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【雑記】続・裸のヒューマン論

 前回は「SNSは拡大した私的空間が混在する野生の王国で、むき出しの野生のままに裸のヒューマンがウンコする場所」という考えを述べた。
 この発想は自分のなかで腑に落ちるところがあったので、追記を書いておく。

愚痴、それは感情の排泄

 SNSでは誰しも特に深く考えたわけではない発言をしてしまうことがある。Twitterでたまにバズる「特に具体例も検証例もない、なんかふわっとした説」もそのひとつだ

 これは一般的には「愚痴」というやつで、SNS上では裸のヒューマンのウンコのバリエーションのひとつとして現れているのだと思う。
 「愚痴」とは相談や提案という有益な回答を期待したコミュニケーションではない。たまった感情を吐き出したいだけだったり、そのとき自分が思ったことが出てしまっただけだ。おじさんのダジャレと同じである。

 「ツイートは脳のおなら」とはよくいったものだが、同じように「愚痴は感情の排泄」であると考えるとしっくりくる。

 だから良かれと思って「具体例は?」「データは?」と聞くと「理屈っぽい!」などという怒りが発生してしまう。

傷つきやすいのは裸だから?

 他人のツイートで傷ついてしまう人がいる。
 確かに悪意を持ったものやデマなど害意のあるツイートもある。しかし誰かの出産報告や、自分の好みを言っているだけのものに傷ついてしまう人がいるのは何故なのか。

 それは、SNSではむき出しの自分をさらし、裸のヒューマンになっているからではないか。

 私的な空間の延長だと思って、普段以上に自分をさらけ出している状態で不快なツイートに出会うと、まるで生身の自分が傷つけられたかのように過剰に反応してしまうのではないだろうか。
 一糸纏わぬ裸のヒューマンになって油断しているから、ウンコを踏んだぐらいで大騒ぎしてしまうのだと思うのだが、どうだろうか。

 裸のヒューマンについては、SNSと広く書いたが実際にはTwitterが特に異常で、ことさら裸のヒューマンになることを誘発してしまうのかもしれない。

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