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24・「ただ起こっている」というとてつもない神秘

前述した通り、存在の本質を垣間見るような体験を何度かしても、私は以前と何も変わらないごく普通の人間のままだ。
そういった体験の後、エゴが本当に消え去ってしまう人は確かにいる。けれど私に関しては体験の後もエゴはしっかりと戻って来る。
好き嫌いもはっきりしているし、欲もあればプライドもある。
期待もすればがっかりもするし、寂しさを感じたかと思えば、人との関わりを面倒くさく感じることもある。
腹も立てば悔しさも悲しさも感じる、どこまでも人間くさい人間のままだ。
だからこそ、そういった体験をすることが何か特別なことだと思ったことは一度も無い。
そして毎度エゴが戻って来ることを特に残念に思うことも無い。

けれど一つだけ、以前と違うと言えることがある。
それは「自分の反応に反応すること」が格段に減ったことだ。
ポジティブな反応、ネガティブな反応のどちらにも、反応に対するジャッジが無くなったと、それは言えると思う。
これは色んな所でよく聞く表現だけど、自分の思考や感情も含めて「すべてはただ起こっている」。本当にそれだけなのだ。
いつもいつも「今ここでの体験」・・・それだけがある。
今日、今ここの私の体験は、パソコンがある、鳥のさえずりが聞こえる、手がキーボードを打つ、風がドアをがたがた鳴らしている、外の日差しが強い、エアコンの心地良い冷気、穏やかなモータ音、そしてたった今、突然の雷鳴。
それから・・・思考。思考。思考。
頭の中で電気信号のようにめくるめく思考が明滅している。
今は比較的穏やかな思考と感情の中にいるが、シチュエーションが変われば急に悲しみや後悔や腹立ちという感情が触発されることもある。
見える、聞こえる、感じるといった五感がとらえる事象、頭の中にふいに浮かぶ思考、思考に対する感情の反応、それらはすべてがすべて「ただ起こっている」。
そして多分、自我にとって一番受け入れ難いことは、「私」という個人の感覚すらも、他の事象とまったく同列に「ただ起こっている」ということかもしれない。

深い眠りから目覚めた朝、一瞬自分が誰でもない感じがすることはないだろうか。
自分に対する概念が遠くに霞んでいて、自分が「誰」であるか明確な感覚が無くなって、それでもただ「在る」という存在の実感だけがあるような。
はっきりと目が覚めるに従って、今日の自分の役割が思い出される。一人の中年の女性という自己イメージが思い出される。やらねばならないこと、他から期待されている責任が思い出される。
こういった自己概念を伴った自意識(固有の肉体を持っていて、名前や役柄がある自分という意識)は、意識が表層的な現実に戻って来た時にふいに思い起こされるものだ。
そういった自意識も実は本質的に「在る」ものでなく、ただ起こり、現れているものなのだ。

では、その「ただ起こっている」ことを見ているのは誰だろう?
「私」という個人の感覚、それに気づいているのは誰だろう?
すべての起こり(体験)に気づいている何かに名前はあるだろうか。
すべての起こり(体験)に気づいている何かに形があるだろうか。
すべての起こり(体験)に気づいている何かは、特定の場所に存在するだろうか。
すべての起こり(体験)に気づいている何かは、何かを意図したり、何かを求めたりするだろうか。

その何か・・・すべてに気づいている意識は、何ものからも制限されず、常にすべての起こり(体験)と共に遍在し、ただ「起こることを起こるままに」見守っているだけではないだろうか。

私が存在の本質を垣間見るいくつかの体験から得たものがあるとすれば、この「何か」の視点かもしれないと思う。
もちろん日ごろは自己概念を伴った個人である浅川路子という自己と同化している。
けれど同時に、ちょうど二重露光した写真に二人の自分がだぶって写っているように、すべてをただ起こるままに見ているもう一人の自分が居る。

体と名前を持つ個人の「私」にとって、起こること(体験)は影響力を持つ。個人の「私」にとって起こることは重要なのだ。
なぜなら、「私」の思考も感情も、人生の明暗も、生死さえも、すべて外側の起こりにいともたやすく左右されるからだ。
だから「私」は起こる事をすべて個人的に受け取り反応する。
つまり起こりを、個人にとって都合が良いか悪いか、意味があるのか無いのか、どういう未来への布石になるのかというジャッジと共に体験することになる。
この視点からすると、目の前を通り過ぎる黒猫や、夕立の後に空に現れた美しい虹も、純粋な生命の躍動としてではなく、人生に意味付けする何かとして見られてしまう。

けれどすべての起こりにただ気づいているだけの意識は、何ものにも脅かされない。
「気づいている意識」が傷ついたり、弱ったり、困ったりすることは決して無いからだ。
だからこそ気づいている意識は、すべてを起こるままにしておくことができる。
飛躍しているように思われるかもしれないが、この意識こそが究極の受容性であり愛だと思う。

起こり(体験)を個人的に捉えず反応しないことは、もしかしたらものすごく味気なく退屈なことに思われるかもしれない。
けれど、これも実際に体感しなくては分からないことだけど、すべての起こり(体験)を「ただ起こっている」と受け入れた時、つまり、既成概念やジャッジを介さずに起こることを体験した時、世界はとんでもない神秘に充ち溢れる!

たとえば色。
私の目の前にあるマグカップは浅い水色をしている。
無限、無数にある色の中で「この!」浅い水色が目の前にあるという不思議。
その色そのものが放つ特有の光と空気感。
この色彩はどこから来たのだろう。
何がこの色彩を無から生み出したのだろう。

そして音。
たとえば自分の声。無限、無数にある声の中で、唯一無二のこの私の声。
なぜ私はこの声に生まれついたのだろうという不思議。
声をじっと聞いてみる。まず声が意思のままに発声されることの不思議。
完全な無(音)から、有を自在に生み出せることの驚き。
私にしか出せない特色のあるこの音。その神秘。

部屋の中をぐるりと見渡す。
カーテン、テーブル、カレンダー、ソファー、ハンガーに掛けられた色とりどりの手提げ、木彫りの人形、読み集めた本・・・
それぞれが、あの形で、あの色で、あの質感で、「ここにある」という不思議。
ここに「無い」という圧倒的な可能性がありながら、ここに現れることが選ばれたという不思議。

それから「私」という存在。
どうして「私」はここに居るのだろう。
この体で、この顔で、このキャラクターで、この役割でここに居るということ。
この現れは、他の形を取るという無数の可能性もあったはずなのに、「この形」で現れたということの驚き。
その外見にも増して、内面はもう説明不可能なほどの複雑さと謎に溢れている。
ひっきりなしに湧きおこる思考。同じ人間のものとは思えないほどに多種多様に変化する感情。
更にこの存在自体、「無」のままでいることもできたのに、「現れる」ことが選ばれたという不思議。

自分という存在も含めて、目の前の起こり、現れをあるがままに受け入れた時、私はこの世界が何なのか、何一つ知らないということが分かる。
すべての起こり、すべての現れは永遠に未知なのだ。
その意図も目的も決して分かり得ない、起こるという神秘、現れるという神秘。
そしていつも驚くのは、それらは全くの未知でありながら、在ること、それ自体が歓喜を表現しているということ!
こうした視点から世界を見る時に思う。
在ることには、意図も目的も無い。どこかを目指していたり、何かへと導いているわけでも無い。
在ることは、ただ歓喜の歌を歌っているのだと、そう感じることしかできない。

奇跡のコース、ワークブックレッスン28にこんな一節がある。
「実際、もしテーブルに関する自分の観念のすべてを取り払い、完全に偏見なくそれを見るなら、あなたはそのテーブルだけからでも心眼(ビジョン)を見ることができる。それはあなたに何かを見せてくれる。美しく、穢れなく、永遠の価値のある何か、幸せと希望に満ちた何かである。それについてのあなたの一切の考えの下に隠されているものが、その真の目的であり、それが全宇宙と共有する目的である。」