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『マスターピース〜傑作を君に〜』を見ることができて本当によかったです

小学生の読書感想文でももう少しまともなタイトルをつけるだろ、いい加減にして欲しい。

TEAM NACSの『マスターピース〜傑作を君に〜』を見たオタクの独白です。まじの。ほぼ日手帳にかけば?というような内容なのでマジで誰が読んでもあ、そうですか・・・・とかならない文章です、とだけ最初に記載しておきます。でもペンで紙に書ける体力がない激弱オタクだからこうして文明の力にあやかりnoteに書いている次第です。
できればフォトダイのわや!ボタンを押したりタグ付けしてTwitterで感想を呟いていただいた方がよっぽど推しのためになるはずなので事前にお伝えだけ。時間は有限だから。

あとどこからがネタバレラインなのかは人によるので1ミリたりとも内容を知りたくない人はご自衛ください。内容のことが書けるほど文才ないから書こうとしても書けてないと思いますが・・・・・・・・・・。

まず最初に、57公演、全国を回ってのツアーを一公演も欠けることなく無事に終えられたこと、本当におめでとうございます。ありがとうございました。本当に、言葉にするとチープになってしまうのが本当に惜しいけれど、このご時世の中全公演上演ができるというのは奇跡だと思います。大泉さんが言っていた「ラッキー」という言葉をリーダーは優しいから言い直していたけれど、ご本人たちの力だけではどうにもならないことが当たり前に起こってしまう今だからこそ、ラッキーという言葉もまた正解だと、私は思いました。まあそんな話はええ。

本当に、本当にありがとうございました。



東京公演を劇場に見に行って、今日は配信を見た。

東京公演、まさかの前から2列目でもう正直内容どころの騒ぎではなかったのでただただ5人が存在することに涙してしまった部分が多かったのだけれど(ちゃんと見ろ)、今日の配信で改めてその内容を噛み締めて泣いた。

自分の話になってしまうが、去年の秋口から、シナリオを書くという趣味を持つようになって、教室に通っていた。オタクもゲチゲチにやっているのだが、シナリオを書くのもめちゃくちゃハマっていた。課題のシナリオを書くためだったら睡眠時間3時間とかでも平気なくらい楽しかった。半年間の講座を終えたので、今はコンクールに出せるような長編を書くために勉強したり、実際に書いてみたりしている。

だから、そんな趣味を見つけた矢先に本公演の内容が発表されて、まず泣いた。脚本家のお話だったから。そんなことあるー??と思った。そんなことあるー??というか、そんなことはまずない。だから本当にうれしかった。

ここからは公演を見て、だけど。

わたしはまだ、長い作品を書けたことがない。コンクールでは50分程度という規定が多いが、映画や今回のような舞台は単純な時間だけで考えても倍の量になる。原稿用紙で言うと単純計算で最終稿の時点で100枚とかそれくらいになるかと思うし、実際はその比ではないと推察している。素敵なキャラクターが思い浮かんでも、彼らを魅力的に見せつつ見ている人を飽きさせずに話を展開させて、全部全部セリフで説明してしまわないで、と言うのを2時間分考えるのって本当にすごいことだと思う。(すごい、とかいうチープな言葉しか知らない時点でまだまだ勉強不足である。)もちろんもともとすごい仕事だとは思っていたけれど、勉強してみて、なおのこと脚本家のすごさを強く感じるようになった。取り急ぎ「すごい」の類義語100個くらい覚えろ。
一つの作品を作り上げること。書き切ること。脚本は全てのスタート地点かのように思えるし、作品全体を眺めたらそれは事実ではあるんだろうけど、そこにたどり着くまでに、プロだってとんでもなしに苦しい思いをしているんだ。作品として描けてしまうほどには。血反吐を吐いたり(血反吐は吐いてないけど)熱を出してうだったり感情が爆発してしまうような、それくらいの血のにじむ苦労があるのだ。プロだってあるんだ。素人の自分が毎日、コンクールのお話全然思い付かん・・・・・と嘆くのは至極当たり前のことなのだ。それこそ血反吐くらい吐かないと思い浮かばないのかもね。今全然寝ちゃってるもんなー。血反吐を吐けばいいという話になっちゃっててそれは全然違うんだよ。おい。もっとがんばろう。自分が怒ったことも悲しかったこととかうれしかったこととか涙が出た言葉とか、そういうものを面倒くさがらずにこれからもちゃんと集めていこうねー。ねーってなに。幼稚園の先生?

思いつくままに文字打っちゃってるからいつも以上に支離滅裂だ。ウエーン。引き続き論理展開が崖ですが、物語って見る人によって見方が変わってもいいんだよな、と思った。つい先日、説明台詞が多いドラマや映画が増えたという記事が話題になっていて読んだけど、Twitterとかそれこそnoteとか、いろんな人の解釈が見える世の中になったからか、どうしても「正解はこれなんじゃないか」という空気が生まれてしまうときがある。けれど、自分が見て、感じたままが正解でいいんじゃないか、と思う。これも個人の意見だから、いやきっと正解がある!という見方をするのも自由だ。でもどうやって咀嚼して、受け止めて、自分のものにするかはそれこそ自由だから、その意見を押し付けたり声を大にして「そうですよねえ!?」などと言うのは些かナンセンスだ。正解なんてどこにもないし、どこにでもあるんだと思う。何が言いたいかというと、最後のシーンの受け止め方が、初めて見た時と今日配信を見たときとで変わったということが言いたかったです。(言いたいことが言えていないオタク)
正解があるのであれば正解はこれです!とわかるシナリオになっているはずだし、いろんな見方ができるなあ、と思ったり見た人によって感じ方が違うのであれば、その物語の結末は私たちひとりひとりに委ねてもらっているという話になるんじゃないのかなあ。まあそれこそそんなことは誰も知らん。とにかく一番最後のシーン、とても好きだったな。いろんな選択肢を想像した。二回目見て、尚のこと好きになった。

細かいことを挙げれば戸次重幸さんのお顔がつやつやでお目目がキュルキュルダイヤモンドアイでもうほんとうにアップで見れて最高でしたとか気持ち悪い感想がうじゃうじゃ湧き出てくるんだけど、気持ち悪いので割愛します。(してない)

そして最後だけど、傑作を君に、の話。本当に、最初っからそうだけど、全部自分の感想であって、物語の考察とかじゃないです。(どういうことを意図して喜安さんが言葉を紡がれたのかは、喜安さんじゃないとわからないから。)
わたしはこの舞台を見て、演劇だったりエンターテイメントに関わる人たちの意地というか、誇りを感じた。物語の結末は伏せるけど、思いを伝えたい相手が一人でもいる限り、傑作は生み出されていくんだろうなと思うし、演劇の火は消さねえぞ、と意地のようなものを(勝手に)感じた。それにもしかしたらわたしがこの間映画館で見た作品も、全米が泣いた映画も、本当はたった一人の人に何かを伝えたくて作られた物語なのかもしれないなって、そんな可能性に少しそわそわしてしまったりもした。たった一人でもいいから伝えたいというエネルギーがエンターテイメントに携わる人の根底には流れているのかもなあ、なんて思う。
また自分の話になってしまうけど、わたしは趣味でシナリオを書き始めたとき、誰に向けて、とかがなかった。素人の趣味なので、仕方ないっちゃ仕方のない話だったのかもしれない。でも、それこそコンクールに出してみたいとなったら、誰かに何かを伝えたいという意志をもっと強く持たないといけないんだと思う。わたしは自分の真ん中の方のことを話すのがあまり好きではなくて(というか好きな人おるんかが不明)、それをシナリオならキャラクターが言葉にしてくれるから楽しかった。楽しいと思える。結局いつまで経っても卑怯でずるい人間なのだ。そんな自分がもうどうしようもなく哀れ。

でも、誰かに読んでもらいたい、そう思って書くなら、そういう卑怯な考え方は捨てないといけない。言いたいことを無責任にワーワー言うんじゃない。伝えたいことを伝えるのが脚本でありドラマでありエンターテイメントなのだと、25年間それを第一線で続けてきた5人の劇団に改めて本質を突きつけてもらったような気がした。

今、この世の中、わたしの人生(というにはやや大袈裟だけど)においてもこのタイミングで、「マスターピース〜傑作を君に〜」という舞台に出会えて本当によかったです。
何をやってもうまくいかなくて、失敗することに怯えてばかりで人生どのタームでも縮こまっていた自分がやっと見つけられた希望みたいなものを、もう少し信じてみようと思えた舞台でした。本当にありがとうございました。

わたしもいつか、誰かにとっての傑作が書けるようになりたいです。


おしまい

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