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【映画】「万引き家族」の気持ち悪さ

いまさら「万引き家族」を観た。

「万引き家族」は貧困や格差社会を描いた「左派系」映画という評判だったと記憶しているが、実際に観てみると単純な見方ができる映画ではないように思えた。

その理由は、リリー・フランキー演じる治が妙に気持ち悪かったことにある。

治への違和感の正体

リリー・フランキー演じる治は、柴田家で父親のような役割を担っている。
父親といっても強権的、支配的ではなく、だらしなくてたよりないが愛嬌のあるおじさんといった感じだ。

「万引き家族」の前半は「人情味がある疑似家族が、貧しさゆえに犯罪に手を染めながらもつつましく暮らす物語」のように進んでいく。しかし、後半は一転して一家が抱える暗く恐ろしい面が明らかになる。

治には当初から妙な違和感があるのだが、前半はコメディタッチな場面が多く気にならない。だが、後半になると違和感のすべてがつながって、治が異様な気持ち悪い存在へと変化していく

後半に起きる「事件」は、貧しさから「しかたなく」軽微な犯罪を行っているように見えていた治が、これまでも同様の「事件」を繰り返していることを容易に想像させるものだ。

治は貧しさゆえに「しかたなく」万引きや車上荒らしを行っているのではなかった。治には仕事も犯罪も金を稼ぐ手段として同価値であり、手っ取り早く行える犯罪を選んでいるだけなのだ

治への違和感の正体。
それは、治の犯罪を行うことへのハードルの低さだったのだ。

善悪の判断があいまいな、歪んだ倫理観を持つ男。
それが治という男なのだ。

高いハードルを越えられない人

治を筆頭に柴田家の人々が犯罪に加担しているのは「貧しいから」だ、という解釈が一般的だろう。だが、簡単に犯罪に手を染めるような人だからこそ貧しい境遇に追いやられるとも言える。

治のような学歴がなく社会性に欠ける人に一般企業でサラリーマンとしてまじめに働くのは難しいように思う。毎日決まった時間に会社に行く、命じられた仕事をきちんとこなす、複数人とコミュニケーションを取って作業を行う、そういった「普通」のことができない人がいるのだ。

さらに、社会ではコンプライアンスやハラスメントなど守るべき不確かな決まりが増え、「普通」であることのハードルをどんどん高くしている。
紙をめくるのに指をなめるだけで問題になる世の中では、善悪の判断があいまいで、犯罪への抵抗がない人は人間関係でトラブルを起こす。おそらく治は「普通」の人間関係を築くことも難しかったのではないだろうか。

自身の資質や境遇から、社会が求める高い「普通」のハードルを越えられない人はまともに働くことは難しい。

「万引き家族」を観て「問題は貧困にあるのだ」と思うのは分かる。
しかし、治のように「普通」でいることが難しく、人間関係から排除されがちな人は、現在の日本でまっとうな職につくことはできないのではないか。

やっかいな隣人たちを引き受けられるか

私たちは自由に人間関係を選べるようになったが、その反面、誰からも選ばれず人間関係を築けなかった人たちもいる。
柴田家には治を筆頭に「普通」ができず、関係性からはじき出された人たちが集まっていたのではないだろうか。柴田家に集まった人たちは、みんなが自由に振る舞った結果、誰も引き受けなかった人たちだったのではないか。

強制的に関係を結ばされる地縁や血縁といった結びつきは弱くなり、誰もが自分の付き合いたい相手とだけ関係を結べるようになっているなかで、やっかいでめんどうで支援が必要な隣人と積極的に関わり合いになりたいと思えるだろうか。

「万引き家族」は貧困を描いた映画ではある。
だが、貧困の元には「普通」ができず、人間関係からはじき出され孤立してしまう、「自由」の弊害があるのではないか。
そういった問いかけがなされているように思えてならない。


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