いがする。村に閉じ込められた境遇といえども、あれが手元にないのは幾分かの救いだった。

「あの、先生」
「うん?」
「先生は、どんなことを調べられたんですか?」
「まずは公文書館だ。ここでは『地籍図』と『地籍帳』が見られる」
「それは何ですか?」
「明治四年から、日本中を測量して地図を作るプロジェクトがあった。その成果だよ」

これだ、と教授は大きな紙に印刷された地図らしきものを画面に突きつける。教授の手もしっかり固定してくれないし、ピント合わせもそう早くないものだから、よくは見えなかった。ただ何となく、輪郭が渡瀬村のようであることはわかった。

「よく・・・見えないです」
「そうか、まあいい。一つ目。明治七年当時、上杉一族はその場所に住んでいた訳ではなかった」
「そうなんですか?」
「皇国地誌にも書いてあっただろう? 神社はヒカゲにあると書いてある。北斜面になければおかしいんだよ。だが現在は?」
「南斜面ですね」
「そのとおり。移住しているんだよ」
「どこからですか?」
「嶺を挟んだ反対側だ。そこも渡瀬村には違いないんだよ。ホラ違いというやつだ」

今度はわたしが相槌を打ちながら講義を拝聴する。大切なことを言っているのはわかるが、わたし自身の潔白を証す何かがそこに含まれているとは思えなかった。正直、わたしが昼間に調べた事々も、どこがどう今回のことにつながっているのかはさっぱりわからなかったのだ。

「もう一つ。渡瀬村の戸数は、今よりもずっと少なかった」
「少なかったんですか?」
「そのとおり。つまり『地籍帳』が作られて以降に、大量の人間が流入している」
「上杉の一族ですか?」
「上杉の移住は村内移住だから人口は変化しない」
「じゃあ誰が・・・」
「それが明日からの宿題だ。誰が、何のために、集落に移住したかを調べるんだ」
「どうやって?」
「まずは名簿を探すんだ。電話帳でもいい。どんな名字の人間が何人居るかを調べよう。次に、仲間、上杉、水野以外の、なるべくお年寄りで、元気なひとを探すんだ。女性の方が望ましい」
「それで、なぜ移住したか訊ねるんですね?」
「そんなことはしなくていい。訊いたところで綺麗事しか返ってこないよ。ここの暮らしはどうですか、みたいな感じで、もやっと質問しなさい。なるべく、先方がべらべらとしゃべってくれるのが望ましい。お茶とお菓子は準備していくように」
「お茶とお菓子ですか?」
「君が時間を割いてもらうんだから当然だろう? それに、顎を動かさせれば脳に刺戟が行って昔のことを思い出す効果もある」

わかりました、と応えて教授の言葉を待つ。教授は地図を置き、今度は半紙ほどの紙を見せてくれる。

「何ですかこれ?」
「そちらにある紙で、メモをとってくれ。なるべく丁寧な字でお願いしたい」

わかりました、と応えて部屋づけの冷蔵庫の上に置かれた便箋をとる。

宮の祢宜さん お槍が上手
一突き突いて 雨止んだ
二突き突いて 川流れ 川流れ

何ですかこれ、と写し終えて訊ねる。

「盆踊りの歌だな。渡瀬村にあったらしい。A大学が出版している『民族探訪』に収録されていた」
「これを、どう調べるんですか」
「君は調べなくていい。刑事にそれを見せて伝えるんだ。槍とか、槍の免状の類を探してくれ、とね」
「わたし、あの、あんまり印象よくないみたいなんですが」
「だから信用できる。普通の刑事なら、上司からの横槍で逮捕取り消しにでもなったら腰が引けてしまうさ。君も感謝しなさい」

言われてみれば確かにそうだ。僕のことをよろしく、などとおべんちゃらを言って解放する手もあっただろうに、露骨に嫌な顔をしていた。わたしは、写し取った便箋を丁寧に畳み、備えつけの封筒に入れて机の上に置いた。

2.空白の記憶

これで終わりかな、というような雰囲気が漂い、わたしは小さな画面の奥を眺める。しかし教授は口を開かない。さようなら、とも言わなかったし、次に、とも切り出さなかった。肘掛けについた右手を口元に当て、黙ってこちらを見ている。笑ってはいなかった。厳しい表情だった。

「あの、先生」
「うん?」
「他にも調べられたことがあるんですか?」
「ある」
「教えて下さい」

教授は応えない。手元にあるコピー用紙のようなものをばらばらばら、と親指で捌きながら、何か考え事をしているようだった。やがて教授はひとつため息をつき、その内の一枚を採り上げて両手でこちらに示す。新聞記事をコピーしたもののようだった。大きな見出しにようようピントが合ってくる。

【一家惨殺、X郡Z町渡瀬地区】

細かい記事内容は判読できなかった。何度も見出しを読み返す。渡瀬地区。一家惨殺。白昼夢が蘇る。三人の少女。ブランコと滑り台が残された広場。ゆらめく陽炎。

「先生・・・」
「かいつまんで言うとこうだ。平成五年、仲間喜八は、妻タエおよび娘二人を殺害。次いで、近隣住家に押し入り男性を殺害しようとするも、失敗して逃亡。二ヶ月後、今度は屋敷・神社・工場が全焼し、中からは仲間喜八の焼死体が発見された。子は三人あったが、東京に下宿していた三女は行方不明」

声が出なかった。瞼までが、誰かにこじ開けられでもしているように動かない。惨劇も衝撃的だったが、わたしを金縛りにしているのはそれだけではなかった。白昼夢。三人の少女。わたしは、この事件について何か知っていたのだろうか?

「僕も、君に告げるべきかは迷ったんだ。だが、これ以上の調査をする上で、あんまり無知でも困ると判断した訳だ」
「先生・・・」
「うん?」
「わたしは、『仲間』の人間なんですか?」
「君が? なぜそう思う?」

何と言ったらいいのだろうか。夢に出てきたんです、と告げるのか。教授は押し黙るわたしをしばらくじっと見ていたが、やがてふと眼をそらして口を開く。

「おい裕太」
「うん」
「小川くんの後見人には伯父貴がなったんだったか?」
「そう、聞いてるけど」
「僕から伯父貴に電話すると伝えてくれ。ちょっと調べたいことがある」
「いいけど・・・」
「だいじょうぶだ。喧嘩をしたりはしない」
「わかった」

教授は、今一度画面の方へと視線を移して言葉を継ぐ。

「小川くん」
「は、はい」
「忘れるな。君が誰の子であっても、誰の子でなくとも、関係ない。世界は生者のためにある。君が解くべき謎は、誰が誰を殺したかとか、そんな些末なことではない」
「じゃあ何を・・・」
「君の道を探すんだ。君が生きるべき道を」

そんな、と反駁しかけるが、言葉が続かない。こんな訳のわからない状況の中で、そんな前向きな考えは持てなかった。

教授は、ばさばさと眼の前の資料を束ねている。どうやら店仕舞いの流れに入ったようだった。わたしが不安そうな面持ちを向けていると、やがて教授はそれに気づいたのか、ぐい、と向こう側にあるカメラを覗き込んでくる。

「約束どおり、明日の夜にはそちらへ着くよ」
「先生、あの・・・」
「うん?」
「橋が壊れてしまって」
「知ってるよ。大丈夫だ。方法はわかっている。小川さんのおかげだよ」
「ええ?」
「閉じたからこそ開く扉もあるということだ。心配ない。必ず行くよ」

じゃあおやすみ、との声が耳朶を打つ。暗くなった裕太のスマートフォンには、童話のように、教授の皮肉に曲げられた口唇だけがいつまでも残っているように感じられた。残響と残像とが、わたしの奥の方を鈴々と打ち振るわせ、さっきまで部屋中を覆っていた黒い空気が、すっと窓の外へ引いたように感じられた。

3.弱きものよ

さてと、と声を出してみる。思った以上に快活な声が出た。わたしはそれにますます勇気づけられ、言葉をつなぐ。

「じゃあ、また明日ね?」
「えっ?」
「えっ、て何?」

今夜も亜由実を頼ろうと思っていたわたしに、裕太が驚いたような声を上げる。上気した頬。少し潤んだように見えるまなざし。そうか。裕太はまだわたしを求めているのだ。殴られた後のことだ。きっと、とってもとっても優しくしてくれることだろう。けれども。

「裕太」
「うん?」
「裕太はね、わたしの欲しいものを全部くれる。本当だよ。いつも感謝してる」
「う、うん」
「わたしには、何にもない。才能もないしお金もない。だから、裕太の欲しいものがあるなら何でもあげる。そう思ってた」
「・・・今は違う?」
「そう、今は違うの」

ごめんね、と告げてわたしは部屋を後にする。わたしはわたしがわからない。でも裕太なら。お願いだからわかって。そして、追いかけてきて欲しい。その答えが正しかったなら、わたしは今夜にだって全部あげられるのに。けれども、裕太は追いかけては来なかった。

夜風が部屋を抜けて心地よい。家族風呂を使って大いにはしゃいだわたしたちは、その風に身を委ねて惚けていた。やがてわたしは、網戸の外にある下弦の月を眺めながらぼそりと呟く。

「ねえ亜由実」
「うん?」
「昨日さ、言ってたよね。わたしはここで生きていく、って」
「言ったねえ」
「そのこと、教えて欲しい」
「何で?」
「わたしは・・・そういうの、ないから」
「裕太くんは?」
「うーん」

クスクスと亜由実は笑い、ごろごろとベッドの上を転がって俯せになりこちらを見る。わたしは、襟元から覗く日焼けを逃れた白い肌を見て訳もなく胸がときめいた。

「ここはね、男たちの村なの」
「うん?」
「何でも、男が決めるの。村をどうしていくかも、お金をどう使うかも、全部。女はいつも、黙って従うしかない」
「うん」
「それが気に入らない人間は、村を出て行く。わたしの同級生たちも出て行った。だから、ここには、【このままで満足な人間】と【出て行く力のない人間】しか残らない。だからずっと何も変わらない」
「うん」
「だから、残ったの。残らなきゃ、変わらない。こんな村、温泉と鮎だけで持ってるようなものだよ。いつなくなってもおかしくない。でも、男たちは気がつかない」

ねえ、と話を遮る。なあに?と亜由実は荒かった語気をあっという間に沈めてにこにこと屈託なく笑う。わたしも釣られて頬が綻んだ。

「鮎って・・・魚の鮎?」
「そんな訳ないじゃん。この川にはダムがたくさんある。鮎なんか上れる訳がない」
「じゃあ・・・金の鮎?」
「そうだよ。カミミヤにあるの。聞いたことない? 病気が治るんだよ」
「病気が、治る?」
「眉唾だよね。でも本当に治った治ったって言ってお布施を持ってくる人が居るんだから、どうなんだろう? まあとにかく、名物だよ。みんな金の鮎を触りに来て、温泉旅館に泊まって帰る。もうこの村にはそれだけしかないんだ」

思わぬ伏兵に、腹をずぶりと刺されたような気分だった。祝福の鮎は病気が治る鮎で、呪いの鮎は人が死ぬ鮎。二つの鮎が入れ替わる?

「でも、亮三さんはあんなことになっちゃったし、この先お客さんどうなるかな? 上杉の奥さんは街から来たひとで、財産目当てとかいろいろ言われてるから、金の鮎も人手に渡っちゃうかもしれないね」
「何か・・・ごめん」
「美穂のせいじゃないじゃん」

いや、わたしのせいなのだ。わたしがあんなものを村に持ち込みさえしなければ、こんなことにはならなかった。あれはやっぱり、呪いの鮎だったんだ。わたしは口唇を噛んで亜由実の無垢な笑顔の責めに耐えた。

亜由実はつと立ち上がり、照明についた紐をかちかちと引っ張る。小さな温かみのある灯が一つ残されて、部屋の中は薄暗がりになった。わたしたちは、昨夜と同じように、互いの体が女のそれであることを確かめ合う。母と子のように。子と母のように。そして、心地よい暗闇がやってきた。

4.チュニック

額から首筋をつたう汗で眼が覚める。既に日は高く上がり、亜由実の部屋から見える庭からはゆらゆらと空気が揺れているのが見えた。すっかり寝坊してしまったようだ。亜由実の姿は、もちろんない。代わりに、サイドテーブルには昨晩お願いしておいた服が置かれている。下着は、たぶん旅館で売っているのだろう、シンプルなものがパッケージに入った新品のまま置かれていた。襟ぐりの深い空色のチュニックに、びっくりするほど短いショートパンツ。それを言い訳するような、黒のオーバーニー。ちょっとわたしの着るような服ではない気がするけれども、折角貸してくれたのだから贅沢は言えない。

食堂へと出て行くと、すぐに亜由実が声を掛けてくれる。

「あら、かわいいじゃない」
「そうかな? でも、ありがとう」
「こういうのはね、結局美穂みたいなすらっとした子のが合うんだよ。あたしがやると、何か男誘ってるみたいになっちゃうんだよね」
「そんなことないと思うけど・・・」
「あるのよ」

ご飯あっちで食べられるから、とはロビー近くの喫茶コーナーを指さしたきり、亜由実は山ほどの浴衣を詰め込んだかごを持ってどこかへ行ってしまった。クリーニング屋が来てくれないと言っていたっけ。全部洗ってアイロン掛けをするのはきっと大変だろう。わたしも教授に言われたことが済んだら手伝わなくては。ウェイトレスさんが持ってきてくれたトーストを囓りながら、そんなことを思った。

遅い朝食、あるいは早い昼食を終えて部屋へと向かう。けれども部屋には鍵が掛かっていた。インターホンを押してみたが、裕太も寝坊を決め込んでいるとみえて返事がない。仕方なくわたしはロビーに引き返した。区長さんに頼み込んで鍵を開けてもらわなくては。教授から示された盆踊りの便箋が必要だ。そっと入れば裕太の睡眠を妨げることもないだろう。けれども、室内に裕太は居なかった。浴室もトイレも空で、机の上に置いた筈の便箋はなくなっていた。

下駄箱をばたばたと開けてみるが、裕太が使うような若者向けの運動靴は一つもなかった。やはり出かけているようだ。わたしも、亜由実から譲られた天使の靴を履いて外へ出る。五月晴れの空の遙か上から、陽光が川面を照りつけていた。小橋を怖々渡っていると、県道に沿って吉田刑事が煙を吐き散らしながらすたすたと歩いているのが見える。すいません、と大きな声を挙げて呼び止めた。吉田刑事は立ち止まり、鷹揚に手を振ってくれる。昨日までの悪印象はない。きっと教授が魔法をかけてくれたせいだろう。

「おはようございます」
「おはよう」
「あの、裕太に、わたしと同い年の男の子なんですけど、会いませんでしたか?」
「うん? いいや。会ってない」
「そうですか」

わたしは刑事に、昨夜教授に言いつかったことを告げる。

「歌が、あるんです」
「歌?」
「ええと・・・『名称』の『称』に・・・『便宜』の『宜』と書いて・・・」
「ああ、わかった。ちょっと字が違うな。『ネギ』だよ。神主のことだ」
「あ、ごめんなさい、それで、『宮のネギさん お槍が上手』っていう歌です」
「この村の歌?」
「だそうです。それで、調べて欲しいんです。上杉さんのお宅に槍とか、槍の免状とかがあるかどうかって」
「それは、例の人物からの指示?」
「そう、そうなんです。でも先生言ってました。吉田刑事は信頼できるひとだって」

刑事は、ふん、と鼻を鳴らす。

「何か大事なことなんだね?」
「たぶん、そうなんだと思います」
「わかったよ。調べておこう」

ありがとうございます、と告げて刑事と別れる。彼は元々そちらに用があったのか、カミミヤの方へと坂を上っていった。

陽炎の立つ広場に佇む。ブランコも滑り台も古いもので、滑り台の方はところどころ穴が空いていて、もう子どもが遊べるような状態ではなかった。ブランコの方は、定期的に油を差すひとがあるようで、座って脚をぶらぶらさせても軋みひとつなかった。ゆらゆら。ゆうらゆら。だんだん勢いがついてくる。青い空と亜由実の靴しか見えなくなる。このまま空を飛んで帰れたらいいのに。きっとひとっ飛びだ。そんなことを考えていると、陽炎の向こうからゆらゆらと男性がやってくる。昨日裕太との間に割って入ってくれたうちの一人だった。

Ⅶ.流の章

1.女工の詩

「こんにちは」
「ああ、こんにちは。平気?」

男性は自分の頬を指して訊ねる。昨日殴られた箇所を心配してくれているようだった。

「もうすっかり。大丈夫です」
「ならよかったが」

優しげなまなざし。じっと見られても、特に苦痛ではない。彼は、わたしを見ているのではないからだ。亡くなってしまった女性たちの、わたしは幽霊なのだ。なるべくご要望に添えるように、良家のお嬢様らしいようにしたいところだったが、あいにく今日のわたしは街の遊び好きの女の子の風体だった。

「あの・・・おじさんは『仲間』のひとなんですか?」
「うん? 『仲間』ではないよ。ああでもそうなのかな?」

わたしは、彼の揺れる応えに首を傾げる。

「ちょうどこの辺にね、オオホンヤの建てた工場があったの。紡績工場ね。周りの村からようけ女の子が勤めに来てね。で、何人かはお婿さんをとって工場の周りに住むようになった。僕のうちもそんな感じだわ。だから僕の名字は浅谷。だけど、僕らはオオホンヤの家族だと思うとるんだわ」
「そういう家って、何軒くらいあるんですか?」
「どうだらねえ? 五十軒ばか、あるじゃないか?」

小さな小さな、ごちゃっとした台所に通される。北側になったその部屋にはまだ炬燵が出されていて、そこに丸くなった猫のように、老婆が暖をとっていた。先ほど話しかけてくれた男性のお母様だということだった。わたしは旅館で買った饅頭を差し出し、紙コップを並べてペットボトルのお茶を注いだ。

◇◇◇

-ほうだねえ、わしゃ、こっから三つくらい上の村の三人目でねえ。そら貧しいとこだったもんで、財産もないしねえ。ほいで、サンシに来たんよ。サンシはここらじゃ人気のとこでね、面接があったの。六倍とか、八倍とか。
-どんな基準で選ばれたんですか?
-わからんねえ。やめずにがんばれそうかとか、ほんなんじゃないか? ほいで受かると、寮生活すんだわ。桜、百合、菫、椿と組があってねえ、年上の姐さんたと一緒に暮らすの。朝は早うに起きて、朝ご飯の支度とお弁当の支度。ほいで、みんなでいただきます言うて食べた。終わったらみんな弁当持って出社。ほいで、夜まではたらくの。
-戻ったらみんなで夕食の支度を?
-そらあさすがにね、寮母さんが作っといてくれたわ。それを食べたら、今度は授業。先生が来てくれてね、お料理とか、裁縫だとか。九時まで勉強して、ほいで交代で風呂入って、寝る。
-授業料は誰が払うんですか?
-オオホンヤさんが街で探してくれてねえ。住家も月給も、オオホンヤさんがみてくれるわけ。
-定年とかあったんですか?
-定年はないけどねえ、まあ結婚したらやめるね。寿退社ゆうやつだわ。お祭りんなると、近在の若い衆がようけ来てね。出会いがあるわけ。やだわ。ほいで、社長さんに言うの。そうすっとね、結婚費用は全部持ってくれるんだわ。トラック一杯箪笥が乗っててねえ。中身もぎっしり入っとるだよ。この食器棚もほうだわ。
-どうしてみんなここに住むんですか?
-みんなじゃないわ。社長が探してくれたお見合いやったら、やっぱ先様の家に入る。どうしても財産も何もないひとんとこへ嫁ぐとね、社長さんが長屋を貸してくれてね、ほんでお店やんなさいゆうて、お金貸してくれるわけ。うちやったら、駄菓子屋ね。洋裁屋とか、釣具屋とか、いろいろだったわ。
-そうだったんですね。
-お姐さんたもようけ住んどるしねえ。あの頃は、そんなお金もかからん暮らしやったし、それでようよう、やっとっただよ?
-じゃあ、紡績工場ができるまでは、きっと大変だったんですね。
-ほん頃はねえ、『ヤナ』があったらしいわ。
-『ヤナ』?
-若い子は知らんかねえ。川を締め切って、魚をとるんだわ。交代で見張りばんこしてね、ほんで魚がわーっと落ちてくると、ひとが呼びに来てさ。みんなで魚拾って、木箱に氷と一緒に詰めて。ほいで舟で街まで男衆が売りに行くんさ。これがまたようけ儲かったそうだよ?
-女の子が働いたんですか?
-『ヤナ』を作るんは、男手がいるわねえ。見張りは、女の子がやったらしいよ? ほいで、あんたらでいうと彼氏いうのかね、男衆も来てくれて一緒に見張ってねえ。夜なんかは、下はざあざあ、上は星空で、ええ案配やったそうやよ。魚拾いは、これはまあ村中やね。男も女も。ほいでようけ給金が出たそうやわ。
-『ヤナ』はどうしてやめちゃったんですか?
-ダムができたら。あれで鮎や鰻が上がって来んくなっちゃったもんで。補償金は出たらしいけどねえ。男んたが、漁協とかゆうて組合作って。そこへちっとばかはお金が入ったらしいんやけど、飲んだり食ったりしていつの間にかのうなっちゃって。ほんでオオホンヤさんが見かねて、サンシを作らはったゆう話だわ。

◇◇◇

気がつくと、もうお日さまは嶺の高いところに掛かり始めていた。わたしは老婆にお礼を言って、小さな長屋を後にする。またいつでもおいでん、と老婆は玄関まで見送ってくれた。彼女もきっと幽霊を見ているのだろう。

2.サイレン

携帯電話を開いて取り急ぎ教授に電話を掛ける。教授はすぐに出た。がし、がし、とリズミカルな音が響いている。砂利道のようなところを歩いているようだった。

「ああ、小川くんか」
「はい」
「どうした?」
「あの、おばあちゃんに話が聞けました」

何が重要な情報なのかもわからないまま、わたしは急ぎ内容を報告する。教授にとってはさしたる驚きもなかった様子であったが、話し終えると、ありがとう、いい話だったよ、と誉めてくれた。

「いい話でしたか」
「いい話だ。君には研究者の素質があるな」
「そんな全然。役に立つんですか?」
「とても、重要な情報だ」
「そうですか。よかった」

沈黙が訪れる。がし、がし、がし。やがて教授が口を開く。

「小川くん」
「は、はい」
「よく聞きなさい。今夜はいろいろなことがある。君は、信頼するひとを失ったような気持ちになるかもしれない。だけど、心持ちをしっかり持たなくてはいけないよ」
「どういうことでしょうか」
「世界は生者のためにあるものだ。死者の名誉も鎮魂も、生きるものたちが生きるための手段でしかない。そして、君は君の生を勝ち取るのだ」

がし、がし、がし。

「何を言ってるかわからないかもしれないが、僕の言葉は覚えておいて欲しい」
「わかりました」
「じゃあ、また後で」
「あ、あの先生」
「うん?」
「裕太から、何か連絡ありませんでしたか?」
「裕太? いや、特に連絡は受けていないな」

わたしは、寝坊してしまったことを詫びながら、裕太と便箋が消えたことを教授に告げた。教授は、がし、がし、と歩みを続けながら、うーん、と唸った。

「君は、あの歌の意味がわかったか?」
「え、あの、槍の名人なんですよね?」
「・・・たぶん、裕太にはわかったんだな」
「・・・違うんですか?」
「裕太は、カミミヤ周辺のどこかに居る。もしかしたら、面白くないことになっているかもしれない」
「面白くないこと?」
「あいつには、研究者の素質がなかったということだ」

雨が止む。川流れ。確かそんな歌だったような覚えがある。意味? 何か含みのある歌なのだろうか。教授の足音を聞きながら、わたしの頭はぐるぐる回っていた。

「すぐに、吉田刑事と合流しなさい。もう時間がない。サイレンが鳴るまでに裕太を見つけて、宿へ戻るんだ」
「時間がない?」
「そうだ」

気をつけなさい、と告げられ、電話が切れた。面白くないこと。鼻腔を鉄の匂いがよぎる。まさか。背筋を汗がつたう。急いで集落を抜け、砂利道を上がる。吉田刑事は、まだカミミヤを探索しているだろうか。長い石段を上がる。息が切れ、眼が眩む。ペースも考えずに上ったせいで、わたしは鳥居の前で手を突き倒れてしまった。何てひ弱なんだろう。肩で息をしながら、日頃の運動不足を呪った。

黄色いテープを潜って、あまり近づきたくない本殿脇の建物の扉を開く。しん、として人の気配はない。すいませーん、と声を掛けるが、やはり返事はなかった。そっと靴を脱ぎ、軋む廊下をつたい歩く。面白くないこと。どうかそんなことになっていませんように。手前から順に、そっと扉を開いて奥へと進む。台所。客間。書斎。納戸。居間。誰も居なかった。わたしは、はあはあ、ともう一度息を整える。後は、くねくねとした長い廊下の先にあるあの部屋だけだ。

がらり、と戸を引く。真っ暗な室内に、廊下の窓から来る薄明かりが差して、囲炉裏の脇ある黒々とした染みを照らし出す。むせるような鉄の匂い。ここにはない老人の遺体が脳裏をよぎる。かっと見開いた怒りの眼差し。情けだ。情けだ。わたしは、裕太の姿がなかったことに安堵したせいもあって、くらくらとへたり込んでしまった。

暗闇の中、白い光が明滅する。これは、わたしの酸欠のせいだ。息を整えようとするが、空気に鉄の匂いが充満していてうまくいかない。やがて玄関の方から、数人の男たちの声が響いてきた。敵意に満ちた声。わたしは、その中に聞き覚えのある声を見出す。わたしの髪を押さえつけて組み敷いた声。がらり、と玄関の開く音がし、女の靴だ、とその声が甲高く響いた。

3.囮

牢獄を出て一両日の間、こんな敵意に出会うことはなかった。けれども、それは確かにこの村に在ったのだ。おそらく、接点のなかった上杉の一族なのだろう。次々と扉を開けて家捜しする様子に、わたしはすっかり脚がすくんでしまっていた。茶室の戸を閉めることもできずに、尻餅のまま後ずさる。と、そこへ背後から、ほとほと、と小窓を叩く音が聞こえてきた。

「・・・美穂、・・・美穂」
「裕太? 裕太なの?」
「開けて出ておいで。今ならみんな建物の中だから」
「こんな、こんなとこから出られやしないわ」
「美穂ならきっとだいじょうぶ」

からくり細工のような閂を抜いて、窓を開く。開けたところには大きく平らな石が置いてあって、這って出るには丁度手を置くのに都合がよかった。わたしは、身姿も何も構わず、芋虫のようになって外へ這い出る。靴下姿のわたしを、裕太はぐいと引き上げて背負い、石段とは反対の方へと走り出した。

「裕太、こっちじゃないわ」
「こっちに車が通れる道があるんだ。石段では負ぶって走れない」

居ないぞ、といったような大声を尻目に、裕太が走る。びゅうびゅうとわたしの頬を風が撫でる。程なくわたしたちは、アスファルトの敷かれた車道へと出た。T字路になったところまで来ると、裕太はわたしをそっと下ろしてはあはあと息をつく。あたりはすっかりと日が暮れ、稜線に少しばかりオレンジ色を残すばかりになっていた。

「何が・・・どうなってるの?」
「カミミヤの歌だから、上杉のひとに聞いたんだ。そしたら、怒り出して・・・」
「何を、聞いたの」
「上杉亮三の、性癖についてだ」
「せいへき?」
「歌を見ただろ」
「見たけど?」

裕太がわたしを一瞥する。わたしは、たぶんばかみたいな顔をしているのだろう。何を言っているのかさっぱりわからない。裕太はひとときわたしの表情を眺めていたが、やがてぷいと眼を逸らしてしまった。

「まあ、いいや。美穂は知らなくていい」
「え、ちょっと・・・」

言いかけたところへ、突然巨大な音が鳴り響く。山の上からといわず川の方からといわず、甲高いが地鳴りのような響きが伝わってきた。空気がびりびりと震え、鳥たちがばさばさと飛び立って、この異変についてヒステリックな情報交換を始める。

「裕太!・・・サイレンだわ」
「サイレン?」
「サイレンが鳴るまでに、宿に戻れ、って」
「誰が?」
「先生よ」

裕太は立ち上がって周囲を見渡そうとするが、道は曲がりくねっているし、それ以外は深い木々に覆われていて、何が起きているのかまったくわかる状況ではなかった。裕太は、ぐいとわたしの両腕を引き寄せる。

「美穂、いいか。君はこっちを下れ。寺の横に出る。住職でも、駐在でも、『仲間』でも、最初に会った人に助けを求めるんだ」
「裕太はどうするの」
「僕はまっすぐ降りる。上杉の大人たちは僕より脚が遅い。上杉の集落を抜けても捕まりっこないから」
「囮になる、ってこと?」
「だいじょうぶ、ちょっと殴られたりくらいはするかもしれないけど、それ以上のことにはならないよ。二十一世紀だぜ?」

上杉のひとたちが何を怒っているのか、わたしは知らない。このサイレンが何なのか、わたしは知らない。教授は、面白くないこと、と言っていた。それが何のことなのか、わたしはわからない。だから、裕太の減らず口を真に受けることはできなかった。でも、わたしは靴下のままで、裕太と手を取り合っては行けないのだ。ならば。

「裕太」
「うん?」
「ごめん」

わたしは、わたしを押さえつけている裕太の腕を潜ってその背に両の手を這わす。そこから先は、女の性が全部やり方を知っていた。首を傾げて鼻と鼻が当たるのを避け、口唇を口唇に押しつけ、すぐさまそれを割って舌を滑り込ませる。膝を裕太の両の脚の間に割り込ませ、怯んだところを後頭部を庇ってやりながら押し倒した。

数秒ほど、裕太の舌を絡めて吸う。別れの儀式を済ませたところで、わたしは起き上がった。わたしの仏様。ぐい、とその体をもう一度地面に押しつけながらわたしは立ち上がり、裕太の示したのとは逆の道を走り出す。美穂、と追いすがるような声が背後から聞こえたが、わたしは振り返らなかった。

4.異形の面

予想した最悪の事態とは違って、誰もわたしを見咎める者はなかった。華奢なオーバーニーはあっという間に破れて、その下の皮膚にもすぐに痛みが走り始める。でも、走らなくては。サイレンが鳴るまでに、とは言われていたが、何とか宿までたどり着かなくては。上杉の集落を抜けると、響き渡るサイレンの隙間に瀬の音が混ざり込んでくる。やがて道は杉林を抜け、川面へと出た。

村と岸辺が一望できる光景だった。集落の灯や街灯が、大勢のひとびとの影を作っている。たくさんのひとが、水辺に出てきていた。サイレンが鳴り響いていることと、その群衆のことを除いては、特に川面に変化はないようだった。わたしは小橋に向かって、痛みを堪えて走り出す。走る、というほどの力はもうなかった。丸い大きな石づたいに移動するが、三つに一つくらいの石はぐらぐらと揺れ、わたしはよたよたと小橋へと近づくのが精一杯だった。

やがて誰かが、おい、と口々に騒ぐ。わたしの姿を見咎めたのだろう。その声は、おおーい、とわたしを呼び、戻ってくるように言い続けた。わたしは、捕まりたくない一心でその声を振り払い、ようよう小橋へと辿り着く。何が幸いしてのことなのかはわからなかったが、誰も川の中までわたしを追ってくるものはなかった。小橋に脚を掛けたところで、今度は対岸から大きな声が響く。

「美穂! 早く! 早くこっちへ!」

亜由実が叫んでいる。その姿はよく見えなかったが、わたしはその声がもう近いことに安堵した。裕太は駐在所なりに着いただろうか。わたしは、小橋から落ちないように歩みを進めながら、ようよう周囲を振り返る。その眼の端に、見慣れないものが飛び込んできた。黒々とした水の柱。水の壁。あっ、と思った次の瞬間、わたしはもの凄い勢いの水流に脚をとられ、どう、と下流へと押し流される。さっきまで細々とわたしを照らしていた街灯の光が、遠く水の中へと沈んで行った。

一分とも一時間とも思える時間の間、わたしは水の中をぐるぐる回り、何かにしがみつこうと手を伸ばし、その度強かに水を飲んだ。やがて、がつん、と脇腹に衝撃が来る。わたしの体は、何か細長く固いものにぶち当たったようだった。白い、ダンガリーの生地。男の、腕だ。頭の中はぐちゃぐちゃで、何がどうなったのかもわからない。男は、真っ黒な仮面をつけていた。不気味に赤く輝く三つの眼がわたしを凝視する。わたしは、水の中に戻るのが嫌で、怪物の腕にしがみついたまま震え、次いで大きく咳き込んだ。涎と鼻水をまき散らして、げえげえと体の中のものを吐き散らす。怪物は、口元に皮肉な笑みを浮かべたまま、わたしをそっと引き上げた。

眼前には星空が広がっていた。足元では、どどどど、とエンジンの音が響いている。異形の仮面の男が、その口を開いた。

「肺に水は入ってないようだな」
「・・・先生・・・ですか?」
「いったい何をやってるんだ。サイレンが鳴ったら川に入っちゃいかん」
「・・・それは?」

わたしは何から聞いていいかもわからずに、優しい土鈴の音を発する口唇の上にある赤い眼を差して訊ねる。

「暗視ゴーグルだよ。舟には水先案内が要るだろう?」
「舟?」

わたしは、抱きすくめられたまま少し首を起こして周囲を眺める。五メートルほどの舟がするすると川面を滑っていた。水面はわたしがここ数日見ていたものとは違って、一メートル程度の深さで、さらさらと静かに流れている。

「ダム管理所に頼んで水を出してもらったんだよ。こういう時には、抗生物質だの子どものおむつだの、いろいろ緊急に要るものがあるんだ」
「わたしのためってわけじゃなかったんですね」
「口実だよ」
「え?」

教授は、わたしには応えず水面へ視線を戻す。けれども、わたしを助けてくれた右腕は、わたしの元に残されていた。わたしは、彼の人差し指がわたしの頬を往復するのを、子守歌のように心地よく感じていた。

やがて舟は、旅館と集落に挟まれた街灯の下へするすると到達する。舟はまず集落のある左岸へと接舷した。ビニールに包まれた段ボールが二十ほど、効率よく村のひとびとへと届けられる。わたしが怖れていたような敵意はそこにはなかったが、上杉のひとびとが来ていなかったせいなのかどうかはよくわからなかった。やがて、懐中電灯の光とともに、長身の男が舟へと近づいてくる。三つ揃いのスーツ。ポマードで逆立った頭髪。男は逆光のままこちらへ声を掛けた。

「黒宮先生ですか?」
「君が吉田くんかな? 今回は迷惑を掛けたね。だがもう一つ頼みたいことがある」
「何でしょう」
「今から言う何人かの方々を、旅館の会議室に集めてもらいたいのだ」

教授と吉田刑事が打ち合わせを終えた後、舟は集落を離れて旅館へと向かう。その一時間後、わたしはだだっ広い会議室へと通された。亜由実が洗っておいてくれたブラウスのボタンを上まで留め、痛む脚を庇って横座りに座り、何かが始まるのを待った。

Ⅷ.産の章

1.真犯人

室内には少しずつひとが増えてゆく。亡くなった上杉亮三さんの奥様と思われる女性。水野のお婆ちゃん。区長さん。眼光の鋭い初老の男性は、わたしの方をじろりと見るその雰囲気の悪さからして、上杉一族を代表している人物と思われた。そして、ご住職。駐在さん。吉田刑事。教授。最後に裕太と亜由実が現れ、わたしの斜め後ろに陣取った。裕太。よかった。彼の身に何事もなかったことを確かめられて、わたしはほっと一息つく。これで一通りの人間が集まったものらしく、区長さんが部屋の扉を閉めた。呼応して、吉田刑事が立ち上がって口を開く。

「本日はお忙しい中ありがとうございます。県警本部の吉田と申します。吉田亮三氏殺害の件につきまして、ご説明をさせていただきたいと存じます。まだご遺体が搬送できていないため、正確な死亡時刻はわかりませんが、証言等併せまして死亡推定時刻はおよそ午前十時三十分頃と思われます」

「その時間、被害者は女性一人と密室状態にあったため、警察では当該女性を容疑者とし、緊急逮捕いたしました。しかしその後、逃亡のおそれがないこと、証拠隠滅のおそれがないことから逮捕は不当であるという請求がこちらの黒宮教授からあり、容疑者を一旦解放いたしました」

「本日みなさまにお集まりいただきましたのは、この事件はきわめて繊細な問題を含んでいるため、こうして関係者みなさまに聞いていただきながら、事件を解決するのがよいという教授のすすめによるものです。わたくし個人としましても、この点については全く同感で、それでみなさまにこのようにお集まりいただいたというわけです」

多少緊張しているのか、いつも毅然としている吉田刑事の肩は丸くなっていた。その左手には、かなり暇そうにあぐらをかいて体を前後に揺すっている教授の姿がある。わたしは、この場をひどく居心地悪いものに感じていた。犯人がわかったのならば、こんな場を設けなくとも、その犯人を捕まえればよいのではないだろうか。その方がよっぽど繊細な解決法に思えたのだ。

ひどく尻切れとんぼのまま、吉田刑事は、どうぞ、と言い出して教授に譲る。えっここで僕なの?と教授も訝しげに反応するが、刑事に頑なに押しつけられて、不承不承立ち上がって周囲を見渡した。

「ええと・・・何を言えばいいのかな?」
「いやそんな教授。あなたが場を設けろと言ったんじゃないですか。何かお話があるのではないですか? あなたはその少女を庇っておられるようだが、だったら、真犯人は別に居る、というお話でもあるんじゃあないですか?」
「そんなものはない。殺したのは彼女だ。それで間違いない」

わたしは初め、教授が何を言っているのかわからなかった。何人かが、えっ、とかなりびっくりした反応を示した後、ようやくわたしにも教授の言葉の含意が伝わってきた。何を、という気持ちで一杯だった。わたしの言葉を、ここまで信じてくれたのは教授一人だけだと思っていた。だから、とわたしは教授の言葉に付き従ったのに。その教授が。なぜ。

「彼女は両親を亡くし、経済的にも不安定な状態だった。彼女はある日突然何かを思い立ち、学校を休んで私服でこの街へやって来て、カミミヤを訪れた。金策がうまくゆかず、彼女は手近においてあった刃物で脅し、揉み合った末殺した。その後彼女は暴行未遂の痕跡を作り上げ、人を呼んだ」

そんなばかな、と最初に声を挙げたのは裕太だった。

「彼女は、そんな、お金目的で来たわけじゃない。彼女は【あれ】を返しに来ただけだ。邪な気持ちなんか微塵もなかったんだ」
「【あれ】とは?」
「教授、何を言ってるんですか。一緒に見たでしょう。純金の鮎を」

水野のお婆ちゃんと、上杉の関係者らしき老人がびくりとなる。当の教授はというと、一つ首を傾げたきり、わたしはそんなものは知らない、と突っぱねた。更に激しく憤ろうとする裕太の出鼻を挫いて、別の人物が手を挙げる。上杉一族と思われる、初老の男だった。

「先生、そらおかしいわ」
「何がですか?」
「彼女が殺したんは間違いないでしょう。証拠もある。だが、金策がどうたらちゅうのは違やせんかね。あの娘は、オオホンヤの、『仲間』の筋だ。オオホンヤがおかしくなって、自分の家族殺した。ほんで次は亮三さを狙ったけども失敗した。あの娘は、オオホンヤの恨みを引き継いでこの村あ来て、ほいで亮三さ殺した。ほうじゃないかね」

ちょっと待ってよ、と今度は亜由実が荒げた声を出す。

「あたし、彼女とずっと傍に居たわ。彼女は、何ていうか、わたしと同じ匂いがする。オオホンヤなのかもしれない。でもね、彼女はとても優しい子よ? 二十年も前の恨みを引き受けられるような子じゃない」

わしもそう思うね、と今度は水野のお婆ちゃんがきっぱりと言い放つ。

「この子は、人殺しなんかするような子じゃあない。わしは、この子が戻ってくるんなら、オオホンヤでええと思う。早穂ちゃんは、立派に子育てをしよったわ」

わたしは、わたし抜きでどんどん進む話に頭がくらくらしていた。誰もが、思い思いのことを言っていた。けれども、わたしと同じ世界を暮らしているひとは誰も居ないのだ。わたしは奥歯を噛みしめながら、話し手たちの表情を眺め続けた。

2.親族

教授は、皆が思い思いにわあわあと発言し合うのを妨げもせずに聞いている。わたしは、自分が結構怖い顔になっているんだと思う。教授は、涼しい顔をして眼も合わせてくれなかった。場が静まって数秒の後、教授はのんびりとした口調で吉田刑事に話しかける。

「吉田くんはどう思う?」
「私も教授の意見に賛成です。彼女が殺した証拠は整っている」
「君は、どの証拠が本物で、どの証拠は偽物かを見極められるのか?」
「いや・・・それは。でも、教授自身が先ほど彼女が犯人だと仰ったではないですか」
「誰を犯人にするか。どの証拠を真とするか。どんな動機を採択するか。それらは全て、生き残った人間たちが、自分たちの存在を掛けて選び取るだけのものなんだ。君たち警察も、その勢力のひとつに過ぎない。君たちは真実の僕などではなく、単に権力の僕に過ぎないのだ。故に手元にある証拠をつなぎ合わせていち早く結論を求めようとする。『警察は何をやっているんだ』と言われることが嫌なのだ」

それは、と吉田刑事は口ごもる。痛いところを突かれたかたちだった。

「吉田くん」
「は、はい」
「いったん証拠から離れたまえ。証拠は作為的に作られたものだ。だから、この事件は村の社会から調べる必要がある」
「なぜ・・・ですか?」
「この村人たちの反応を見るといい。この事件は、『オオホンヤ』というキーワード抜きには語れないのだ。村人たちはそう考えている」
「は、はい。それで、その『オオホンヤ』というのはいったいどんな・・・」
「自分で訊いてみてはどうかな。ここには村の代表者たちが揃っている」

吉田刑事は、少し不安げな表情で周囲を見渡す。誰も何も言わなかった。亜由実ですら、床を見て俯いていた。静寂を引き取って、教授が口を開く。

「ご覧の通り、どれだけ待っても、教えてくれるものはない。日本の伝統社会においては、組織の『ハジ』を語ることは禁じられているんだ。これが守れないものは、組織の構成員として認められなくなってしまうのだ」
「『ハジ』ですか」
「そのとおり。この村で『オオホンヤ』について語ることは『ハジ』なのだ。まずこの点を理解しておく必要がある」

はあ、と吉田刑事は、あまり重要性を感じていない表情で気のない相槌を打つ。それに構わず教授は立ち上がって、左右に少しうろうろとしながら話し始めた。そのさまは、まるで教壇で講義をする教員のようであった。

「『ホンヤ』というのはこの地方の方言で、親族組織の頂点に立つイエのことを指す。おそらく『オオホンヤ』とは、その拡張概念のことだろう」

親族組織とは何ですか、と吉田刑事はメモ帳を開きながら、優秀な学生よろしく問いを返す。そこからか、と教授は苦笑いをして言葉を続けた。

「ひとが定住するにあたり、まず必要になるのは水だ。だからひとはまず、池や川のほとりに立ち『この水は俺のものだ』と宣言する。そして子を育み、やがて子は大人になり、近隣に家を構え、そしてそこで子を育んでゆく。これらの繰り返しにより、ひとつの水の元では、同じ名字の多数の家族が出現することになる。彼らは最初の宣言者の元に協力しあう社会組織なのだ。これを親族組織という。この地方ではこうした組織を『イットウ』と呼び、そのリーダーとなるイエを『ホンヤ』と呼ぶのだ」

なるほど、と頷きつつ吉田刑事は続ける。

「『オオホンヤ』というのは、それに類する言葉だ、ということですね」
「そのとおり。つまりこの事件には村の親族組織、引いては村の社会構造が強く関わっているということだ」
「それは、村人が語ってくれなくてもわかることなのですか」
「ある程度まではね。今から話そう。村の方々にはよく知っているつまらない話になってしまうだろうが、おつきあいいただきくしかないな」

教授は誰に話しかけるともなく、誰に許可を求めるふうもなくそう言った。誰も、反論しようとするものもなければ、離席しようとするものもなかった。ただ黙って、立ち上がった教授を眺めていた。

「まずこれは、国土地理院が出している五万分の一の地図だ。地形をよく見て欲しい。ここには、X川に注ぐ河川が一つしかない。この状態では、親族組織は一つしかできない筈なのだ」

X川自体を利用した親族組織はできないのですか?と、吉田刑事が問いを投げる。

「こんな大きな川は、かつての人間たちにとっては制御不能だったんだ。これらを制御するには、近代的な土木技術の発展を待つ必要があった。したがって、この兜岩を含む嶺の谷筋、ここにしか制御可能な水は流れてこないのだ。しかしこの村には、上杉・仲間・水野の三つの親族組織が存在している。この点がまず、渡瀬村における村落構造の大きな特徴だ」

親族組織。けれども、あの広場には水が流れていた。兜岩の横を流れていた川ほどの水量ではなかったけれども。あの水はいったい何なんだろう。わたしはそんなことを思いながら教授の話を聞いていた。

3.はじまり

教授が話を続ける。都合、受け答えは吉田刑事ばかりになってしまった。村の人びとは特に質問するつもりもなく、反論をするつもりもないようだった。わたしはといえば、大人の話に首を突っ込むようでいささか憚られるところがある。裕太もきっとそんな気持ちなのだろう。

「ここからは順を追って話そう。当て推量も含まれているが、お集まりのみなさんの表情を見ていれば、当たりか外れかは自ずとわかる筈だ。まず水野イットウが現在の位置に展開していること、これは昔から変らないようだ。明治時代に作られた『地籍図』および『地籍帳』も、兜岩の上流側に水野イットウの地所があったことを示している。一方上杉イットウだが、同じく『地籍図』『地籍帳』によれば、今住居が展開している場所より山一つ上流側に住み着いていたことがわかる。元々彼らはそこで水を得ていたのだ」

「それがなぜ現在の地へ移動しているのですか」
「ダム建設だ。昭和五年、渡瀬ダムが造築され、『地籍図』にある上杉集落は水没している。同時にカミミヤも移転した。その際、電力会社が寄付をおこなったことが鳥居に記されている」

上杉の古老の様子をちらと見る。眼を閉じて沈黙しているばかりであったが、そこには肯定の含みがあるようだった。

「話を戻そう。最後に『仲間』イットウだが、その痕跡は文久年間以前には存在していない。これが渡瀬村のスタートラインだ。二つの水系に、二つの親族組織。これらが合併したことにより、渡瀬村が誕生した」

「合併というのは、なぜ起こるのですか?」
「為政者の租税徴収を簡便にするためだ。上意下達で事は進められ、人びとに抵抗の余地はなかった。しかし、ここ渡瀬村にはきわめて特殊な地理的条件があり、それが捻れをもたらした。それが兜岩の存在だ。一般的に、上流より下流の方が土地が肥沃で親族組織は豊かな場合が多い。ここ渡瀬においても、『地籍図』から見れば水野イットウの方が生産性が高いことは明らかだ。しかし行政の窓口は、上杉が受け持つことになった。これは、下流側である筈の水野側が、兜岩のせいで上杉側よりも為政者から遠い、袋小路になってしまっているからだ」

「行政の窓口であるかどうかはどのようにしてわかるのですか」
「こうした事々も、地域の神社を見ることでわかる。神社というのは、天皇制政権下においては行政組織そのものなんだ。まず、ひとつの親族組織に対してひとつの『氏神』が存在する。その上位には、村の行政体である『村社』がある。更に上位には『郷社』があり・・・という序列になっているのだ。この調査は小川くんがしてくれた。カミミヤの鳥居に『村社』の記載あり。つまり、渡瀬の行政上のリーダーは上杉のホンヤだったということになる。一方経済バランスにおいては、水野イットウの方が勝っていた。おそらく、この捻れが第三の親族組織を招いた理由だろう」

「招いた?」
「そうだ。住民の記憶では、現在バス停広場になっている空間には『仲間』の氏神であるナカミヤが存在した。そこには、水野のホンヤが寄付をしたことが書かれていたという。カミミヤだけにはそうした記述がないことから、『仲間』イットウと水野イットウとだけが、特別な関係にあったということがいえるだろう」

「おそらく一八五〇年頃、『仲間』はこの地にやってきた。彼らはおそらく技術者集団だろう。黒鍬か、山師か、そのあたりはわからない」
「その、黒鍬とか山師とかいうのは何ですか?」
「黒鍬は尾張知多を拠点とする土木技術集団だ。山師は鉱脈や水脈を発見する特殊な技術を持った集団だったがその出自は現在不明だ。『仲間』は他にもいくつかの技術を持っていた可能性がある。僕は、おそらくだが、黒鍬の中でも勉強熱心だった人間がリーダーだったのではないかと思う。水野さん、どうですか」

老婆も眼を閉じて聞き入っているふうであったが、教授に声を掛けられて眼を見開く。

「まあ、ほうじゃろうね。聞き伝えじゃからはっきりしたことはわからんけども、そういう人んたに頼みに行ったて、言われとるわ」

ありがとう、と教授はひとつ頭を下げる。ふん、と老婆は鼻を鳴らして、また眼を閉じてしまった。

「『仲間』が水野から要請されたのは、おそらく川湊の造成だ。これにより、水野集落は袋小路のどん詰まりではなくなり、水運の拠点として成立した。ただ残念なことに、水運自体にはこれまた特殊な技術が必要で、水野の人びとには手が出せなかった。川湊の運営のため、水野は『仲間』に定住を許可したのだろう。『仲間』は地下水脈を発見し、これを引き出して自らの水源とした。川湊の運営があるから生業には事欠かなかったが、生活にはやはり水が必要だったからだ。このようにして、『地籍図』にあるとおりの、二つの河川と一つの地下水源を基盤とした、三つの親族組織による渡瀬村が完成したのだ」

いつの間にか、ざあああ、という瀬の音が聞こえるようになった。ダムが、教授の望んだ放水をやめたのだろう。かつては、あのどうどうと逆巻く水が流れていたのかもしれなかったが、わたしはこのざあざあとした水音の方が好きだった。

4.村の裏側

教授は、亜由実が持ってきた小ぶりのワゴンの元へすたすたと歩いて行き、自らコップに冷茶を注いでごくごくと飲む。わたしは、教授の話につい引き込まれて、さっきまで煮えくりかえっていた感情がだんだんと落ち着いてきた。教授には何か考えがあって、わざとあんな始め方を選んだのだろう。だって教授は、何度も何度もわたしを助けてくれたのだ。命まで救われたのだ。もっと真剣に聞かなければ。何か、わたし自身も考えなければならない、大切なことが含まれている筈だ。わたしはそう思った。

「さて、このように村落の社会構造を見る際には、親族組織と産業構造を検討していくことが重要だ。けれども、これだけでは片手落ちになる。こうした構造はいわば表のシステムだ。あらゆる社会構造には、かならず裏のシステムが存在する」

「裏の・・・ということは、隠されている、ということですか」
「必ずしもそうではない。しかし、時代の変化によって、ある時代においては正しいとされていたものが、別の時代になって以降は、『人前ではいえないこと』に変化する場合もある。この村にも、そうしたものがあった」

「それはいったい、どのようなものなのですか?」
「それにはまず、産業構造の一般的な特性を考える必要がある。産業構造の目的は生産だ。組織は常に洗練化され、自らの生産性を高めてゆく。するとそこには上意下達型の命令系統が出現することになる。そこでは、貧しいひとや、命令を受けるだけのひとが固定化されてゆく。彼らは時に不満分子となり、反乱を企てたり、組織から離脱しようとする。こうした現象を防ぐには、貧富の格差を調整したり、彼らの感情をいなしたりする別の仕掛けが必要なんだ」

「村の半数を占める最底辺のひとびとがあった。女性たちだ。彼女たちには、何の発言権もなく、何ら自由にしてよい資源を持たなかった。日本中、どこででもそうだった。今でも、そんな場所はどこにでもある。この村で、彼女たちの感情をいなしてくれたのは、上杉の一族が持つ仕掛けだった」

教授が大きな紙をばらりと開いて見せる。そこには、例の歌詞が大きく印刷されている。

宮の祢宜さん お槍が上手
一突き突いて 雨止んだ
二突き突いて 川流れ 川流れ

吉田刑事は、わたしが口伝えにしたものをようよう眼の当たりにして、興味深そうに教授が両端をつまんでいる紙の文言を指でなぞる。

「そうこれ、これは何なんですか?」
「吉田くん、槍は見つかったか?」
「いえ、そういったものはありませんでした」
「そうだろうな。ここで槍と歌われているのは、武器のことではない。槍のような形状の何かだ。それを一度突くことで、雨が止む。これはおそらく、涙が止まるということだろう。二度目には、川が流れ出す。これは、どこからか滴り落ちるものがあるということだ」

「さっぱりわかりませんが」
「カミミヤは、女たちの駆け込み場所だったのだ。家で男たちに酷い目に遭わされたとき、彼女たちはカミミヤへと逃れた。この歌は、そこで神主が女たちにそれなりの『もてなし』をしたということを示している」

あっ、と吉田刑事が声を出しかけたところへ、上杉方の初老の男がやおら立ち上がって大きな声を出す。

「ほんなもんは、出鱈目や!」
「出鱈目?」
「ほんな、うちのホンヤが、ほんなことはせんわ」
「女たちを匿いはしなかった?」
「いや、それは・・・昔はそういうことがあったかもしらん。ほやけど、ほんないかがわしいことは・・・」
「していない?」
「ほうや」
「本当に?」
「先生、あんたは・・・」
「僕は何も知りはしませんよ。確かに、実際にそれがあったのかどうかはわからない。しかし、女房や娘に逃げられた男たちが、神主を当てこすったのは事実だ。それがこの歌だ。こういうことは、日本中どこの村でも珍しいことではなかった。宗教施設はしばしば、女たちをぎりぎりのところで助けるための施設として作動していたが、一方でここには常に邪淫の疑いがあった。藤村の『破戒』にも同じような表記がある」

わたしは、ようように歌の意味がわかって思わず赤面する。裕太は「性癖」と言っていた。教授は「仕掛け」と言う。わたしは、どちらかと言えば裕太の感覚に近いのだろうと思う。困った女たちが駆け込む場所があるのはよいことだ。けれども、そこにそうしたものが入り込んでいるかと思うと、一転酷くおぞましいものに見えてくる。

教授の声が床を透って浸みてくる。わたしは少しぼんやりした気分で、彼の口唇の動きを追いかけた。

「渡瀬村における上杉の権力は絶対だった。国家との結びつきでもそうだったし、彼らには女性たちを味方につける特殊な仕掛けがあった。水野・『仲間』のグループは、この点に対しても手をつけた。それが『やな』だった」

5.竜神の掟

「『やな』とは、水中に十メートル四方ほどの巨大な笊を仕掛けて、流れ落ちてくる魚を一網打尽にするためのものだ。中部地方と関東地方に多く見られるが、この地方では珍しい。おそらく『仲間』イットウが技術を持ち込んだのだろう」

「小川くんが取材してきた情報によれば、『やな』では女性たちが魚をつかみ取りして、給料を得ていたという。上杉が女性たちの感情をいなしていたのに対して、『やな』は女性たちに経済力を与えたのだ。いつ頃から始まったものかはわからないが、仮に明治期のことであったとしても、これは画期的なことだった」

「このようにして、『仲間』は村を大きく変貌させた。自身の生活用水ばかりでなく、温泉も掘り当てたらしい痕跡が『皇国地誌』に描かれている。川湊を掘削し、これを運営した。『やな』を作り上げ、女性たちに経済力を与えた。ただの農林業村だったものが、流通の拠点となり、女性たちが生き生きと働く、拠点村となったのだ」

「これに対する上杉の感情はネガティブなものだった。彼らは、竜神が川を下ることができないからと難癖をつけ、『やな』の撤去を求めた。あるいは『竜神』という言葉は後づけで、材木流送の邪魔になるという話だったかもしれない。それに対して『仲間』グループは何らかの譲歩をしたのだろう。時期をずらしたり、中州を設けて空間的な分割を計ったり、いろいろな方法が考えられる。その詳細は明らかではないが、この譲歩により、渡瀬村における緊張関係が解けて、村は繁栄することになった」

それが竜神伝説?と裕太が口を挟む。教授は、裕太の合いの手がよかったのか、冷たい視線を送ることもなくそれに応える。

「そのとおり。洋の東西を問わず、識字率の低い社会において社会のルールは紋章や民話に埋め込まれる。『竜』のモチーフは、独占に対するペナルティとして使われることが多いのだ。互いに譲歩し合うことで感情的な軋轢を回避することが、空間における繁栄につながる。これが、黄金の鮎が持つ寓意だったのだ。繁栄は数十年にわたって続いた。けれども、そこに『呪い』がやってきた」

呪い?と裕太が敏感に反応する。吉田刑事も、この不吉な言葉を軽くは考えられないようだった。ごくり、と誰かが唾を飲み込む音が響いた。

「ダム建設だ。『水主火従』と言われた時代、全国のあらゆる河川で発電ダムが造築された。X川も、その国策とは無関係でいられなかったのだ。大正年間から数年間で、三つのダムが造築された。その最上流部に位置したのが、昭和五年に建設された渡瀬ダムだった。ダムは上杉の地所を水没させ、水運業を壊滅に追い込み、そして『やな』までをも廃業させた。上杉・仲間・水野は、それぞれ手酷いダメージを受けた筈だ」

「しかし、そういった場合、補償金が出るのではありませんか? 神社の建て直しも、電力会社が寄付をしているのでしょう?」
「街の人間は、街の理屈で説得しようとする。村が持っている独自のライフスタイルが理解できないのだ。上杉のイットウは、家屋敷の水没には補償を得られたが、水没しなかった杉檜林については補償は受けられなかっただろう。水運業の補償は陸路開発によって担保されることになったが、これは都市部の運送業者の進出を促す結果にしかならず、渡瀬村の利益は損なわれた。『やな』は元々女性たちに経済力をもたらすためのものであったから、おそらく純利と呼ばれる部分はほとんどゼロだっただろう。それを何十年分補償されたとしても、雀の涙ほどにしかならないのだ」

「なぜ、なぜそんな補償に納得したのでしょう? 反対運動などはなかったのですか?」
「現代とは時代が違う。国策は絶対で、反対運動などしても逮捕者が出るだけで決定は揺るがない。ただそればかりではなく、おそらくだが、村の人びとは自己の利益を譲歩して国が豊かになるという文言を信じたのだろう」

なぜ、と、理解ができないといった面持ちで吉田刑事は首を振る。

「竜神の掟があるからだ。小さな川は自分たち親族組織のものだ。だがX川は違う。誰のものでもなく、みんなで譲歩し合いながらこれを用いることで、お互いがいたわり合いながら繁栄を遂げてゆく。渡瀬村の人びとには、そうした信念があったのだ。ただ残念ながら、この信念は国家や街の人びとには共有されていなかった。それが『呪い』の発端だったのだ」

「『仲間』グループは、いち早く手を打った。それが紡績工場だ。地下水脈を発見する特殊能力を持っていた彼らは、上杉の生活用水を提供し、更に街の中央部にも豊富な水を引き込んだ。そして、渡瀬村の女たち、あるいは近隣村落の女たちを招いて、女工としたのだ。村の産業規模を守り、女性たちの権利も守り抜いた。」

「紡績工場の発展にともなって、村には次々と新しい人びとが家を構え、店舗を構えるようになった。『やな』と同じく紡績工場は利益度外視で公共的色彩が強かった。女性たちはそこで高度な教育を受け、退職時には資金の援助を受けて店舗を開いたりなどしたわけだ。こうして『仲間』のホンヤは、『仲間』イットウばかりでなく、たくさんの女性たち、あるいはその配偶者たちまで面倒をみる『オオホンヤ』となったのだ」

教授は、どうでしょうか、と水野の老婆に訊ねる。老婆はちらと薄眼を開け、教授の指名が無視できないことを覚ると、面倒くさそうに口を開いた。

「ほうだね。先生の言うとおりだわ。『仲間』の連中は本当に村にようしてくれたわ。先生が『掟』言いなさったのもね、これはあれだね、『仲間』の『血』だわ。変わりもんちゅうかね。それがどうしてこうしてか、だんだん村中に広まったちゅう訳だわ」

教授は老婆に対して、ありがとう、と礼を述べ、部屋の隅に積んであるパイプ椅子を一脚引き出して、背もたれを前にして輪の中に据え、どっかりと腰掛ける。眼を閉じて、衣擦れの音までが静まるのを待っていた。

6.血

やがて彼は口を開く。鈴の音のように、彼の声が床に響いて滑り込んでくる。

「そうこうする内に、戦争が終わった。もっとも悲惨なかたちで。だからこそ、ひとびとは新しい時代に希望を感じたのだ。きっと物事はここからよくなる筈だ、と。そんな時代に、彼は居た」
「誰ですか」

教授は右の眼だけを見開いて、虚空を見る。そこに、誰かが居るように。そこに、敵が居るかのように。

「仲間喜八。正確には、五代仲間喜八だな。自分の家族を皆殺しにし、そして上杉亮三の命も狙ったが失敗。そして今回とうとう、上杉亮三を死に追いやったのだ」

沈黙の外側で、遠くに蛙の鳴く声が聞こえる。ひとり。低く高く。陽気な歌声は、恋人を呼んでいるかのようだった。低く、高く。それに被せて、吉田刑事が上ずった声を上げる。

「仲間・・・喜八。確か、平成五年の事件でしたよね」
「そうだ」
「彼が、生きているのですか? いや、そもそも動機は何なんですか? 今お話いただいたことと、何か関係があるのですか? 村は、第二の繁栄を遂げたのではなかったのですか?」
「君は、この村が繁栄しているように見えるのか?」
「いや、それは・・・しかし・・・」

「すべては繋がっているのだ。仲間喜八が多感であった時代、第二の『呪い』が緩やかにやってきた。まず上杉からだ。外国製の安価な材木が輸入されるようになって、日本中の林産業は壊滅的なダメージを受けた。上杉にはもはや田畑はなく、杉檜林だけが生命線だった。次に『仲間』。こちらは、レーヨンなどの近代的で安価な織布が多く作られるようになり、絹糸は売れなくなっていった。最後に水野。こちらは戦後の農業政策によって幾分かは恩恵があったが、逆に農業の合理化が進んだことで、金銭収入が以前より必要になってしまった。農薬や化学肥料、電気やプロパンガスに、農業機械のガソリン代などだ。しかし、収入源となるべき産業は全て衰退してしまった。村を捨てて、街へ出てゆくものも現れた。『過疎化』が始まったのだ」

「仲間喜八も、街へと出て行った。新聞には容疑者の住所が簡略に示されている。それによれば、彼は街へ出て、電力関係の会社に勤務していたとある。では彼は村を見捨てたのだろうか。水野さんが言うには、『仲間』の一族には特殊な『血』が流れていたという。困ったひとをみたら助けずにはいられない気性があったという」

「『仲間』の一族の中で、彼だけが薄情者で、それで彼は村を出て行ったのだろうか。もしそうだとするならば、なぜ彼は平成五年になって村へ舞い戻り、そして自分の家族を惨殺してのけたのだろうか?」

「それは・・・どうしてなんでしょうか?」
「わからない。しかし『推理』ならしようと思えばすることができる。渡瀬村に発電ダムがあることと、彼が電力関係の会社に勤めたこととは単なる偶然の一致だろうか? 彼には、何か腹案があったのではないか? 村に第三の繁栄をもたらすようなアイデアがあったのではないだろうか。しかし、それが叶わなくなってしまったのか、あるいは叶える目処がついたのか、村へ戻ったとき、彼を待ち受けていたものが余りに酷い何かだったのではないか。そして彼は絶望し、その『血脈』を絶とうとしたのではないか」

「その、教授。さっぱりわからないんですが・・・」
「では少し調べたことを話そう。平成五年当時の新聞記事を全部ひっくり返したところ、彼は電力関係の研究開発部門で働いていたことがわかった。勤務地は、ここから山を隔てた隣県の鉱山だった」
「鉱山・・・ですか? 電力関係の会社で?」
「彼の一族は、地下水脈を発見する能力があった。『山師』の技術を持っていたのだ。彼はそれを用いて、電力開発に資する鉱物資源を探索していたのではないか」
「鉱物資源というと?」
「ウランだよ。その鉱山では、ウラン鉱脈を探索していた」
「ウラン鉱脈・・・それが村の繁栄に繋がるのですか?」
「想像だが、彼は原子力発電が繁栄することで、水力発電が縮小に向かうと考えていたのではないかな。しかし、彼の努力はいくつかの点で、意図せざる帰結を招いた」

「意図せざる帰結? とは?」
「第一に、原子力発電の繁栄は水力発電の縮小をもたらさなかった。第二に、『仲間』のホンヤが村を離れてしまったことで、村にも大きな変化が生じてしまった。第三に、彼の選択によって、『呪い』と『血』が混ざり合うことになってしまった。そして、その『印』が、今もこの村に刻まれているのだ」

何度訊ね返してもわからない。吉田刑事はそんな表情だったが、何かを言おうとしてやめた。沈黙が、ひどく重く感じる。上杉の古老も、水野の老婆も、住職までもが、重い石を腹に抱えているような表情を浮かべていた。喉元まで出かかっている嘔吐物を、精神力だけで押さえつけているようだった。教授だけが、眼を閉じて椅子の背の上に組んだ両腕の上で、居眠りでもしているように涼しい表情を浮かべていた。
やがて、水野の老婆が手を挙げる。

「先生、まあええわ。そこまでお見通しやったら、後はわしが話すで」

教授が静かに眼を見開く。

「水野さん、【あなたで】いいのですか?」
「わしも直接知ったことばっかじゃないけどねえ。邦生さんもいろいろ悩んで亡くなったもんで。わしが言わにゃいかんかなと、ほう思うだよ。誰かが言わにゃいかんことだけども、つれえ役目を先生に任せてしまっては申し訳がないわ」

教授は一つ二つ頷いた後、右手の掌を上に向けて老婆に、ではどうぞ、と仕草で促す。老婆は、ごほん、と一つ咳払いをして、話し始めた。

Ⅸ.落の章

1.光あれ

おい、と声を掛けられて、僕は川面から眼を逸らして声の主を見る。亮三がようように教師から解放されたと見えて、喜色は満面である。

「お前、毎日補修に引っかかっとるじゃん」
「うっさいわ」

どっかり、と腰を下ろして来るのを、近えよ、と肘で小突いて牽制する。この人なつっこさが亮三の持ち味だ。女にもよくもてるが、羨ましいと思うことはなかった。実際、女絡みでは苦労が絶えない様子だった。新しい時代の女たち。戦争が終わるまで、はかなげで消え入りそうだった彼女たちは、今は毎日かしましく騒いで、時には男子学生を取り囲んで詰るまでになった。それは微笑ましいものではあるけれども、正直僕はあまりお近づきになりたいと思わなかった。

「何、見とったん?」
「川だよ」
「何もありゃせんら」
「ほうだ。何もありゃせん。何もな」
「だいぶ、あれやな。砂が減ったな」
「お前も思うかん?」
「弟んたがよ。川がおっかねえって。昔は砂でサラサラやったけどな。今は岩でゴツゴツしとるで」
「それも、ダムで止まっとるんだら」
「間違いないわ」

ざあああ、という瀬の音は、生まれてこの方変わりない。けれども、僕たちが生まれ落ちるちょっと前にできたダムが、少しずつ少しずつ、村の風景を蝕んでいた。

「なあリョウ、お前知っとるか」
「なんだん?」
「岡山でな、ウランが見つかったんじゃと」
「ウラン?」
「ほれ、ヒロシマの」
「ほらあ、危ないのん?」
「危ないわけあるかや。あら武器に使ったでそうだちゅうだけだわ。ちゃんと使えば、危ないことなんかないわ」
「使うて、何に使うだん?」
「発電よ。ものすげえ電力だわ。ダムなんか目じゃねえ」
「ほんなにすげえもんかや」
「ほうよ。ダムなんか要らんくなる。ほしたら川に鮎が戻ってくるわ」

亮三はその辺の雑草をちぎって咥え、くっちゃくっちゃと噛んでいた。青臭いけれども、そこには仄かな甘みがある。僕たちは、そんなささやかなもので夕食までの空腹を凌ぐのだ。戦争は終わったが、まだ世界はぎこちなかった。毎日街からひとがやってきて、高価な時計や書物と引き替えに、大根や麦を持ち帰っていた。あの頃は、村のことなんかちぃっとも助けてくれんかったのに。現金な奴らだわ、と思った。

お前なあ、と亮三がまた口を開く。

「なんだん?」
「原子力もええけど、カヨちゃんはあれ、どうするだん?」
「どうするて。なんもならんて。どっか嫁いでいくんやろ」
「ほんな時代じゃないやろ。好き同士で」
「ほんな時代やって。まだまだ」

カヨは街の子だった。父の経営する紡績工場に、何倍かの倍率を潜り抜けて入社してきた。山の田舎娘たちと違って、抜いた襟元から真っ白なうなじが覗く。切れ長の眼を流し眼にして、いつもうふふと上品に笑っていた。言葉遣いも、僕らのようながさつなところがなくて、とても同い年とは思えなかった。僕は彼女を見て二週間でのぼせ上がり、文を送った。文の一部が割かれて宿の木に結ばれると、「きにかかる」という意味になる。このようにして、僕たちの交際は始まった。

彼女は工場の一年生だったので、先輩たちが寝静まった後には、山ほどの繕いものをしなければならなかった。小さなランプを点し、針仕事を始めた頃合いを見て、僕は毎晩彼女を訪ねる。彼女の仕事を妨げぬよう、彼女が眠たくなってしまわぬよう、僕はいろんな話題を提供した。彼女は、いつも静かににこにことして、僕の話に相槌を打ってくれた。僕は、この関係の証になるものが欲しくて、彼女の仕事が終わるといつもそれをせがんだが、彼女はいつもやんわりと断った。けれども、一度だけ、僕は許されて、彼女の口唇を吸ったことがある。それはどこまでも柔らかくて、僕は吸い込まれてどこかへ行ってしまいそうな心持ちだった。

工場の女の子たちは、みんな結婚を機に退職することになっている。結婚先は社長である僕の父親が探してきて、女の子たちはみんな、それに逆らいもせずに嫁いでいった。時に村の祭りなどで、近在の若者との恋が生まれることもある。そんな時も、親父の吟味がなければそれは実ることはなかった。まだまだ、そんな時代なのだ。

2.水あれ

カヨのふっくらとした口唇は、いささか毒々しいのではないかと思うほどに紅かった。それ以外はというと、頭から真っ白な絹織物を引っ被っているものだから、どんな表情なのかはまったくわからない。けれども、僕がちらちらと彼女を見るのがなぜか伝わるようで、その度、彼女はその口唇を優しく曲げてみせた。

親父に改まって別室に呼び出されたとき、僕はいよいとかなと思った。二十二歳。それを求められるには充分な年齢だった。親父の決めた相手と結婚し、いよいよ『仲間』の中心を担えと言うのだろう。けれども、僕の方でも、彼には言いたいことがあった。しかし僕の中の「つもり」は、親父の一言目によっていささか出鼻を挫かれることになる。

「お前、どうするんだ」
「どうするって。何をだん?」
「カヨだよ」
「カヨがどうした?」
「もう二十だぞ。いい加減待たせてはいかんじゃないか?」
「はあ?」

事の成り行きがよくわからない。親父は、カヨを自分に嫁がせたがっているのだろうか?

「あの子は・・・ただの街の女の子なんだら?」
「だから、遊びでつきあっとったのか」
「そんなことは言っとらん。けんど、親父は僕をそれなりのと嫁がせたいんじゃろ。カヨにも、相手を考えとるんと違うんか?」
「そらあお前、当人たがそう言うたら、わしも一所懸命探すわさ。ほうでもお前んたには必要ないだら。こんな時代やし、好き同士がくっつかんで、どうする」
「カヨを・・・僕がか。ええんか? 『仲間』に入れて?」
「そらまた別の話だわ。お前んた二人が立派に生きとりゃ、頭領になるわ。ほうじゃなかったら、他のもんが継げばええだけや。自分たの生き方は自分たで決めえ。ほれが自由民主じゃろ?」

親父はたぶん、カヨとのことを話しているのだろう。けれども僕は、別のことを考えていた。丁度ええ具合に親父の言質が取れた。そう喜び勇んだ。

「ほうたら、親父・・・僕、今自分で決めたわ」
「おお。ほいだら、結婚するかん?」
「する。ほうして、僕村を出るわ。カヨと一緒に」
「出て、何をするだん?」
「竜脈を探す」
「竜脈て。探いてどうする? 何でそんなもん探すだん?」
「掘る。村のためだ」

幼少期の頃から、僕は父に『仲間』に伝わる秘密の知識を教わっていた。水脈の探し方。鉱脈の探し方。僕は知識を深める度、世界中の大地を支配したような妄想にとらわれた。けれども、山師の知識の中には、恐ろしい言葉も含まれていた。それが「竜脈」の概念だった。竜脈は、水脈や鉱脈とは違って、触れれば必ず恐ろしいことになると教わった。実際、禁忌に手を出して、何人もの山師が呪いを受けて亡くなったという。

僕は幼少期、竜脈の概念を得て身震いした。けれども、今は別の考え方もできる。竜脈を掘った者は呪いを受けて死ぬ。竜脈とは、ウラン鉱のことなのではないか? その巨大な資源が掘り当てられれば、日本は一挙に発電大国になることだろう。街の衆はダムを顧みなくなり、そして村には川の流れが戻ってくるはずだ。

「ほんなことが、許されるわけあるか」
「親父こそわからんこと言うな。呪いなんてあるわけないやろ。山師が死んだのは、放射線のせいや」
「ホウシャセン?」
「これからはな、竜脈に眠っとるもんが、世の中を変えるんだわ。山師が隠しとっても、何にもならんのだわ。親父、今言うたやろ。自由に生きろて。僕はな、自分が立身出世したいから言うとるわけじゃないで。ヤマは上杉が、サトは水野が持っとる。『仲間』はな、鮎がのうなりゃ、やってけん。ダムがあったらあかんのだわ」
「紡績で、立派にやれとる」
「今に売れんようなる。街や外国の連中のやり方見てみい。花嫁道具から仕事まで世話しとる社長なんぞどこにもおらん。もっと安いもんが入ってきて、ほいで紡績はお仕舞いさんや」

どうしてカヨと結婚させてくれる話が殴り合いで終わってしまったのかよくわからなかった。全部ご破算かと思っていたが、親父は吐いた唾を引っ込めるような真似はしなかった。すぐに婚礼の準備が進められ、僕とカヨとは、何かを話し合う間もなく、右へ左へと忙しく引き回されることになった。親父は、竜脈の話に触れようとはしなかった。僕も黙っていた。僕たちはそのままの勢いで、三三九度の盃を空けてしまった。

なあカヨ、と暗闇の中で話しかける。返事はなかったけれども、空気が少し動いたので、彼女が頷いたことはわかる。僕は彼女の襟に手を掛けた。柔らかい肌が、熱病のように熱い。僕は、衝動が体を突き動かしそうになるのを堪えて、ようよう口を開いた。

「カヨ、僕、村を出る」
「知っとる」
「知っとるて?」
「お義父様から聞いたわ。あたしもついてけ、て。メオトは一緒におるもんや、って」
「ほうでも、苦労かけるで?」
「ええよ。かけて。いっぱいかけて」

彼女の常ならぬ情動的な言葉に突き動かされて、僕は稚拙に事を進める。あっ、と彼女は小さく呻いて、僕の肩にしがみついた。

3.大地あれ

久しぶりの郷里は、じりじりと照りつける陽光で皮膚が焦げそうなくらいだ。けれども、街と違ってそよそよと吹く風が少しばかり涼しさを運んでくれる。僕は庭先ではしゃぐ長女と次女を眺めながら、傍らに座るカヨと目を合わせてぎこちなく笑顔を作った。何がどうなってこうなったかわからない。村を出た者への罰なのか。それとも竜脈の怒りなのか。それとも。

村を出てしばらくは、いろいろな苦労があった。カヨの稼ぎに頼り切りだった時期もあった。数年の後、どうにか事務所に潜り込むと、すぐに山師の本領は発揮できた。村から更に百キロほど山奥で、僕たちは太陽の力を持つ鉱脈を見出すことができたのだ。その直後、日本で初めて、その力を電気に変換する施設が誕生した。これからだ。これからだ。そうその時は思っていた。

発端は何だったのだろう。郷里に残してきた蚕糸は、父がどうにかやりくりしていたが青息吐息だった。海外の絹やレーヨンに押されて売れなくなりつつあったのだ。父は、美術品を処分したり地所を切り売ったりしながら、養蚕農家と女工の娘たちを守るために奔走していた。同じ頃、上杉も水野も打撃を受けていた。海外の材木が入ってきて、杉檜がさっぱり売れなくなってしまっていた。農業も政策に揺さぶられて、金づくの仕事に成り下がった。けれども、金を得たければ街へ出た方がよっぽどいい。若者たちは、次から次へと村を立ち去った。

その年、強い強い雨が降って、街では大きな被害が出た。渡瀬ダムが小さいせいだと街の人びとは言った。不思議なことを言う奴らだ。百年以上も人が住まなかった場所には、それなりの理由があるのだ。そこに家を建てておいて、それが流されたのはダムのせいだと言うのはわがままというものではないだろうか。けれども、僕は自分のことに精一杯で、親父の電話を愚痴と聞き流していた。そうこうする内に、渡瀬ダム改造計画はあっという間に決まってしまっていた。

次女の美杉に異変があると気づいたのは、そのすぐ後くらいだった。長女の絹子は四歳、美杉は三歳、三女の早穂は二歳になっていた。絹子は利発な子どもで、すぐに親たちの会話から言葉を学びとり、器用にそれを使いこなしていた。僕たちは彼女の成長ぶりを、眼を細めて喜んだ。それに比べると、美杉はのんびりとしたところがあり、這い這いも立ち上がりも遅く、ぷう、とか ぱあ、とか言っていつもにこにこしていた。僕たちは、それもまた眼を細め、個性と疑わずに、眼を細めていた。けれども、早穂が成長するにつれ、僕たちは不安になり始めた。

早穂は生まれ落ちたその時から、いっぷう変った子どもだった。眼をぱっちりさせて感情をはっきりと示す絹子とも違って、彼女の眼はいつも思慮深く周囲を観察していた。言葉を学び取るのは早かったが、特にそれを濫用するつもりもないようで、いろんな人びとの言葉を頷きながら引き受けていた。絹子よりも、ずっとずっと大人びた二歳児だった。そこへ来て初めて僕たちは、美杉が何かトラブルを抱えていることに気づいたのだった。

翌年、ダム工事が始まった。その冬、蚕糸が閉業し、親父も後を追うように死んだ。五十五歳という年齢で死ぬことは、そんなに珍しいことではなかったが、僕にはやりきれない気持ちが残された。親父と村に止まって、蚕糸を、村を盛り立てていく人生を選んでいたら。いろんなことはもう少し上手く運んだのかもしれなかった。けれども、僕には乗りかかった舟を下りることがどうしてもできなかった。

農地解放で周囲に地所を分け、蚕糸をぎりぎりまで支えた仲間本家はもうぼろぼろで、村で果たせる役割はもうほとんど残っていなかった。僕は僕で、仕事が佳境を迎えていた。僕は父の葬儀のあれこれをやっと済ませ、娘たちを眺めながら縁側の日陰に妻と陣取っていた。

「なあカヨ」
「はい」
「美杉には、田舎のがええと思う」
「あたしも・・・」
「ほだ。だで、ここにおってくれんか」
「ええよ。友だちもようけおるし、あたしにとってはここも故郷みたいなもんや」
「すまんな。落ち着いたら、僕は山へ戻る」
「山て・・・事務所?」
「ほうや」
「あたしら、置いてかれるん?」
「わかってくれ。もう望みはこれしかないで。僕は、全部捧げるつもりや。ほいで、認めてもらって、川の水を返してもらわなならん」
「ほいでも・・・」
「頼む」

下げた僕の頭の下で、カヨはクスリと笑った。何かがおかしくて笑っている様子半分、何かを嘲っている様子半分の不思議な笑いであった。そしてカヨは、ええよ、と優しい声で言った。

「残るわ。ここに。『仲間』も、三人も任せえ。あんたも、がんばり」
「カヨ・・・」
「休みの日は、戻ってきてな。あたしも、さみしいから」
「う、うん。もちろんや」

けれども、僕はほとんど村に戻らなかった。戻れなかったのだ。仕事が忙しくて忙しくて休みがとれなかったということもあったし、美杉のトラブルの原因についても恐れがあった。竜脈の呪い。ウランの力が人に害をなすものであることを早くから証明されていた。けれども、僕自身には変調はなかったし、家族にまで累が及ぶという話はほとんど聞いたことがなかった。けれども、もしそういうことがあるのなら、わずかでもその可能性があるのなら、僕はカヨや娘たちの近くに居るべきではない。そう思ったのだ。

4.草木あれ

長い長い石段。その頭上に、真っ赤な鳥居が立っている。そこに亮三は居た。数人の取り巻きが、手に手に棒のようなものを携えて、亮三を守っていた。僕は、黒々と血を浴びて、それを吸ってぎらぎらと光る鉈を手に立ちすくんでいた。月が境内を照らしているのに、遠雷がごろごろと響いていて、びゅうびゅうと風の吹く夜だった。

鉱山が住民運動の反対に遭い、規模を縮小することになった。表向きの理由はそうだったが、僕たちは僕たちで限界を感じていた。この鉱山からは、もう大した量のウランは出ないだろう。山師の僕もそう思ったし、アメリカ人の技術師もそう思っていた。もう僕にできることはなかった。早期退職の肩たたきを受けて、僕はむしろ憑きものが落ちたようにさっぱりとした気持ちでそれを受け入れて、村へと戻った。

休みがとれて気分が乗った時だけ戻るのとは訳が違う。綻びは、十日ほどですぐに見つかった。村人はひそひそと何かを語り、オオホンヤへの尊敬は失墜しているようだった。カヨは、未だ言葉の至らぬ美杉を絹子の嫁ぎ先へと預けて、夜な夜な家を後にしていた。家や地所の登記簿を入れた金庫が、株券や金貨などとともに、綺麗さっぱり消え失せてしまっていた。

カヨは、夜ごと外出しては、カミミヤへと訪れていた。後をつけた僕は、その本殿で見てはいけないものを見てしまう。五十を過ぎて、なお水の滴るようなカヨの肢体が、月光に照らされて妖しく蠢いていた。いつも口唇を噛んで僕の責めに耐えていた彼女は、ここでは獣のような声を上げて、犬のような格好で亮三を受け入れていた。

カヨが、絹子とも連れ立って美杉と家へと戻ってきて、何食わぬ顔で、ただいま、と言う。その後のことは、僕自身よく覚えていない。僕は数時間暗闇でひとり練り続けた悪態で彼女を迎えたのだと思う。彼女は、泣いて這いつくばって許しを乞うだろう。そんな期待はあっさりと裏切られた。身も財も投げだし、彼女は亮三を頼って、美杉の嫁ぎ先を斡旋してもらうように頼んでいたのだという。これはオオホンヤのためにしていることで、引いては逃げ続けた僕のせいだと彼女は上気した肌のまま言い放った。

そんなことをいったい誰が頼んだというのか。オオホンヤはもうその役割を終えた。村でできることなどもうないんだ。美杉は美杉の幸せを探せばいい。それがずっと家族と暮らすことであっても別にいい筈だ。そんな街の人間の理屈が渦巻く一方で、僕の奥底からは、赤黒い感情が迸り始めていた。よくもオオホンヤに泥を塗ってくれた。父がしてきたこと、僕がしてきたことを、そして僕は、金切り声を上げ続ける、初めて見るカヨの狂態を背にして納屋へと向かった。眼の前が真っ赤に染まっていて、何も考えられなかった。暗い鉱山の坑。犬になった女。そこから出てきた娘たち。もう一度やり直そう。最初から。みんなで。ここではない、どこかで。

「おまん、何をやらかいただ?」

亮三の声が震える。僕の声はもっと半狂乱なものになると思ったが、思いの外静かな言葉が口を突いて出た。

「おまんとは関係ない。わしらはわしらで暮らすだで。家族でな。ほうでも、おまんは許せんわ。わしも後でカヨんたのとこ行くがよ、お前を地獄送りにしてからだわ」
「何で、ほんなことを・・・」
「おまんが胸に手ぇ当てて考えればええわ。ひとんとの嫁によくもまあ」
「そら、おまんの逆恨みだで。村はな、もうにっちもさっちもいかんくなっとるんだわ。カヨさんとわしがな、二人三脚でようよう繋いどったんだわ。おまんが、何もかもから逃げて、好きなことやっとる間、ずっとずっとな。おまんが誰を殺いてもうたやらは知らん。ほうでも、地獄行きはおまん一人だけだわ」
「なにを・・・」
「おまんよう、その何や、原子力? そこでようけ働いたら、川を返してもらえるて本気で思ってたんか」
「ほうや。鉱山はあかんくなったけど、ほれさえ上手くいっとれば、そうなったわ」
「それが違うで。鉱山が上手くいったらな、ゲンパツはできるかもしれん。ほうでも、川は返してもらえんわ。街の奴らちゅうのはそういう奴らだわ。表はええひとぶっとるけどな、自分のもんは自分のもん。他にでけても自分のもん。水一滴返すつもりはねえ。あいつらに、竜神の掟は通用しねえのよ」
「ほんなことは・・・」
「やったら、街のもんが何か返してくれたことがあったけ? ゆうてみ?」
「ほいでも・・・」
「お前もクニオも頭がええ。頭がええから見失う。あいつは村に残って教師やっとったわ。みんな頭ようなりゃ、村も安泰やとか言うてな。ほうでも、あいつが可愛がった子んたは、ぜえんぶ村出て行って、帰って来ねえわ。俺はな、ばかじゃ。ばかじゃからようわかる。頭のええ奴は村を出る。村を出たもんは、街の理屈に染まって帰ってこねえ。ばかのじじいと、ばかのばばあが、取り残されて死んでくだけだわ」

殺すなら殺せ、と亮三は嘯いて仁王立ちに立つ。若衆たちは人垣を作って僕の前に立ちはだかった。村の守人は上杉亮三なりと。みんなそう言うのか。僕がこれだけ家族と会うのも我慢して、暗い坑で戦ってきたというのに。犬のように女を這いつくばらせるこの男が正しいと言うのか。僕は鉈を振り捨てて、後ろを振り返りもせずに石段を駆け下りた。逃げるつもりもない。亮三の屁理屈に納得した訳でもなかった。だったら。おまんが全部背負ってみろ。村も、川も、坑も、僕が受けた呪いも、全部くれてやる。そう念じて、僕は車に乗り込んで村を後にした。そうだ、早穂も迎えに行ってやらなくては。東京の大学で彫刻の勉強をしている筈だが。家族はやはりみんな一緒でなければ。

Ⅹ.講義

1.仮説

水野の老婆が、簡単ながら仲間喜八の話をしている間、教授はパイプ椅子の背に腕を組んで少し斜めに顎を乗せて、眼を閉じていた。寝てしまっているのかもしれなかった。老婆の話が終わって、かなり長い沈黙の後やっと吉田刑事が、それで?と促す。教授はうっすらと眼を開いて吉田刑事を見下ろし口を開いた。

「それで、とは?」
「その、仲間喜八が生きていて、この村のどこかに・・・」
「そんなことは言っていない。仲間喜八は確かに平成五年に死んでいる」
「でも、犯人だと・・・」
「犯人だ。そのことは村人の誰もがわかっている。謎があるとすればその手段だ」
「手段? どのようにして殺したか、ということですか?」
「そのとおり。二十年前に死んだ人間は、いかにして現代の人間を殺せるか、という問題だ」
「そんなことは不可能です」
「そうでもないよ。ちょっと書き出してみようか」

教授はパイプ椅子から立ち上がり、会議室の隅にあるホワイトボードをがらがらと中央へと引き摺ってくる。マーカーを手に取ると、不思議なことに確かに大学教授の風体だ。突然威厳が増したように見える。さらさらさら、とマーカーを滑らせる教授の腕が鳥の翼のようだった。

・第一の仮説:小川美穂が仲間喜八の代理殺人をおこなった
・第二の仮説:それ以外の誰かが代理殺人をおこなった
・第三の仮説:仲間喜八は生存している
・第四の仮説:仲間喜八の祟り

まあこんなとこかな、と呟き、教授はマーカーを戻す。

「順番に潰していこう。第一の仮説。小川美穂は、実は仲間喜八の孫に当たる。彼女は、何らかの方法により二十年前の惨劇の真実を知っていて、代理復讐にやってきた。上杉さんが主張しておられるのはそこだろう。しかしこの仮説は間違っている」

間違っとるて?と上杉の古老が返す。

「間違っている。小川美穂の母親は、仲間早穂ではないからだ。戸籍謄本によれば、小川美穂の父は小川佐一、母は小川光世で旧姓は高原。仲間のイットウとは何の関わりもない」

ご覧になるかな、とクリアファイルをひらひらと出したところへ、上杉の古老が飛びついて眼を走らせる。

「ほうな、こんだけ似とって。他人の空似や言うんですか?」
「そう言われても、事実だから仕方がない」
「名を、変えとるんじゃあないかね」
「そんなこと理由もなく認められるわけがない。だがそこを排除するために、高原光世の高校時代の卒業アルバムをコピーさせてもらってきた。この人物が本当に小川くんの母御なのかどうかは、この場では彼女の証言に依るしかないが・・・」

言いながら教授はもう一つクリアファイルを出してわたしに渡してよこす。少し手が触れ、教授はにっこりと笑う。わたしには、教授の真意はまだわからない。けれども、教授の微笑みははっきりと告げていた。僕は味方だ、と。わたしは一度眼を閉じて深呼吸をする。眼を見開くと、そこには母が居た。記憶の中の母よりもずっと若く、ずっと幸福そうであった。母はすぐに見えなくなった。クリアファイルの上に、ぽたぽたと水滴が落ちた。

わたしには、洗面所に行って顔を洗う時間が与えられた。亜由実がついてきてくれて、背中をさすってくれた。

「本当に従妹じゃなかったんだ」
「本当にね・・・」
「でも、あたしは美穂の味方だから」
「ありがとう」

わたしは一つわだかまりを胸に残していたが、亜由実に言うべきことでもないと思って黙っていた。顔を洗って髪をピンで留め直し、会議室へと戻った。

わたしが離席している間に、区長さんが和菓子とお茶を配って回っていたようだった。それらが人びとの腹の中に収まるのを待って、教授は話を続ける。

「もちろん、今は彼女が『仲間』イットウとは関係がなさそうであることがわかっただけで、彼女に何の動機もないことは立証できない。どのみち我々は、そのひとに全く動機が【ない】ことを立証などできはしないのだ。しかし、少なくとも動機面という点で言えば、彼女が犯人である可能性はかなり後退したと言えるだろう」

「そうなってくると、次に第二の仮説。村人の誰かが仲間喜八の執念を実現させた。しかしこれは棄却される。小川くんが言うには、殺人があったとき、茶室は密室だった。したがって、余人がこの殺人を実現することは不可能なのだ」

区長さんが、ほい、と挙手をする。剽軽ではない方の区長さんだ。何か積年に思うところがあるのだろう。少し泡を飛ばしながら、口を開いた。

2.密室

「密室じゃなかった、ちゅうことはありませんかね」
「というと?」
「戸に鍵は掛けたかしらん。ほうでも、窓の方は小川さんにはよう見えなんだちゅうことがあるでしょう。ほいで、彼女がぐったりしたところでそっからひとが入ってきて」
「区長さん」
「はい」
「その仮説を採択するならば、容疑者は数人に絞られる。あんな小窓を潜れるのは、子どもか、小柄な女性でしか無理だ。しかし水野さんを含めて、この村のお年寄りの女性には老人の腹を正面から一突きにしてのけるのは無理だろう。都合、殺人が可能になるのはあなたの娘御以外にはない。あなたが主張するのはそういうことですか?」
「ほうな、ほうなわけはないでしょう」
「しかし、あなたの娘御は、確かに仲間喜八の孫にあたるわけでしょう? しかも、彼女の母親は・・・」

先生!と区長さんは真っ青になって教授の言葉の続きを打ち消す。

「それは、それはいくら何でも・・・」
「確かに失礼だ。だが区長さんが言っているのも同じことですぞ。村人の誰かを指さすようなことは慎んだ方がよい。僕はとっととこの村を去るから構わないが、あなたはずっと村に留まるのですよ」

区長さんは少ししょげて黙り込む。引き取って、教授が口を開いた。

「いずれにせよ、仲間亜由美さんに殺害は不可能だ。彼女はいつも旅館内を忙しく動き回っていて、アリバイ証言には事欠かないだろう。川を渡って石段を登り、中の様子を探りながら頃合いを見計らって忍び込むなどという芸当ができる筈もない。故に、他の誰かによる代理殺人の仮説は、やはり不可能なのだ」

ではやはり喜八が?と吉田刑事が生存説に固執する。

「新聞のバックナンバーを見る限り、焼死体の歯の治療痕が一致したということは書かれている。これを覆すようなトリックはよく推理小説でも用いられるところだが、どうだろうね? だったら、なぜこんなに年数が経つまで敵を放置しておいたのかがわからない」
「それは、そうですね」
「そういうことだ。仲間喜八生存説の可能性は低いだろうな」
「すると、もう仮説がなくなってしまいますが」
「いや、あるだろう」
「祟り・・・ですか」
「そうだ」

教授の、重く確信に満ちた返答に、室内の空気もじっとりと重くなる。およそ科学者が言いそうにない言葉だけに、断言された言葉の重みは尋常ではなかった。押し潰されそうな心持ちになりかけたところへ、教授が間をとった口調で続ける。

「正確には、死んだ後でも作動するような罠を仕掛けた、ということになるかな」
「罠、ですか」
「そうだ」
「それは、一定の時間が経つと短刀が飛んできて腹に刺さるような?」
「そんな偶然に賭けたのでは、目的の人物への復讐が叶うかどうかわからない。たまたま座った全然違う村人に当たってしまう可能性だってあるだろう。そうではない」
「ではいったいどのような?」
「鮎だよ。黄金の鮎だ」

上杉さん、と教授は振り返って古老に訊ねる。

「上杉さんは、平成六年の火災後、『金の鮎』がどうなったか知っていますか?」
「ありゃあ、置いてあったんじゃわ。カミミヤの本殿前に」
「警備はどうしてたんです? 仲間喜八は死んでいなかったわけでしょう? 戻ってきて襲撃に来るとは思いませんでしたか?」
「ほうやが、まあ一月になるで、ええやろ言うて、カミミヤが言うて」
「警備していなかったんですね」
「ほうです」
「つまり、仲間喜八はカミミヤに押し入ることも放火することもできたのに、鮎は置き捨て、自分の家屋敷の方に火を放って自殺した」
「まあ、その、そうなるんかな? わからんけども」
「それで、鮎はどうしましたか? 偽物ではないかとは思いませんでしたか?」
「ほんな、毎年祀りで見とるもんですし。ほれにもうね、持てばわかるんですわ。どえらい重うて。偽物なわけないです」
「つまり、特に検査などはしていない?」
「しとりません」

ところが、と教授は踵を返してホワイトボードにもたれてマーカーを弄る。

「ところが、うちの大学じゃあ、検査をしたんですよ。切片をとってね。成分検査をやりました」
「いやほうでも、さっきは見とらんて・・・」
「いや。実は見たんですよ。いや本当に重かった」
「どういう・・・」

古老は教授の開き直った二枚舌の真意がわからず、もごもごと口を濁した。たぶん、室内の全員がよくわからなくなっていたのではないだろうか。わたしはというと、むしろ教授がやっとそこを認めてくれて一安心といった心持ちだった。

3.情け

「つまり、どちらかが偽物ということになる」
「ほうでも、純金の偽物なんてどうやって作るだん?」
「そう。それが難しい。だからこそ、純金には価値があるとされてきた」

一同、眼をぱちくりとさせて教授を眺めるしかなかった。一方教授はと言うと、何やら調子が上がってきたものと見えて、旅館のスリッパを履いたまま、だん、とパイプ椅子に片足を掛けて、まあいいや、と皮肉に笑った。

「上杉亮三氏は、第二の鮎を見ていたく驚いていたという。尋常の驚きではなかったと。そうだね? 小川くん」
「は、はい」
「どんなふうだった? 慌てていた? 怖がっていた?」
「最初は驚いた感じで・・・十秒くらいしてから怒り始めた、と思います」
「つまり、すぐに何かに気がついた様子だった?」
「そうです」
「つまり、上杉亮三氏は、十秒でからくりに気がついたのだ。だがここに列席の皆さまには謎が解けない。それは、ここに居る全員がおばかであるか、あるいは、ここに居る人びとが知らなくて、上杉亮三氏だけが知っている情報があるかのどちらかなのだ」

上杉さん、と教授は、今度は亮三の妻であったと覚しき人物に声を掛ける。

「・・・はい」
「上杉亮三氏の体調はいかがでしたか? 何か病気などはされていませんでしたか?」
「は、はい。あのう、主人に口止めされておりましたもんで、申し訳ないことですけれども、その、癌でした。もう何年か前から、体中でした。年も年なので、すぐにどうこうではなかったのですが、相当苦しんどりました。お医者さまが言うには、今年限りじゃろうて・・・」

ありがとう、と教授は一言礼を言うと、椅子に乗せた脚を外してどっかりと腰掛ける。そして、眼を瞑ってしまった。先生、と数秒間の沈黙に耐えられず声を掛けたのは吉田刑事だった。教授はうっすらと眼を開けて彼の方を眺める。

「どうしました?」
「いや、その、謎解きの続きを・・・」
「え、わからないんですか?」
「申し訳ないのですが・・・」
「偽物の鮎には特徴がある。第一に、それは純金と同じくらいの重さである。第二に、それを何日かおきに取り出して磨いていた人物は、癌に冒されていた」
「・・・だから?」

みなさんはどうですか、と教授は輪に向かって話しかける。誰も口を開く者はなかった。わからないからなのか、わからないふりをしているのか、わたしにはわからなかった。けれども、わたしの脳裏には恐ろしい答えがぐるぐると回っている。少し待って、教授は再び口を開く。

「第二の鮎には、ウラン鉱が含まれていた。比重はどちらも立方センチメートルあたり十九グラム程度。いろいろな経緯から考えて、その恐るべき『呪いの鮎』は、平成六年、本殿の前に置かれていた方のものだった。だから、蒲公英は突然変異をし、旅行客の中には、病気が治ったと喜ぶものがあった」
「ウラン鉱・・・そんなものが簡単に入手できるのですか?」
「鉱山から持ち出したのか、他の方法で入手したのかまではわからないな。僕も『山師』の力についてはよく知らないのだ。明治時代に、山師と自称する詐欺師が多く現れ、山師の権威も地に堕ちた。そのせいかどうかはわからないが、山師の技術と文化は消滅してしまったのだ」

それで、と吉田刑事が話を継ぐ。

「それで、事件はどう説明できるんですか」
「上杉亮三は、自身が癌に冒されていることは知っていた。そこへ、仲間早穂にきわめてよく似た人物が登場する。彼女は、私の元には金の鮎がある、と言い出した。上杉亮三は初め驚き、やがて喜八の仕掛けた罠に気がついた。しかし喜八にもわからないことがあった。眼の前に居るこの少女は何なのか。仲間喜八の縁者であることは疑いがない。しかしざまあみろと指を突きつけてくる訳でもない。亮三は推測する。たぶんこの少女は、何も聞かされてはいないのだ、と」

「亮三の心中は煮えくり返っていた。そこまでやるか、という気持ちだっただろう。しかし、仕返しすべき相手はもう死んでいる。そこで亮三は、あることを思いつく。霊魂というものがもしあるのならば、何とか空中でせせら笑っている喜八に一矢報いたかったのだな。しかし、眼の前の少女にそこまでの社会的ダメージを与えてよいものかという呵責もあった。だから、彼は『情け』を与えることにしたのだ」

「つまり、上杉亮三は、彼女に罪を着せて自殺した? 『情け』というのは、正当防衛主張の可能性を残したということなんですか?」
「そういうことになるな。何も大仰な推理など必要ない。小川くんが密室だったと主張しているのだから、犯人は小川くんか上杉亮三自身か、あるいはその主張自体が嘘で、小川くんが誰かを庇っているか、そのどれかにしか正解はないのだ」

蛙たちはもう寝てしまったのだろうか。しんと静まりかえった戸外。室内でも、誰も咳払いひとつせずに押し黙っていた。時折漏れる衣擦れの音が、みんなの居心地の悪さを物語っていた。

4.選択

沈黙を破ったのは吉田刑事だった。仕事とはいえ、損な役回りだ。わたしは、第一印象とは裏腹に、この刑事に対してかなり同情的になっていた。

「それでは、金の鮎はどこに?」
「金の鮎なら、本殿に収まっている」
「しかし、あなたは偽物だと・・・」
「亮三氏が死の際に入れ替えたのだよ。今収まっているのが、金の鮎だ」
「では、偽物はどこに・・・」
「ちゃんと探されたのかな?」
「それは、もちろん。建物の中は隈なく」
「貴重品だと思って探すから見つからない。亮三氏にとって、あれは何の価値もないどころか、村に害をなすものだったのだ。小川くんの話では、大した時間も掛けずに彼は戻ってきている訳だから、近いところで、人が掘り返す訳がないようなところに埋めたんじゃないかな。あの豪雨の後だ。掘って埋めた箇所は、若干落ちくぼんでいる筈だから、すぐに見つかるだろう」
「では早速」
「早速?」

教授は俄然やる気になっている刑事を訝しげに見る。吉田刑事も、教授の態度が却って訝しかったものらしく、怪訝な表情を返した。

「これはね、単なる『物語』だよ。そんなものを追ってどうする?」
「どうする、って・・・しかしですね」
「明日には舟に乗っていろんな連中がやってくる。そこには記者も居るだろう。君はどうやって説明する? 二人の男が一人の女を獲り合った。獲られた男が逆上して自らの一家を惨殺。その後、恐ろしい罠を仕掛けた後自殺。罠に掛けられた男は二十年騙され続けて自殺した。何と面白そうな話じゃないか。君は記者会見でそんなことを言うのか? 細々と、温泉と旅館と金の鮎だけで生きてきたこの村はどうなる?」

「しかし、事実は・・・」
「世の中に『事実』などないよ。あるのは、生き残った者たちが語る言葉だけだ。喜八も亮三も死んだ。生き残っているのは、ここに居る人びとなんだ」
「では、あなたはいったい何のために、あんな話を・・・」

選ぶためだ、と教授はぼそりと呟く。吉田刑事に話し掛ける口調ではなかった。それは、地中深くから響くように、静かに、床を滑って広がっていった。

わたしは、母の卒業写真のコピーを握りしめる。お母さん。わたしのお母さん。わたしを助けて。わたしは。わたしは。やがてわたしは意を決して、居住まいを正す。顔を上げたところで、教授と眼が合った。教授は、優しく眼を細めていた。授業で学生の意見を訊ねるように、微笑み、答えを促していた。

◇◇◇

「わたしが、殺しました」

凜とした調子で、美穂の声が響く。僕はびっくりして、傍らの美穂を見やった。横座りに座っていたはずの彼女は、いつの間にか正座になっていて、すっと背筋を伸ばして、どこか遠い、虚空を見ていた。美穂、と喉まで声が出かかったが、彼女の張り詰めた空気に気圧されて声が出ない。やがて彼女は、両の手を突いて深々と頭を下げた。地中深くから、彼女の声が響いてくる。

「どんな罰も、受けます」

涼やかに。透き通って。美穂。いったい何を言っている? そんな訳がないじゃないか。今、教授が全て種明かしをした筈だ。けれども、僕は声が出せなかった。誰も、何も言わなかった。押し黙って、下を向いていた。美穂は刑事と二言三言言葉を交わし、そして扉の向こうへと消えていった。

エピローグ

1.さようなら

美穂は、殺しましたの一点張りで、他に何も語ろうとしなかった。吉田刑事は、物証やら何やらをどうにか組み合わせて、老人のちょっとしたいたずら心が惨事を招いたというような調書を拵え上げたようで、彼女は不起訴処分になった。

世間はひとときの間だけ田舎で起きたちょっとした不祥事を騒ぎ、そしてすぐに忘れてしまった。彼女はというと、学校を休みがちになり、とうとう夏休みが終わるのを待たずにやめてしまった。僕や僕の家族は、どうにか説得を試みたが、彼女はにっこりと微笑むばかりで、決意を翻すことはなかった。

「おじさん、ちょっと相談したいことがあるんですが」

ある晩、変らぬ夕食の後のひととき、美穂は僕の父に対して居住まいを正して話しかけた。父は開いていた新聞を閉じて、ちらと美穂に眼をやる。

「あの、わたし、あの家売ろうと思うんです」
「売る?」
「はい」
「どうして?」
「ちょっと、まとまったお金が欲しくて。それで、もしよかったらなんですけど、おじさん、買ってもらえませんか?」
「お金って・・・それで、どうするの?」

美穂は首を振る。あの夜以来、美穂はいつもこうだ。妙なところに壁があって、にこにこと微笑んでいるのだけれども、がつんとその壁に当たると何も返って来なくなる。父は嘆息して、それでもどうにか笑い顔を作って、わかったよ、と言った。

「美穂、お前、何考えてんだよ」

美穂を自室に引き込んで問いただす。美穂は、二の腕を掴まれたまま嫌がりもせずに、僕の部屋へと入ってきた。相変わらず、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、まっすぐに僕を見返している。僕はなぜか少し苛々して、言葉を荒げた。

「お前さ、その笑い方、やめろよ」
「どうして?」
「何か、腹立つんだよ。何考えてるかわかんなくってさあ」
「裕太」
「うん?」
「座って」

ね、と微笑みを深くして首を傾げる美穂に気圧されて、僕は手を放して椅子に座り込む。美穂は、ベッドの縁にちょこんと尻を掛けて座った。あのときと同じように、背筋をぴんと伸ばしていた。真っ白なワンピースが蛍光灯の光を反射して眩しいほどだった。

「わたしね、空っぽだったのよ。お父さんが死んでから」
「う、うん」
「裕太は、それでも、いつも居てくれた。わたし、すごく幸せだったのよ。本当に。だから、裕太になら、何でもあげようと思ってた。うちのがらくたも、家も、体も、何でもよ。オメカケさんでも、セックスフレンドでも、何でもよかった」

にっこり笑いながら言葉を紡いでゆく美穂。僕はなぜだか何も言えなかった。頷くことさえできなかった。どうして。どうしてお前は、過去形で語るんだよ。僕は、心中寒くして、美穂の言葉を待つしかなかった。

「でも、だめだった。ううん、そうじゃないね。だから、だめだった。わたしは空っぽで、わたしには中身がなくて、わたしは・・・」

美穂は探した言葉が見つからず、その眼は虚空を彷徨う。数秒後、ふう、とわざとらしくため息をついて、再び僕を見てにっこり笑って見せた。

「まあ、そういうこと。ね、裕太。わたし、綺麗かな? 魅力的に見える?」

僕はぽかんと口を開けたまま、馬鹿みたいにひとつ頷く。

「そう? ありがとう。そうなのかもしれないね。そういうこと言ってくるひとは何人か居た。でも違ったの。わたしは、醜い獣だった。ひどい人間だった。だから、これ以上裕太を汚せない。だから、ごめん」

そんなことがあるものか。美穂は、とっても綺麗だ。それに、村の人たちを庇ったんじゃないか。学校のことだって、お前に何の非もあったわけじゃない。物珍しげに寄って来る馬鹿者が、よってたかってお前を傷つけただけじゃないか。いろんな言葉が脳を飛び交って、でも、どれも喉から向こうへは出なかった。僕は、ぐちゃぐちゃになった頭のまま、椅子を飛び出して美穂をベッドに押し倒す。美穂は、ちょっとだけ驚いたような顔をしたが、やがてまたあの微笑みを戻して僕を見据えた。

「裕太。わたしは、汚い。だからやめて。裕太が、汚れて傷つくだけだから」
「そんな、そんなこと・・・」

僕は、白いワンピースに手を掛けてびりびりにしてやりたかった。簡単なことだ。美穂の肩に手を掛けて左右に引くだけだ。でも僕の手は動かなかった。僕の手が老人のそれになったように錯覚する。『情けだ』と聞いたはずのない声が頭の中を反響し、僕はそこから何一つ動けなくなっていた。

さようなら、と告げて、美穂は部屋を去る。金縛りこそ解けたものの、僕は彼女の背を追うことができなかった。彼女は、家族にも一言二言告げて、僕の家を出て行った。

2.巴

教授、と僕は埃にまみれたまま話しかける。今日は家族総出で、出て行ってしまった美穂の家を掃除することになった。父に駆り出されて、叔父の彼までが犠牲になったという訳だった。彼は、碧のペイズリー柄のバンダナを三角にして鼻と口を覆い、小脇にハタキを挟んで骨董品の一つ一つをメモにとっていた。普段の格好つけの彼には酷く似つかわしくない風情であった。

「何だ?」
「僕、やっぱりちょっと腑に落ちないんだけど」
「何が」
「偶然よく似た顔の人間が居て、その親が偶然質屋をやっていて、偶然そこへ金の鮎を質入れに来た人物が居た。何だか出来過ぎてやしない?」

教授は銀行強盗のまま僕をじっと見る。やがて、ぷいと眼を逸らして、一メートルほどもある狸の置物にハタキを掛け始めた。

「別に・・・もうお前に関係ないだろう」
「あるよ! だって美穂はさ・・・」
「お前・・・」

教授はもう一度振り返って、僕を頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺める。やがて、ぽいとハタキを放り出して、僕の首根っこを掴んでぐいと引っ張る。僕は、美穂がよく勉強に使っていた座卓の部屋へと引き込まれた。母が用意してくれた麦茶のケトルが、大粒の汗を流していた。

「裕太」
「う、うん」
「特別サービスで、もう一つ『物語』を話してやってもいいぞ。だが、お前の選択は二つだけだ。それ以外の選択はない。それでもいいなら、話してやる」
「二つって、どんな二つだよ」
「全部とるか、全部捨てるかだ。いや逆だな。全部捨てるか、全部とるかだ」
「意味がぜんぜんわかんないんだけど・・・」
「だからお前は馬鹿なんだ」
「な・・・いいよ。いいから話せよ」

よし、と教授は頷き、タオルで顔の汗を拭う。ガラスのコップに麦茶を注いで、ひとつを僕の方へよこし、もう一つを、ぐい、と一飲みにした。

「『仲間』家の『血』に『呪い』が混ざったと言ったな? あれは竜脈、つまりウラン鉱への接触から始まった。ガンマ線の放射がまず、仲間喜八の身体に影響を及ぼした。それがどの程度だったかはわからない。次に、次女の美杉に発達障害があった。となれば、三女の早穂にも何らかの影響があったのかもしれない」
「それは・・・どういうこと?」
「平成九年、特別養子縁組制度が発足した。孤児に対して養父母が実父母を名乗れる制度だ。早穂は、美穂を生んで早くに病没した。それを、美穂の両親が引き取った。特別養子縁組制度を用いた場合、戸籍には養父母であるという痕跡は残らないようになっている」
「でもそれは証拠が・・・」
「ないな。だが小川くんには確信があった」
「確信、ってどういう・・・」
「小川くんの母親の、高校生時代の写真を見せただろう。年の離れた母親が自分とかけ離れていても特に疑問は持たないだろうが、同い年の頃の写真を見せられたらどうかな?」

あっ、と僕の喉元から小さな声が漏れた。あの時、教授は美穂にわざわざ手渡しで、卒業写真のコピーなるものを手渡していた。あれが、美穂へのメッセージだったのだ。記憶どおりの母親。けれども、今の自分とはまったく似ていない。美穂はあの時、既に確信を得ていたのだ。

「教授、あんたが・・・あんたのせいで・・・」
「それは違うぞ。すべては小川くんに委ねられていた。小川くんは、村を捨ててもよかったし、村を救ってもよかった。黙ってさえ居れば、自分は無罪放免。村は好奇の目に晒されて崩壊する。自分が手を挙げれば、自分は傷つくが、村への傷は最小限で済む。誰が彼女に頼んだ訳でもない。すべては、彼女が選んだことなんだ」
「そんな・・・だけど、彼女は出て行ったじゃないか。何もかも捨てて。生きてるのか、死んでるのかも・・・」

盛り上がってるところ悪いが、と胸ぐらに掴みかかる僕にひらひらとスマートフォンを見せる。テレビ電話のアプリの履歴に、小川美穂、とあった。日付は、一昨日の二十時十六分。

「あんた、連絡とってんのか」
「悔しいか。ばかめ。さあ選べ」
「選ぶって、何を?」

「彼女は選んだのだ。『仲間』という生き方をな。『血』と『呪い』に満ちた人生だ。ガンマ線の影響は孫にまで至るのか、そこに科学的結論は出ていない。彼女には喜八の血が流れ、彼女の体にはべっとりと亮三の血がついている。彼女は、それを『汚れ』だと言っていた。だからお前の元を去って、連絡もして来ないのさ。お前ができることは二つに一つだ。彼女のすべてを受け入れるか、すべて聞かなかったことにしてこのまま生きるかだ。すべてを捨てて彼女の元へ行くか、すべてを忘れて彼女を見捨てるか」

そんなの、と僕は言いかけて、教授に掴みかかった手を放す。教授は、やれやれ、と呟いて襟を直し、バンダナを再び巻いて廊下の奥へと引き上げていった。僕はぼんやりとして、汗を流す麦茶のケトルを眺めていた。

3.百々

バスを降り、広場を突っ切って川面へと出る。陽はとっぷりと暮れ、稜線にはもううっすらとその残滓が残るばかりになっていた。どうどうともの凄い音がして、水流が逆巻いている。五十メートルほど上手に、太い二本のワイヤーで釣られた吊り橋が見える。ぎしりぎしりと揺れる橋を、急流を下に眺めながらようように渡った。旅館に辿り着くと、いらっしゃい、と快活な女性の声が響く。

「あら、裕太くんじゃない。こんばんは。久しぶりだね」

亜由実さんが上品な和装で現れた。法被着のまま大股で歩いている様子しか覚えていない僕は、すっと襟足の抜けた様にどぎまぎする。逃げるように村を去ってから、僕は一度もここに脚を踏み入れたことがなかった。その弱みが、余計に彼女の顔を見づらくさせる。彼女は、昔のように盥を手に持って、僕が框に座り込むのを待っていた。

「あ、いや、その、脚はいいから」
「何で? あたしが拭いたんじゃ嫌なの?」
「そういう訳じゃないけど・・・」

おとうさーん、と呼びかけようとするのを縋って止め、彼女の言いなりに、框に腰を下ろして靴と靴下を脱ぐ。少し熱いくらいの湯が、指の間に滑り込んでくる。

「もう来てくれないかと思ったよ」
「ごめん」
「いいの。あんなことがあったから。仕方ない」

亜由実さんの指が絡まってきて、僕のリンパ節を刺激する。僕は少し眼がかすんだようになって、彼女の為すがままになっていた。彼女の親指の腹が、足の爪の一つ一つを押すと、チクンとした痛みに伴って、ふわふわと心地のよい刺激が脚全体に広がった。

「それで?」
「うん?」
「わたしに、何か用があって来たんでしょう?」
「ああ。うん、その・・・」
「お婿さんになってくれる気になった?」
「いや、それは前にも・・・」
「冗談だよ。それで? 美穂のこと?」
「・・・そうなんだ。亜由実さんが知ってるかと思って・・・」

亜由美さんは手早く僕の脚をタオルで拭き取ると、よし、と誰にともなく声を掛けた。

「あの・・・」
「ねえ、村の様子、変ったと思わない?」
「ああ。うん水が・・・洪水でもあったの? あと橋が・・・」
「ダム管理所がね。水を分けてくれることになったの。夏の間だけ。だから、小橋じゃ渡れなくなって、吊り橋を架けたわけ」
「そうなんだ」
「全部、美穂がやったことだよ」
「・・・え?」
「何度も役所にも管理所にも行ってねえ。頭を下げて、書類を作って。どこからかお金まで持ってきてねえ」
「そんな・・・いったい、何のために?」

亜由実さんは僕の質問には応えず、開け放った玄関口から川面の遠くを見やる。やがて眼を戻し、僕の鼻先をぴたりと捕らえた。

「ね、裕太くん。オオホンヤをね、建て直そう、って話が出てるの。モライアワセで」
「モライアワセ?」
「絶えた家にね、花婿さんと花嫁さんを両方もらってくるの。それで、建て直すわけ」
「へえー・・・」
「花嫁候補は二人居るんだ。だけど、二人とも花婿候補が気に入らなくて話が進まない。裕太くんも立候補してみない?」
「そんな、いったい何を突然・・・」
「じゃあ、教えてあげない」

亜由美さんの意地悪な返しで、鈍い僕もようよう話が見えてくる。美穂は、ここに居る。お金を掛けて橋を架け、手間を掛けて水を取り戻した。いったい、何のために? 僕にはわからない。けれども、そのことで、彼女は村に認められたのだ。上杉亮三殺しの汚名を着た彼女が、どうしてそんなことを選んだのか、どうしてそんなことで村人に認められたのか、僕にはさっぱり訳がわからなかった。

「裕太くん、本当のことよ。美穂は、あたしたちの大切な大切な『仲間』なの。あなたに会えば、美穂はきっと揺らぐわ。街に連れ戻そうと思ってるんなら、あたしは教えるわけにはいかないの。裕太くん、美穂の、全部を受け入れられる? それは、自分のこれまで思ってきた将来を、全部捨てることよ? だから、何も言わずに・・・」
「亜由実さん」

うん?と彼女は遮られて眼を丸くする。教授にも言われてきたことだった。『血』と『呪い』を浴びた美穂。誰にも言えない秘密と、少しの人だけが知っている秘密を抱えて、ひとりぼっちの美穂。『呪い』は時を超えて薄まったのか? もしかしたら早くに死んでしまうかもしれない。もしかしたら、子どもを作ることはできないのかもしれない。彼女を幸せにしたいなら、全部受け入れるか、全部忘れるか。それだけだ。ただ、それだけ。僕は小さく息を吸い込んで、口を開いた。

4.われてもすえに

「亜由実さん。川のことは驚いたけど、大丈夫。僕は美穂に会う」
「本当に?」
「本当だ。僕が、そう決めたんだ」

ならいいわ、と彼女は少し凹んだ様子であった。もしかしたら、普段の冗談めかした調子以上に、好まれていたのかもしれなかった。それとも逆さまで、僕に美穂をとられると思っていたのかもしれなかった。彼女たちがひそひそと話し合うときの、鼻と鼻の近さに僕はいつも嫉妬していた。美穂にとっては従姉。じゃあ、亜由実さんにとっては? 僕は首を振って妄想を打ち消した。

「橋を戻って、向こう岸を下手へ行くの。川べたに食堂が建ってるわ。新しい建物。そこへ行けば、まだ居ると思う」
「食堂?」
「そうよ。お店はもう閉まってると思うけど、まだ中で掃除をしてる筈だわ」
「そこで・・・働いてる?」
「まあ、そういうことね」

曖昧な言い方をして、彼女は話を打ち切った。

「そういうことなら、うちに泊めるわけには行かない。ごめんだけど、荷物は持って出て行ってね?」
「ええ? でも、泊まるところは・・・」
「美穂のうちに、泊まりなさい」
「でもまだ建て直してないって・・・」
「オオホンヤはね。今は水野さんとこの空き家を借りてるから」
「美穂が嫌って言ったら?」
「土下座でも何でもしなさい」

ぽん、と本気で荷物を放り出され、僕は慌ててそれを拾う。背中の後ろで、がらがらと玄関の扉が閉まった。檜格子の嵌まったガラス戸の向こうで、亜由美さんは俯いて震えていた。笑っているのか、泣いているのか、僕にはよくわからない。でも仕方がなかった。僕は、この扉を開けて彼女に声を掛ける権利はないのだから。僕は放り出された靴下と靴を履いて、デイパックを背負って歩き出した。

黒々とした竜の背のようにして、夕闇の中を川が流れてゆく。やがてそれは、中州を境にして左右へと別れていった。僕は川沿いの道を街灯を頼りにして歩く。やがて数台分の駐車場が現れ、その奥にさっぱりとしたガラス面の多い、銀のガルバリウム張りの建物が見えてくる。檜の引き戸は閉まっていたが、手を掛けると、からからと開いた。

すいません、と声を掛けたが返事はない。そっと中へ入り、後ろ手に引き戸を閉めた。中は、屋形船を模したのか、中央に通路があり、左右に分かれて座敷が広がっていた。川面に向かって少し突き出した向きの建物は、どこの席からも、川の流れが見てとれるようになっている。僕はそっと中央の通路へと歩みを進める。その先に、ざあああ、という瀬の音が聞こえていた。

通路が途切れたところにアルミのドアがあり、それを開くと、川面へと続く石段が現れた。くねくねと石段を降り、建物の床を潜ると、大きな大きな滑り台のような構造物の頂上に出る。竹や材木を組んだその谷底に、月の明かりを映して薄緑のワンピースを着た少女が居た。プリーツの裾を引き上げて縛り、軍手をはめて、構造物の上にあるごみを拾っているようだった。

美穂、と声を掛けるが、僕にも自分の発した声はよく聞き取れなかった。それほどに、瀬の音が響いていたのだ。けれども彼女は、僕の気配に気づいたのか、背を伸ばしてこちらを眺めやる。月と街灯の薄明かりに照らされた顔が、にっこりと微笑んだ。何のわだかまりもない、懐かしい笑顔だった。その口元が動く。声は瀬の音で聞こえない。けれども、口唇の動きで僕にはしっかりとその言葉が届いていた。

「裕太。いらっしゃい」

水が、美穂の背後で背の低い滝のように落ちている。美穂はにこにことして、僕がおっかなびっくり竹を組んだ滑り台の上を降りてくるのを眺めていた。僕は、彼女から一メートルほどのところで立ち止まる。彼女は軍手を外してポケットにねじ込み、両の手で僕を手招きした。もっと寄ってこい、とその手が告げていた。僕は、その手が止まるまで、ゆっくりと歩みを進める。そのまま抱きしめられるほどの距離になると、美穂はようやく口を開いた。

「ごめん、なんにも聞こえないでしょう?」
「大丈夫。聞こえるよ」
「そう?」

少しだけ、声を張り上げている自分がわかる。けれども、月に照らされたここには何か特別な力が宿っているようで、僕はここを離れたくなかった。

「これが、『やな』だよ」
「『やな』?」
「そう。渡瀬やなへようこそ。裕太」

美穂は少し背を伸ばして、僕の耳元で囁いた。

5.祝福

「『やな』って、でもダムがあるんじゃあ、魚は捕れないんじゃ?」
「捕れないわ。でも不思議ね。街の人がたくさんやってきて、みんな喜んで料理を食べて行くわ。『やな』には、何か懐かしいものが詰まってるのね。きっと」
「じゃつまり、食堂を経営してるってこと?」
「そうよ。女子限定だから裕太は雇ってあげられないけど」
「女の人だけでやっているの?」
「そうだよ。『やな』を組むときだけは、バイト代を払って男の人に来て貰った。あとは全部、亜由実やお婆ちゃんたちと一緒に」

ざあああ、と瀬の音は止まるところを知らない。美穂を見下ろすと、染めたのか焼けたのか、少し髪が茶色がかっているのがわかる。その向こう、ぱっくりと襟ぐりの深いワンピースの奥には、日焼けした肌とそうでないところが露わに見えていて、僕の心臓は高鳴った。

「なあ、美穂」
「・・・なあに?」
「僕は・・・僕は、美穂のことが好きなんだ。だから、ずっと一緒に居ることにした。ずっとだ」
「裕太・・・」
「教授からも、亜由実さんからもいろいろ聞かされた。だからって訳じゃない。僕は僕で考えたんだ。ずっと。だからここに居る。僕が選んだんだ。高校も辞めてきた。親父にも殴られた。でも・・・」
「裕太」

美穂は強い語調で僕の言葉を制止する。僕は僕で、負けるもんかと美穂を見下ろして彼女の言葉を待った。美穂の眼は赤く光っていた。獣の気配。けれども、やがてそれは奥底に潜み、彼女は長い睫を下げて伏眼になる。

「ねえ裕太。わたしが『仲間喜八』の子孫だ、って言ったらどう思う?」
「えっ・・・と、別にどうも思わないけど・・・」
「そう。誰かから聞いたのね。でも、誰も確信はない筈よ。でも、わたしにはある」
「それは、お母さんの卒業写真のこと?」

そうじゃない、と美穂は一つかぶりを振る。

「オオホンヤは、貧しい人に、苦しい人に手を差し伸べる役目があった。先生ならきっとそう言うわね。でもわたしは違うと思う。『仲間』一族はね、きっと独占欲がとても強かったのよ」
「独占欲?」
「ひとのこころを・・・ね。わたしは、五時になったらお婆ちゃんたちを帰して、ひとりでお店と『やな』の掃除をするの。親切だから? そうじゃない。わたしはね、すごいね、って言われたいの。みんなに言われたいの。そうじゃなかったら、きっと狂ってしまう。『血』が、そうしろと言ってるのよ」

『血』という言葉。彼女は、瀬を越えて遠くを見ていた。地下水の湧き出る広場の方角を。

「裕太のこともそう。わたし、うちで金の鮎が見つかってから、薄々感じてたわ。わたしは、裕太のすべてが欲しい。二十四時間、三百六十五日。わたしのことだけ見ていて欲しい。他の女と楽しそうに話さないで欲しい。わたし、裏切られたらきっと裕太を殺してしまうわ。そして家に火をつけるのよ。わたしはきっとそういう人間なの」

だから、もう来ないで。言い捨てて、彼女は瀬の方を向いてしまう。小さな肩が小刻みに震えていた。僕は混乱した脳味噌のまま、そのか細い肩を見つめていた。ひとりぼっちの美穂。手を差し伸べさえすれば、問題は解決すると思っていた。けれども。これが、そうなのだ。金の鮎なんかじゃない。竜神の掟こそが、『仲間』一族を、そして今は二人の少女を、縛りつけている『呪い』なのだ。今すぐ教授に電話を掛けたかった。必死で中身のない知恵を働かせる。

すべて捨てて、すべてをとれ。教授は言っていた。学校を辞め、親父に殴られた。それですべてを捨てたと思い込んでいた。全然そうじゃないんだ。僕はまだ、何も捨てていない。だから、これを『呪い』だと思ってしまうのだ。僕はまだ、全然、街の人間なのだ。僕は足りない頭でパズルを組み立てる。きっとこれが最後のチャンスになるだろう。間違えてしまったら、きっともう美穂には届かない。

美穂、と声を掛ける。美穂はびくりと肩を震わせた。

「お前なあ、ここでごみ拾ってても、村のひとのこころは独占できないぞ。精々『ちょっと親切な変わり者のおばさん』になるだけだ」
「・・・どういうこと?」
「モライアワセでオオホンヤを建て直すんだよな? 花婿候補が決まっていないって」
「・・・そうね」
「だから、僕が立候補する。僕がオオホンヤだ」
「ええ? 何を言ってるの・・・」
「花嫁候補が二人居るって話だ。だから、どちらかが首を縦に振れば決まりだろ?」
「それはそうだけど・・・」
「一人はね、たぶん、いいよ、って言ってくれそうなんだ。僕は、もう一人の子の方が気になってるんだけど、でも彼女が嫌って言うんなら、話は自動的に・・・」

月の淡い光の中でも、彼女の耳が紅潮するのがわかる。こみ上げてくる感情を、肩を震わせて堪えているようだった。やがて美穂は、肩越しに僕をちらと見ながら震え声を漏らす。

「・・・ずるい」
「何が?」
「全部、わたしに言わせるつもりなのね?」
「違う。僕はずっと言ってる。ここで、ずっと一緒に居るんだ、って。美穂は、返事をすればいいだけなんだよ」

もう、と美穂はふくれっ面をして振り返る。ゆらゆらと彼女の小ぶりな鼻が近づいてきて、僕の口唇をくすぐった。

「いいわ。裕太。わたしの全部をあげる。でも覚悟してね?」
「僕も、全部あげるよ。気に入らなくなったら、八つ裂きにすればいい」
「ばか。でも条件がある」
「どんな?」
「高校は出て。お父様と先生にはちゃんと謝ってきなさい」
「でも、また離ればなれに・・・」
「バスが一日二本出てるから、ここから通いなさい」

わかった、と告げようとしたところへ、ふっくらとした口唇が近づいてくる。熱病のように熱い舌が滑り込んできて、やがて僕は敷き詰められた竹矢来の上に押し倒される。水流が僕の衣服を吸いつけて、僕はすっかり『やな』に掛かった魚のようになってしまった。彼女の瞳の奥で、紅い炎が明滅する。ざあああ、と滝のような音が、耳元で響いていた。


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