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「背の低いボクがプロになれたワケ」 町田也真人 / 大分トリニータ<前編>

SCAMPUS(エスキャンパス)は、株式会社PAYFORWARDが運営する、サッカーに特化したオンラインセミナーサービスです。新型コロナウイルス拡大による自粛期間中は、様々なサッカー選手に彼らのプロフェッショナルなマインドや哲学、舞台裏のエピソードをインタビュー形式で深掘っていきます。

SCAMPUS記念すべき第一段は大分トリニータ所属の町田也真人選手です。
新型コロナウイルスの影響でトレーニングができていない大変な状況にも関わらず、Webインタビューに快く協力していただきました。今回インタビュアーを務めた三宅亮輔は町田選手と幼少期からの付き合いであり、より町田選手の人間性を引き出せた内容になっています。
(インタビュー・構成=三宅亮輔)

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学生時代の町田也真人

ー 本日はよろしくお願いします。経歴を簡単に教えてください。
 町田:白幡中から埼玉栄高に行って、専修大に進学しました。大学を卒業してプロになりました。

ー ユースじゃなくて中学校の部活でしたが、ユースでやっている同世代についてどう思ってましたか?
町田:小学校で入って一緒にやってたメンツが選抜とかで会うと正直怖いなって感じてました。レッズとかアルディージャのユニきてるのみて、こういう人がプロになるのか…と。

ー 高校はなんでユースに入らなかったの?
町田:高校サッカー出たいなって気持ちが大きかったのと、進学先の埼玉栄高校は遠征でアルゼンチンにいけるっていうのが決め手になりました。あとは1年生の時からレギュラーで試合に出たいっていう気持ちがあって。栄だったら出れるんじゃないかって、安易な考えがあったかもしれません。

ー 実際どうだったんですか?
町田:自分の代にいい選手が沢山いて、自分の代だけ見ても出れるか不安でした。実際に1,2年生のときは全く試合に出れずにずっとBチームでやってました。

ー 試合に出るために努力してたことは?
町田:自主練は毎日自分に何が足りないかを考えながらやってた。ターニングポイントは、自分の代で尊敬している選手がいて、彼は1年から試合出てるにも関わらず、ピッチ外でも非常にしっかりしてる人間だったんです。高校生くらいだと制服を着崩してネクタイをだらっとしたいとかあると思うんですが、そういうのが一切なくて。例えば雨の日だとグランドの水たまりをスポンジで吸うのが下級生の仕事なんですけど、3年になっても彼は下級生に押し付けず、しっかりやってたんです。上級生になり自分はやらなくなっていたんですけど彼の姿に刺激されてやるようになった。 

ー 3年生のときは試合に出てましたよね?
町田:チームとして凄くよくて、新人戦から4つある大会のうち3つを埼玉で制覇してた。選手権予選のときも自信があって、実際に優勝することができた。でも、プロの話しはなかったし、当時は正直どうやってプロになるんだろう?という感じでイメージが沸かなかった。

インカレ優勝の大学時代

ー 実際に先週大学に進学したと。4連覇目の一発目に入ったんですよね?専修大学はどんな感じだった?
町田:上の先輩達が本当にいい選手ばかりで、こうゆう人達がプロになるんだなと思っていたけど、彼らでさえも結果が残せず2部に降格してしまいました。3年のときは2部で戦ったけど昇格して、最終学年の時は1部でやれるとなったときに、キャプテンの庄司(悦大=京都サンガF.C.)が1部優勝を目指すと、最初のミーティングで言ったんですよね。みんな、ほんとかよとなったんですけど、彼はそこだけを目指す気でいて「彼について行くかどうか」でチームがまとまるか崩れるかっていう状況だった。でも彼のおかげで今の自分があると思ってる。

ー 専修の中で最も印象的な選手は? 
町田:やはり彼(庄司)ですかね。実は明治大学のセレクションで会っていて、ダメだったら専修に行くって話していた。その時からお互い意識し合っていて、専修に入ってからもライバルとして勝負しながらも非常に良い関係を作っていた。試合中は彼がボールを持ってたら常に自分のことをみてくれていたので、とてもやりやすかった。

三宅:明治大学に落ちた2人が一緒に専修大学にいって日本一になってプロにもなるってなかなか知られてないエピソードかもしれないですね。

ー 背が低い中で生き残るために意識してきたことは?
町田:自分は全カテゴリーでずっと小さかったので、1番意識していたのは、とにかく相手に当たらないことですかね。あとは次のプレーを常に考えて動いていたこと。

ー よく選択肢を増やせっていうじゃないですか。どのくらいの先のプレーまで読んでるんですか?
町田:基本的に選択肢はたくさんあったほうがいいけど、状況は0.1秒単位で変わるので、その時に見えることを大事にして、逃さないように意識してました。

ー 相手に当たらないようにっていうのは何かの経験があって気をつけるようになったの?
町田:小学生の時くらいから、自分がうまくいってない時ってどんな状況だろうって振り返るようにしてた。そうゆう時はだいたい、次のプレーを考えていなかったり、相手に近すぎたり、持ちすぎたりしてたんですよね。だから相手に潰されていた。じゃあどうすればいいの?って考えた時に相手に当たられる前にプレーすることと、ミスを減らすことを意識するようになった。

変化型のプロサッカー選手

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ー 町田也真人といえばトリッキーなプレーですよね。昔から意識してた?
町田:そうですね。そうゆうプレーに魅力を感じていて、ゴールより美しいプレーとか予想外のパスに美学を感じてた。どちらかというとアシストを楽しんでいた。

ー そうゆうプレーは特に部活では怒られたりするじゃないですか?
町田:それは本当に難しくて、今考えるとどの年代も勝負には拘っていると思うんですが、中高と年齢が上がるにつれて、よりそういうトリッキーなプレーにはシビアになっているというのは感じてましたね。プロになるともっとそうゆうプレーはするなといった雰囲気がピッチには流れていて、もしやるなら絶対に成功させなきゃいけないというのは思っていた。

ー 足元で受けて、パスを捌くっていう選手だった印象なんだけど、最近はハードワークするし、裏に抜けるランニングもするようになったのはなんでなの?
町田:生き残っていくサッカー選手には2つの種類があると思っていて、まずは天才型。本当に上手いだったり、とにかく点を獲れるとか、ヘディングがめちゃくちゃ強いとか。もう一つは状況に応じて何が足りないのかを感じて変化できるタイプ。自分は特にプロになってから変化型になったなと感じている。大学ではやれていたから自信を持ってプロに入って見たけど、プロでは全然トリッキーなプレーが通用しなかった。試合になると命かけるじゃないけど魂で戦うとういか、そういう気持ちでやらなきゃいけないと先輩からも教えられたし、プレーを見てても感じた。自分も変わらないといけないと思って、守備で凄い走ったり、戦うところを見せるたり、ライン際でボールが出そうな時にスライディングするとか。後はどうやったら相手が嫌だと思うかとか、ラインを下げるためにランニングしたりとか、味方が喜ぶかとか、そういうことを考えるようになった。

ー ちなみに助言をしてくれた選手は?
町田:深井正樹さん(元ジェフユナイテッド市原・千葉)ですかね。自分のように身長は大きくないんだけど速いし強いし、シュートも上手い選手。後はジェフに入れたってのが自分の中で大きくて、ジェフはオシムさんの「走る」というDNAが残っていて、それをコーチから教わることができた。

ー 天才型と変化型、どれくらいの割合だと感じてる?
町田:例えば長くやれてる選手は天才型なんだけど、変化ができた選手。もしくは変化型。本当に天才の選手はプロにはなれるけど、ピークがすぎたときには終わってしまっていると思う。変化ができる選手が生き残る世界だなと感じている。

ー プロに入ってみてどうですか?
町田:初めてスタメンで出れた時はやっときたと。それで最初の2.3試合は相手も自分のこと知らないからうまくプレーできたんですよね。でもそこから相手も研究してくるし、自分自身慣れというかおごり出てきてしまって良くなかったと今は思う。

ー そこからどのように変化したんですか?
町田:試合に出始めてからも自分のプレーはできてないなっていうのはありました。自信を持ってやれてたかっていうとそうではなくて、ピッチ上で見えてるものも多くないし、余裕がない時期が長かった。結局点も取れず、4年目の夏にはポジション失くすっていう話しもされて、そこがプロでの分岐点かなと。

葛藤、10番の覚悟

ー 典型的な例でいうとJ2J3にレンタルとかあると思うが、移籍せずにジェフに残ったと思うんですけど、何があったんですか?
町田:チームが勝てなくなってきて、監督も自分を使わない決断をしていて、今後は1試合出れるか出れないかなって。ポジションを失くすって言われてから半年間どうすればいいんだろうと悩みました。ただ、課題は点を獲れないことだとわかっていたので、どんなボールがきてもシュートを打てるように意識して自主練をした。特にゴール前は時間がないからダイレクトでシュートする練習をしたら自信がついてきた。最後の残り2試合目で出れるようになったが結局最終節はメンバー外になってしまって、、年末に監督が続投することが決まり、今までの扱いもあってそれだったら続けられないなと思ってフロントにも話をしていた。

ー 続けられないと話をした後はどうなったの?
そしたら新GMから「監督が残したいと言ってる」といわれて、なぜかと聞いたら「也真人はどんなときでもしっかりやってくれるから残して欲しい」と。自分はその言葉を信じたくないけど信じてしまう自分もいて。結果残ることにした。でもいざキャンプが始まっても一向に使われる気配はなくて(笑)でも周りの選手は評価してくれたのが唯一モチベーションだったし、このチームを離れて、監督を見返したいっていう気持ちでやっていた。3月末まで移籍できるのでプロサッカー選手として、出ていくという決断もしなきゃとは思っていて覚悟していた。
そしたら今まで一度もなかったのに急にスタメン組にポンって名前があって、周りの選手もざわざわしてて、「来たじゃん!」って(笑)

ー なんで入ったかわからないの?
町田:多分、練習試合からバンバン点獲ってたしとにかく調子が良かったんですよ。そこでスタメン起用された試合で点を決めて、今まで60試合で1点しか獲れなかった選手が、その年は結果として11点も獲れるようになった(笑)シーズン最後に監督には、也真人は腐らずにずっと真面目に練習してたのを見ていたし、プレーでしっかり見返してくれたと言われて。それが見返す力なんだなってすごく嬉しかった。

ー そこからチームの看板とも言える存在になったと思うんだけど、どういう感覚だった?
町田: 生え抜きの選手としてどうにかしてこのチームを強くしたいという思いが強くなったし、10番を着けたことで自分にもプレッシャーをかけたし、役割や意識が完全に変わっていった。

ー シーズン前に10番以外の番号の候補もあったの?
町田:ジェフに加入したときから10番を着ける男になると周りに言っていた。5年目にやっと初めてGMから10番を着けないか?と言ってもらった。

ー 也真人といえばケンペス選手とのエピソードが印象的なんだけど、どんな選手だったんですか?
町田:人柄も本当に明るくて、選手としてはこのパスも決めてくれるんだ、一人で持ち運んで行ってくれるんだな、っていうシーンが多い頼りになる選手だった。

ー アシストしたときに腕時計をプレゼントされたっていうニュースを見たけど?
町田:あんまりプライベートで外国籍選手と出掛けたりすることはなかったけど、ケンペスとは食事も行ったし、通訳介して色んな話をした。トップ下とトップという関係だからとてもよく話をしたし、「俺にアシストをしたら、大事なものをなにかあげるよ」と言ってくれていて、ケンペスが使っていた腕時計をプレゼントしてくれた。

J1クラブからのオファー

ー J1某クラブからのオファーが来たときの心境は?
町田:まずJ1某クラブから声をかけてもらった時は、J1に挑戦したい気持ちと、千葉でずっと頑張りたいという気持ちの二極化だった。話をもらった時には行こうという気持ちだったし、移籍の方向で考えていることをジェフのフロントにも伝えた。フロントとの話し合いはそこから夜の12時位まで続いた。昨シーズンはあと一歩のところで昇格出来なくて、みんなも「来年また頑張ろうぜ」っていうかたちで終わった全シーズンだったから余計悩んだ。ただ、まだこのチームで1年間しか10番を背負っていなかったし、もう1年10番を背負って戦ってみたいという気持ちになった。ひとりで凄い悩んだけど、千葉のサポーターの顔とかゴール裏の風景が頭に浮かんで来て、もう1年千葉でチャレンジだ!と思って決断した。移籍の噂が出てから、サポーターの方から出て行かないで欲しいという沢山のメッセージをもらったりして。そういうファンから愛される選手になりたかったので、本当に嬉しかった。

三宅:也真人の好感度上がるだけだなこれ(笑)

町田:上げてかないと(笑)

-つづく-

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