雪の犬

 こうして一緒に散歩している時でも、あなたはいつも私を見つめているわ。私がメスで雑種だから、彼女のことを思い出すのね。
 彼女は、小学生だったあなたが雪の中で拾ってきた子犬で、ほとんどあなたの犬と言ってよかった。小さい頃は私と同じように家の中で飼われていて、家族と一緒に暮らしていた。それが、彼女にとっても一番の思い出だったのよ。だから、お父さんとお兄さんが犬小屋を作ってくれて、外で飼われるようになっても、彼女はすきを見ては家の中に駆(か)け込んだものだわ。ちょうど今の私が、ドアが開(あ)いていたらすぐ外に飛び出すように。
 彼女は、毎日あなたが小学校から帰ってくるのを遠くから見つけて喜びの声を上げ、何度も何度も跳(と)びはねた。あなたは、その頃の彼女の元気な姿を思い出すのね。
 一度、彼女が行方不明になったことがあったわね。家族総出(そうで)で探した後で、お父さんが念のためにと保健所まで行って、そこで彼女を発見し、処分される寸前に引き取ってきた。彼女も、お父さんを見てすごく喜んだそうよ。
 それからまもなく、彼女は、隣の家の床下(ゆかした)で子犬を六匹産んだわ。そして、その子犬は二匹だけ残して、あなたのお母さんと隣のおばさんが川へ捨てに行った。昔はそういうことがよくあったのよ。犬小屋に戻されて、急に少なくなった子犬を必死で探す彼女を前に、あなたも泣きに泣いたわね。その後、残った二匹の子犬たちがもらわれていった家に、あなたは何度も会いに行った。時には彼女も連れて行ったけれど、犬の親子って、お互いに結構(けっこう)知らん顔をするものなのよね。
 それなりに幸せだった彼女の運命が変わったのは、あなたの家に、あの毛並みのいいおチビ君がもらわれてきてからだわ。
 外犬(そといぬ)と内犬(うちいぬ)とで住む場所が違うから、二匹が出会うことはほとんどなかったけれど、一度だけ、あなたが縁側(えんがわ)の戸を開けた時、思いがけず外に彼女がいて、家の中の彼と鼻を寄せてにおいを嗅(か)ぎ合ったことがあったわね。お互いに好奇心一杯の表情を浮かべていたっけ。でも、彼は家の中にいる。彼女は、雪の夜は玄関に入れてもらうこともあるけれど、ほとんど外につながれっぱなし。そんな毎日が続くようになっていて、あなたたちがそのやんちゃなおチビ君に夢中になっていることを、彼女は充分知っていたのよ。
 そこに、彼女の病気が、決定的な追い打ちをかけた。その症状はひどく醜いもので、隣のおばさんが、特に状態が悪い時の彼女を見て、顔をしかめていたこともあったわ。
 でも、あなたの両親は、それなりに努力してくれた。忙しいお父さんが県庁前の犬猫病院に彼女を連れて行って、診てもらった。その時の、「どうしてもと言うなら手術しますが、ほとんど再発しますよ」という診断は、一緒に行ったあなたもその場で聞いていたわね。その言葉が、彼女の運命を決めたのよ。
 中学生になって、ある日、あなたが学校から帰ってきたら、彼女はもういなかった。空っぽの犬小屋があるだけ。お兄さんが帰ってきて、「連れて行ったのか」と聞いた時、あなたは「うん」と言って、読んでいた新聞で顔を隠した。その時、彼女はまだ四歳だった。
 やがて、おチビ君の方も、十七歳でお母さんに見守られて死に、その頃、大人になっていたあなたは別の土地で自分の家庭を持ち、二人の子供ができて、仕事も生活も忙しかった。そして、ようやく一息つけた時ね、子犬の私があなたの家にもらわれてきたのは。彼女が連れられて行ってから、もう三十年以上が過ぎていた。
 でも、この時、あなたの中で、忘れようとしていた記憶が、思いがけずはっきりとよみがえってきたのね。二人の子供が、昔のあなたと同じぐらいの年齢になっていて、そこに私が偶然、現れた。その日も雪だったわ。体の大きさや形は彼女と少し違うけれど、私もメスで雑種で、家の中に一緒にいる。それに、何と言っても、私がとっても可愛いから。
 あなたは、また私を見つめている。私はソファの上で伸びをして、大きな息をつき、つぶらな瞳(ひとみ)であなたを見つめ返すの。
 あの時のお医者さんの診断が、彼女のむごい運命を決めたのは確かよ。手術代のことも、子供だったあなたの気持ちをくじいたわ。もともと家で犬を二匹も飼い続けることは、無理があったのだし。でも、それでも、あの時、自分が絶対イヤだと言い張れば、彼女は助かったかもしれない。あなたの心の中に長くわだかまっていたその思いが、私を飼いはじめてから、急に強くこみ上げてきたのね。
 でも、でも、彼女はあなたを恨んではいない。だって、あなたは彼女のことでずっと自分を責めてきたんだし、今、私をこんなに可愛がってくれてるから。彼女はもうあなたを許しているわ。それは私が断言できる。なぜかっていうと、それは、私が……。私は、……。

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