Les Misé blue-syrup16g 感想
一言で言うなら、等身大なアルバムだな、と思います。
今までにもsyrup16gは鬱バンドじゃない!!!!!!!!といったことをクソデカい声で主張していたりしていましたが、実際今までも鬱バンドではなかったと思うのです。
自分の中にある感情を、正も負もまっすぐに見つめて、それを歌詞という形で言語化してそのままお出ししました、という…感じが自分の中ではずっとしていて。
「Les Misé blue」も、多分そうだと思うんです。でも、そのまなざしの先にあるものが、ものすごく身近なんですよね。
一曲目の「I Will Come(before new dawn)」の冒頭の歌詞にもそれが表れているんじゃないかと思っていて。
syrup16gで「魔法」と聞けば、思い出すのはアルバム「HELL-SEE」収録の「(This is not just)song for me」ですね。
この二つの歌詞を比較すると、前者は「CD」、音楽、歌が「魔法じゃない」ことを、すでに受け入れていることがわかる。対して後者は、「魔法」が「手品みたいに思える」ことに対して、悲しみというか諦めというか絶望というか、そういうものを感じる。
ここが、タイトルにもした、「リアル」と「リアリティ」の境目かな、と思って。
だって、CDが魔法じゃないことなんてわかってるんですよ。この世界に魔法は存在しない。わかってるんです。どれだけそのCDに感動したとしても、魔法じゃないんです、それは。魔法「みたいに感じる」だけなんです。
「This is not just(Song for me)」では、少し夢みがちなところがあったというか、魔法があるはずなんだと信じていたけど、そんなものはないのかもしれないと突きつけられる。きっと少なくない人にこんな経験はあるんじゃないでしょうか。夢見る乙女のように信じていたものに裏切られる瞬間。理想と現実の乖離を目の当たりにする瞬間。その瞬間に対する感情描写のリアリティ。
対して、「I Will Come (before you dawn)」では、どこまでもリアル。「魔法じゃないCDを聴いた」、それだけ。現実なんですよね。すごく写実的。
例のお煎餅曲こと「In My Hurts Again」だって、なんかもうちょっと田舎な地方の暮らしを本当に見てるみたいじゃないですか。それに「一瞬の怠惰で全てを失うかも」とか、お煎餅屋に限らず大体の仕事をしている人は思ったことがあるでしょ。写実的であるからこその普遍性。なぜお煎餅屋なのか?とは思いますが…
「Les Misé blue」は過去作に比べると全曲サウンドがとても優しいように感じて、それは今この瞬間、私たちが生きている現実に対するまなざしが表れているんじゃないかと思うんですよね。そんなこと歌詞にして歌っちゃうの?というくらいリアルな現実を歌っていて、それは今の混沌と不信の時代において、必要なものなのだと思います。欠けたピースを埋めてくれるように。少なくとも、私にとっては。
想像上の誰かのために、理想的な現実を歌う人もいれば、こうして聴き手と一対一で向き合って、今眼下に広がっている世界を一緒に見てくれるアーティストもいる。それがなんか、いいなあって思います。
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