お金を舐めたような使い方が好きになった話


夏休みに入ってまとまった時間ができたから、前から興味のあった「中世から近代への転換期」について考えたり、必要があれば調べたり、そんなことをしている。

その中で自分の世界観(と呼べるようなものではないかもしれないけれど)が少し、いや、かなり変わった気がしている。

その結果、タイトルにもある通り、お金をバカにした態度が好きになった。


自分の中に留めておくにはもったいない気がして、考えを整理しながらシェアできたらいいなあなんて思ったので書いてみる。


過程を説明するにはザッと歴史を眺めてみる必要がある。

16、17世紀ごろから資本主義経済の土台が準備され、18世紀の産業革命によって決定的になったという考えは、僕たちがすでに歴史の授業で学んできた一般的なものだ。

ではその時代にあって、当時の人間にとってはどのような変化が起きたのだろうか。特に内面的な変化が。僕の最近の興味は大体、この辺りに向いている。

16世紀といえばコペルニクス、ガリレオ、ニュートンたちによる科学革命が隆盛していた時期だ。

ただこれは単に、彼らの業績が素晴らしかった、という説明だけでは片付けきれないところがある。こういうダイナミズムはつねに、社会と不可分に絡み合っている。

歴史家のモリス・バーマンも指摘するように、当時の封建制度による経済機構はすでに、限界を迎えていた。

封建制度は、経済の面では次第に破綻していった。経済的効率から言えば、封建制度は十三世紀においてすでにその頂点に達してしまっていた。農業に大きな資本を投資することもなかったので、生産性にも限界があった。そしてこの限界が社会的緊張を生み、十三世紀にはじまっていた農民の反乱が、階級闘争に発展していった。

つまり、こうした経済的崩壊を迎えた社会が合理化、効率化に傾き、その結果科学を要請する流れとなったといえるだろう。

科学は、実験というある種の拷問によって自然を苛め、無理やり法則を吐き出させ、それを他の分野にも応用するために抽象化しようとする営みに他ならない。

こうした性質を持った科学が、当時の社会に染み込みやすかったことは容易に想像できよう。


ここで、科学がその合理的な立場の正しさによって時代を支配する位置を勝ち取ったわけではなく、あくまでそれを必要とした社会構造があったにすぎないことを抑えておく必要がある。

これは僕の考え方の変化に繋がる要素だ。


それではその流れの中で、ヨーロッパ社会に蔓延した価値観、世界観はどういったものだったのだろう。

先にも書いた通り、科学には、対象を前にして「観察者としての自分」が存在するという前提が一つの基盤としてある。

ということは、自分を囲むもの、つまり一切の外的なものと自分との間に、絶対的な線引きを行わなければならない。

世界の中に埋め込まれた自分から、世界から放り出され、客観的に見つめる自分。科学革命がヨーロッパ人にもたらしたのは、この世界観の転換に他ならない。

そしてそれまでの「神」によって意味づけられていた世界が突如、数量化可能なものとして数学的に記述されていく。そこに理由はなく、あるのはただ事実のみ。

全てのものから精神的なもの(≒意味)が剥奪され、運動とその担い手である物質、そういう世界に書き換えられるという事態の重さを、科学的な世界観にどっぷりと浸かってしまった現代の僕たちが想像するのはもはや不可能だ。

しかしその数百年後、ニーチェが「神は死んだ」と嘆くことになるその大きな源泉は確かに、間違いなくこのあたりで起こっている。


ところで、こういった世界観を構築する上で欠かせない要素として「数字」の存在は大きい。

意味づけ・理由づけではなく、ただ事実関係を抽出する作業において、数字ほど客観的で絶対的に信用できるものはない。これは逆に言えば、数的に表すことのできない事象は全て嘘・虚構・妄想であって存在しないという世界の成立も意味する。

僕が嫌うのはこの点だ。

全てのモノや行為といった事象から意味が脱落し、数字に回収されてしまう考え方。最近僕はこれを、ひどく矮小で、薄っぺらいと感じる。

この1年で始めたバイトの影響が大きいことは事実だ。僕が社会に与えた価値が、時間単位でお金に変換されていく。

でも僕という物質が行った運動に、意味がないとは思えない。そこにはどうしても数値化できない、目に見ないものがあると僕は信じたい。

お金は本来、効率、合理性といったものを必要とした社会に、ただ媒介として要請されたものであったに過ぎない。

それにもかかわらずだ。近代ヨーロッパでは免罪符が売られ、天国に行けるかどうかもお金次第になってしまった。道具として使っていたお金が、いつの間にか目的にすり替わっていくのだ。

そして先に述べたように、自分と世界との隔絶という考え方は、現代人の僕たちにも響いている。

うつ病、ストレス、自殺、こういった現代社会の内面的問題は明らかに、この世界観の沼から抜け出せなくなり、疎外感をもった人に起こる。

少し話は大きくなるが、自殺の理由が「これから起こることへの不安」ではなく、「何も起こらないのではないかという不安」に変わりつつあるこの狂いかけの世の中は、全てのものに意味がないのだから自分で作り出さなくてはならないという、強迫観念を持ったこの精神基盤に問題がある。

だから僕は、こういう問題を育む土壌としての科学を、合理的な面を認めつつ、それでいて危険なものだと言わざるを得ない。

ただもちろん、科学が悪だという極論に走るつもりはない。問題はむしろ、「科学が道具以上のものではない」ということに気づかないままでいる僕らの方にある。だからこそ扱いが難しいのだけども。


流れを整理する。近代に入るとともに、経済構造の崩壊によって科学が必要となり、その過程で世界と自分との間に線引きを行うという精神的な変化が起きた。ただそれは科学を必要とした社会があったに過ぎない。そして意味ではなく事実を追う姿勢は数字への絶対的な信頼を意味し、いつしか道具から目的にすり替わり、今の僕らにも影響が出ている。


ただ僕は、意味で溢れた世界の方が素敵だと思う。それは、事実から目を背けるということでは決してないけれども。

お金は単に専制的に決められたシステムでしかなく、貨幣は単に共同幻想でしかない。価値を奪い取って数字に回収するただの紙だ。

この点への気づきが今回の僕の変化を促した。

一方で僕らはすでに、そのシステムの中に埋め込まれている。逃げ出すことはできない。

だから僕は、お金をシニカル・嘲笑的に、少し斜に構えた態度で使う姿勢を好む。

こうした構造を追認した上であえて乗っかるような姿勢こそ、数字を神格化しすぎた状況を喝破する上で必要になると思う。

それは無駄遣いをするとか、粗末に扱うということではない。ただ、僕が与えた価値を変換して入ってきて、出ていくときも最終的には意味が剥奪される、そういうシステムを知っているんだぞという目線。そんな姿勢が尊くて、面白い。

これからは僕が与えた価値、僕が支払うことで得る価値、そういうことの方を重視したものの見方をする。

決して数字に回収されることのない何か、かけがえのない意味、価値があると信じるようになったから。


金欠学生です 生活費に当てさせて頂きます お慈悲を🙏