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「オファーゼロから天皇杯優勝ストーリー」大崎玲央/ヴィッセル神戸<前編>

SCAMPUS(エスキャンパス)は、株式会社PAYFORWARDが運営する、サッカーに特化したオンラインセミナーサービスです。新型コロナウイルス拡大による自粛期間中は、様々なサッカー選手に彼らのプロフェッショナルなマインドや哲学、舞台裏のエピソードをインタビュー形式で深掘っていきます。

SCAMPUSインタビュー企画、第二段はヴィッセル神戸所属の大崎玲央選手です。
新型コロナウイルスの影響でトレーニングができていない大変な状況にも関わらず、Webインタビューに快く協力していただきました。
今回インタビュアーを務めた野村良平は大崎選手と友人関係であるため、より深堀した内容のエピソードを話していただきました。
(インタビュー・構成 野村良平)

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学生時代の大崎玲央

--今日はよろしくお願いします。まずは生い立ちについて教えてください。
大崎:ヴィッセル神戸所属、28才大崎玲央です。よろしくお願いします。生まれは東京で、1才くらいから親の仕事の都合でハワイに行って小6まで現地校に通っていました。
サッカーをやってた仲間が多く、監督も日本人で「プロになりたいなら日本でやったほうがいい」と言われて帰国して本格的にサッカーを始めました。マリノスプライマリーに練習参加したりしてましたね。

--学生時代はどんな感じだったの?
大崎:中学のマリノス時代は全然公式戦に出ていなくて、高校は横浜FCユースいったんだけど、そこでも出たり出なかったりで。ユースからトップ昇格の話は全くなくて、桐蔭横浜大に進学しました。大学時代が1番公式戦に絡んでましたね。
ポジションは1年生の時だけセンターバックで後はほとんどボランチで出てて。最終学年は関東1部リーグだったんだけど、Jクラブからのオファーはゼロでした。在学中に横浜FCとザスパクサツ群馬の練習参加には行ったんだけど、具体的な話しはこなくて。
4年の時は心のどこかでプロになれるだろうという過信があったのかもしれない。サッカーを辞めようとまでは思わなかったけど、この先どうしようかなと結構悩みましたね。

--大学卒業後は?
大崎:アメリカで1,2,3部クラブの合同トライアウトがアメリカであると神奈川大学の友達が誘ってくれて、リュックサック1つだけ持ってアメリカに向かいました。
トライアウトはすぐプロ契約されるわけじゃなくて、興味を持ってくれたクラブからキャンプに参加してって言われる。各国から200人くらいが集まったけど、1,2,3部のクラブ合わせて全部で20人くらいが話をもらってそれぞれのクラブに合流したみたいだった。

アメリカ2部でのプロキャリアスタート

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--アメリカってどんな環境なの?
大崎:トライアウトからはキャンプに俺だけ合流して。1ヶ月間キャンプに参加して、その間に練習生がたくさんきて、ダメだったら順番に帰らされる。みたいなシビアな感じ。でもいけると思ったし、これでダメだったら終わりだなと覚悟を持ってプレーしてました。
最終的にキャンプの終わりまで残ることができて、カロライナ・レイルホークスFC(NASL)からオファーをもらってそのままチームに合流しました。カロライナは2部の中位くらいのチームで、基本的にボランチで試合に出てましたね。
アメリカは1部だけ独立してて、2部で優勝しても上がれるわけじゃないから、1部でプレーしたかったら個人昇格するしかない感じで。
給料は日本円で月5万とかで、2週間ごとに振り込まれるから2万5千円ずつ(笑) でも試合に絡めたら数万円の試合給が入ってきて、平均して月10万円くらい貰えたから、なんとか1人でなら生活できましたね。

--アメリカに行ったのは良い選択だった?
大崎:学生の頃からメンタルが弱いと言われ続けてきて。試合に出れないことの方が多かったのでふてくさってしまったり、プレーが悪いと態度に出たり、それでさらにどんどんプレーが悪くなったりして。
全然試合中に走れない選手だったんですよね。素走りは人より走れるんだけど、試合では攻撃ができればいいっしょって思ってた(笑)
「デカくて、蹴れて、足元ある」という自負はあったりしたから。
アメリカでは技術面だけじゃなくてメンタルの部分を養えると思っていたから自分にマッチしていると思った。日本にいたときは実家暮らしで親がなんでもやってくれて、仲の良い友達もいて、っていう環境に甘えていた部分もあったと思う。
向こうでは飯ひとつとっても自立していかないといけない。アメリカは下手くそな選手もいるけど、気持ちというか、勝負所で頑張れる選手が沢山いたから刺激をもらった。

--アメリカの時に描いていたビジョンは?
大崎:もともと目指してたのはJリーグだったからアメリカにいる時も、Jに行くことだけを考えてやっていた。最初のシーズンはみんなの前で監督にめちゃくちゃ怒られて。1時間のミーティングで45分間俺が怒られてるとか(笑)
分析ビデオを見ながらお前がここ走ってないからダメだったんだとかよく言われましたね。試合には出れていたけど、1年目の終わりから2年目にかけて、このままじゃJリーグに行けないって思うようになって。
そのタイミングでメンタルが変わってプレー面でも体を張ったりとか、走るとか、そういうことを意識するようになった。
2年目が終わったタイミングで、契約延長も打診されて、1部のチームの練習参加のオファーもあったんだけど、日本に帰国することに決めました。どこのJクラブからも声がかかっていたわけではないけど、アメリカでの環境に甘えてしまいそうだったから全部断って日本帰国した。
Jクラブの練習参加行けたらいいなくらいの感じだった(笑)。

アメリカでの安住を捨てて、Jリーグに挑戦

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--日本に帰国してからは?
大崎:帰国してから色々模索して、ユースだったってのもあったから、横浜FCの練習参加出来ることに。
1週間程の練習参加中にFIFAクラブワールドカップに出場していたオークランド・シティFCとトレーニングマッチがあって、センターバックとして出場しました。アメリカでやってきたから、自信を持ってプレーする事が出来たからか、これでダメだったらもう仕方ないと思うくらい調子が良かったんですよね(笑)
モンテディオ山形にも練習参加したけど、横浜FCが興味を持ってくれてオファーしてくれたから、横浜FCに行くことにした。

--Jクラブに加入してからは?
大崎:当初はボランチとして評価されての加入だったと思うんだけど、ケガ人も多くてずっとセンターバックをやることになった。アメリカでもセンターバックをやることはあったけど、シーズンを通してセンターバックをやったのは初めてだった。
今思い返すと良かった時もあったけど、全体的にチームの足を引っ張っていた印象を自分では持ってます。でも当時の監督がセンターバックは経験が大事だと懲りずにずっと使ってくれたんです。本当に何回も自分のミスのせいで負けたりもしたし、色々叩かれたりもした。
アメリカ行って少しメンタルが強くなったと思ってたけど、自分のミスって失点したのが1回2回じゃなかったから1人でよくへこんでた。
89分良くてもラスト1分にミスったらアウトなポジションだけど、今までやったことが無かった新しい挑戦だったから新鮮で楽しかったですね。

足元で繋げるセンターバックへの片鱗

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--徳島からのオファーがきたときはすぐ決断できた?
大崎:横浜FCのときに徳島ヴォルティスから声をかけてもらって、横浜FCには拾ってもらっと思っていたから感謝はもちろんあったんだけど、少しでも早くステップアップしたいという気持ちもあってとても迷いました。
大学を出てアメリカで2年、横浜FCで1年たっていたから年齢的な焦りもあって…
徳島は外国人監督が就任することが分かっていて、ポゼッションサッカーをしたいということ、自分のことを重要なピースとして考えていることなど、プレー映像もしっかり見てくれた上でのオファーだったので嬉しかった。
横浜FCの監督が徳島にもいた人だったから相談もしましたし、残って欲しいと言ってもらえたけど、最終的に決めなきゃいけないのは自分だと思っていました。

--徳島に行くってきめたときの心境は?
大崎:徳島の方がJ1に上がりやすいとかは全く思ってなかったけど、それより徳島のスタイル、目指すサッカーに魅力を感じていた。センターバックで足元でちゃんと繋ぐみたいなことができる選手はあまりいなかったから、そこを極めたいなと。
慣れ親しんだ横浜から徳島県に行くことに対して抵抗はなくて、意外と新しい場所に行くのがすごく好きなんですよね(笑)その時は嫁と婚約していたし、橋を越えればすぐ神戸にも行けるし。

--徳島でのサッカー面は?
大崎:徳島はサッカーに集中できる環境だった。最初数試合は出てなかったけど、5試合くらいして出れるようになってから移籍するまで全試合に出てたと思う。その頃にはメンタル的に落ち着いていたし、出れなくてもチャンスが回ってきたときに活躍できるように準備するようになっていた。まぁ文句はいってたけど(笑)

つづく--

後編では自身初のJ1ヴィッセル神戸への移籍話や天皇杯初優勝のエピソードなど、盛り沢山なので後編の公開もお楽しみにしてください!

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