クリスマスとピアノと幼かったきみと
Christmas Story Day6
「コードについて教えて」
土曜の昼下がり、珍しく息子がわたしに訊いてきた。
「今どうしてもどうしても知りたくてたまらないの」
意外だった。
息子はママに何かを訊くなんてことはしない。
知りたくて知りたくてたまらないことは、たいがいの場合、Siriさんが答えてくれる。もしくはGoogle で検索する。
しかもコード?
そんなの、学校のプログラミングの授業で習ったと言ってたじゃない? 課外授業でも何度かコードは教わっている。コードに関することなら、ほとんどGoogle で解決するはずなのに。
「コードはどうやれば分かるの?」
「なんのコード? もしかして……」
思い当たったわたしは演奏用の古いコードブックを本棚の隅から取り出してきた。
「これのこと?」
とたんに息子の目の色が変わった。
ありがとう!と叫んで、コードブックを引っ掴み、ピアノに駆けて行った。
なんだ、コードのことなのね。
ならばママにお任せください。ママは8-12才の時に、徹底的にコードについて学んだのだから。
正確には学んだというより、コードで奏でて、コードで遊んで、コードで音楽の経験を積んだのだから。
わたしは息子のようにピアノは上手く弾けなかったけれど、息子の年頃に、とあるシンセサイザーのアーティストでコンポーザーに師事し、コードを学んだ。後に、その人は世界的アーティストとなって活躍した。
その人は鍵盤上のテクニックを教えてくれたわけではなかったけど、音楽の無上の美しさを教えてくれた。わたしは子供ながらに、その人に淡く恋していた。
バート・バカラックの楽譜も本棚の隅から見つけ出し、ピアノに向かう息子の隣に腰掛けた。バカラックは、わたしにとってのドビュッシーかも。感情をコードで自在に操る。切なさと、粋と、軽やかさと、何よりも今なお洒落たメロディライン。
わたしだって、息子の年頃にバカラックを理解して弾けるようになるまで時間がかかった。でも弾き終えた時、全てのコード進行を、途切れのない感情の起伏を弾ききった時の最高の気分は、他では経験のできないことだった。
息子はわたしの隣で、まずはCのコードから試し弾きしている。ド、ミ、ソ……。
さっそく息子はバカラックの楽譜を初見で弾き始めた。
聴いたことのない初めてのメロディを、コードブックと照らし合わせながら。
メジャーコードは開いたコード。マイナーコードは閉じたコード。Cm7とかなると少し潰れた感じ。
開いて開いて閉じて潰して、もっと潰して濁らせて、ぱっと解き放つ。
それは Close to you ♪ という曲。カーペンターズが歌っていた。
次はきみも聞き覚えのある名曲 Raindrops keep fallin on my head 雨に濡れても。これは有名な映画音楽。でもきみにとってはデパートの雨の日の音楽かな?
気がついたら息子と一緒に隣でピアノを爪弾いていた。わたしがピアノを弾いたのはいつぶりだろう。
まだ息子が5歳の頃、息子に音符の読み方を教えてあげた。1オクターブ半しかないおもちゃのピアノで弾ける曲を選んで、歌いながら、遊びながら弾いたものだ。
その中に、〈諸人こぞりて〉もあった。
シンプルにハ長調の8音階だけで弾くことのできるクリスマスソング。
覚えてる?と、息子と一緒に弾いてみた。
あの頃は小さな手でド〜ラまでしか届かなかったのに、今や余裕で1オクターブは超えて、ド〜ミまでは楽々だ。
息子は〈ジングルベル〉や〈赤鼻のトナカイ〉を、楽しげにジャズ風に指を踊らせながら弾いている。坂本龍一の〈戦場のメリークリスマス〉は楽譜を見ないでも弾けてしまう。わたしも一緒になって、息子とピアノを連弾していた。
と、来年のイベント打ち合わせの時間がギリギリで、息子も部活の練習時間ギリギリで、2人とも大慌てで支度をして家を飛び出した。
外は少し冷え込んでいる。
夜には雪が降り出すだろう。
夕方、帰宅して夕食の用意に取り掛かろうとしたら、息子も帰ってきた。いつものように、帰宅したら手を洗ってうがいして、真っ先にピアノに向かう。
と、鍵盤の音ではなく、息子の弾んだ声が聞こえてきた。
「サンタさん、来たよ!」
え?
何のことだろうと息子のそばに行くと、鍵盤と楽譜の上にチョコレートが置いてあった。小さなサンタクロースの形をしている。
「ぼくがピアノ頑張っているから、さっきも聴いてくれてたんだね」
息子は一個チョコレートを分けてくれた。
サンタクロースの形のミルクチョコレート。
クリスマスに子どもがもらう、小さなチョコレート。
サンタの形をしたチョコレートを一口で頬張りながら、ミルクチョコレートが溶けて行く間だけ、息子もわたしも子どもに戻っていた。
窓の外では雪が散りつき始めた。
明日の朝はうっすらと積もるだろう。
Merry Christmas!