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すごくねむい

電車の揺れも相まって、いまものすごくねむい。

なぜか?

TEAM NACS第17回公演『マスターピース〜傑作を君に〜』からの帰路だからである。

かなり前方の席だったこともあり家を出たときから肩に力が入りまくってしまっていたようで(おそらくここ数日足が張ったりつったりしたのも今となってみれば緊張していただけなのかもしれませんが)ものすごく肩が凝っているしなによりものすごくねむい。

プールに入ったあとみたいな眠気である。そしてこういうときに限って始発電車に運良く鉢合わせ座席に座れちゃったりするのが人生というものである。寝過ごさないよう必死に白目を向いている。さすがにそれはうそです。

プール、とはかなり不思議な娯楽だなあとしばしば思う。
ふだん過ごしている空気中とはまったく異なる水中に自ら望んで(水泳の授業の場合は絶対に望まない平泳ぎは無理背泳ぎも無理クロールも無理)ダイブして、手足をうまくコントロールできなかったり理不尽な強さの水流に流されたり意味不明な高所から滑り降りたりするのを楽しむ。体力的な面もあるけれど、そんな非日常的な刺激を、


とかここまで書いたんですけどそんなことより聞いてもらいたいことがあるのですが、

戸次重幸さん、おったわ。


正直、正直わんちゃんいないかもなと思っていた。やはり戸次重幸さんは高度な映像技術などによってまるで三次元に存在するかのように描かれたこの次元には存在しない存在(存在しない存在とはなんなのか、それはつまり戸次重幸さんのことでしかないが)なのでは、という懸念が捨てきれずにいた。盛りすぎwとか思ってます?盛ってないんだってばこれが。盛ってなかったらそれはそれでやばいんだよ念のため、と周囲によく言われるのですが、やばいことはオタク覚醒した小学生の頃から自覚してるんだってば。やばいんだよ?じゃあないんだよ。やばいんだよ私は。

それでも劇場に近づくにつれ、ああ、これから私は戸次重幸さんを見に行くんだ、とようやく思い始めて、念のため遺書を書いておいた。(論理展開が崖)
戸次重幸さんの存在を視認した私か、戸次重幸さんの存在を視認したことがなかった私、いずれにせよどちらかが死ぬのは自明だったからだ。遺書の内容については本当にもう意味がわからない、世界に別れを告げている。

結果的に、遺書を認めておいてよかった。

もうこの遺書を認めたわたしはこの世にいない。このnoteを書いているわたしが生き残っているということはつまり遺書を書いた戸次重幸さんを視認する前の世界線にいた私が死んだということだ。何をいっているかわからないと思うんですけど書いているこちら側も何を言っているのかわからないです(それはいつも)

なんてったって、そう、

戸次重幸さんは、いたのだ。 


※ずっといます

ももを叩けば音が鳴り舞台上を歩けば足音がし振り返れば髪が揺れ呼吸をすれば肩が動き喉を開けば声がする。

アクシデントに思わず笑ってしまったり少し甘噛みしてしまったりカーテンコールで小学生みたいな下ネタを言ったりする。

高度な映像技術でまるで立体のように描き出される概念、ではなかった。

戸次重幸さんは役者であり人間だった。

戸次重幸さんは、本当にいたのである。(だからそれはそう)


帰り道の電車でうとうとしていたあの感覚はもしかすると戸次重幸さんを視認したことがなかったこれまでの世界から新しい世界のはざまにいたからなのかもしれない。世界が変わるとき人は眠くなるんだな。季節の変わり目も眠くなるし。眠くなってきたら気をつけようと思います。

あ、ただ瞳にはガチでダイヤモンドが埋め込まれていたと思います。これはもうキャメラを通じてではなくガチで視認したのでガチで埋め込まれていたと思います。戸次重幸さんの瞳に埋め込まれたダイヤモンドを確認できて本当によかったです。


まだ冒頭の眠い件書いて1日経ったとか信じられない。夢見心地である。まだねむい。

おしまい

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