ミッフィーの便箋に何を書くか

ミッフィーのレターセットを買ってから気づけば2日ほど経過していた。何故。

ファンレターを書くぞという衝動に駆られ続けているにも関わらずクソデカ感情が全く言語に落とし込めないまま二日が経過していた。2日ということはつまり48時間。2880分。172800秒。

172800秒も時間があったのに何をしていたのか?ファンレターも書かず。

百均で推し色のミッフィーちゃんが手に入るという噂を少し前に聞きつけここ数週間百均の近くを通りかかるたびに探し回っていたのだが推し色であるピンクはかわいすぎてミッフィーちゃんとの相性が抜群ということもあり(ど贔屓オタク)どこに行っても見当たらなかった。
一度物事を始めてしまうと視野がぐわっと狭まってしまうのは昔から自分の悪い癖で、もはや佐久間大介さんご本人とは直接関係ないはずのうすピンクのワンピースを着たミッフィーちゃんを探すのに意味不明なほど労力と時間を割いていたのだが、昨日になってようやく「いやはよファンレターをかけ」とやっと客観の自分に後頭部を叩かれて我に帰りミッフィーちゃんのグッズショップで300円のお人形を購入することでここ数週間の戦いというか長旅に終止符を打つことができた。仕事もしていたので前半24時間はこの調子で過ぎた。1440分。86400秒。

下記この度の長旅が収束するに至った概念の並びの写真。かわいい、かわいいね。(未開封便箋もそのままである)

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後半の24時間、1440分、86400秒、つまりこのnoteを書いているこの時間までは何をしていたのか?ファンレターもかかず。ミッフィーちゃんを購入したことで佐久間大介さんの概念を探し回る旅は終わりを迎えているにも関わらず。

今日はファンレターを書くために仕事を早上がりした。それくらい書くつもりだった。仕事を3時過ぎに終えて、今日発売の雑誌を買って、ドーナツを食べながらファンレターに書く内容を考えるためのnoteを書くつもりだった。(ファンレターではなくファンレターを書くためのnoteを書くことになってしまっている。これは不穏な流れである。しかしながら一発書きでファンレターを書くのは初心者のわたしにはリスキーすぎるので、この時間の確保は至極真っ当なリスクヘッジである。これについてはファンレターを書くための一つの段階であるから「ファンレターを書く」作業として考えてもいいのかもしれない。括弧内の文章が長くなりすぎて何のために括弧をつけたのか忘れました)

上記太字にした部分「今日発売の雑誌を買って」という活動が、本日予定していたファンレター作成を大幅に遅延させた原因と推測している。推測というかほぼ確。皮肉にも今日仕事中に今期の目標を出すように言われ、業務全般のざっくりした目標を立てるところで「突発的に発生しうる業務を処理する時間を加味した上で作業スケジュールを立てる」的な内容をたらたらと書いて提出したばかりだったのを思い出した。突発的に発生するイベントから受ける衝撃に備え、対処する時間を予め加味した上でファンレターを書くスケジュールを立てる必要があるということを学んだ。

まああの、Myojo買うつもりがポポロ買っちゃって中身読んだら愛おしさ爆発しちゃって噛み締めるように何度も読んでしまうい15時すぎに上がったはずなのに気づいたら素のまんまの開始時刻(22時)になってしまっていただけなんですけどね。※Myojoも買え

これ今更バカ大声で話す話でもないけれどもポポロは出版社の件で色々と思うところがあったのであまり買わないようにしていた。

ただ、今月号のポポロに関してはポポロを買いたいというよりも佐久間大介さんと向井康二さんと、二人が愛してやまない三宅健さんとの対談、という字面を追うだけで笑顔が溢れてしまうような企画に心惹かれて手に取ってしまった。ちょろいオタクである。オタクなどちょろくてなんぼ。推しが幸せでいてくれればちょろくて結構。

うう、佐久間大介さんが、表紙でこの上なく幸せそうな表情でこちらを見ている(こちらは見ていない)。

内容は全国民買って読んでくださいの一言に尽きるのだが、序盤から佐久間大介さんがいかに三宅健さんのことを敬愛しているのかというその度合いが印字された活字からもビシバシ伝わってきて圧倒された。そして中盤あたりからは、どこまで「好き」という感情に対して真っ直ぐなんだこの人はと涙で目が潤んできてしまった。どこまで真っ直ぐなんだ、というよりかは、どこまでも真っ直ぐなのである。まだまだ短い人生ながら歪んだものをそれなりに見たり聞いたりしてきたアラサーOLは、同じくらいの年齢のアイドルが、苦しい思いをたくさんして(ゆとりアラサーOLの比でなく)酸いも甘いも知り尽くしているであろうアイドルが、それでもなおこれほどまでに純粋な心を持ち続けているという精神的な強さに涙が出てきてしまうのである。
しかも佐久間大介さんはおそらくそもそもはちゃめちゃタフな精神の持ち主ではない(と思う)。洗濯物の匂いに敏感な話だったり他の人の話に耳を傾けている時なんかの表情を見るに外界からの刺激や他人の痛みにすごく敏感な人なはずで、いわゆるどんな荒波も乗り越えていけるぜ的な「鋼のメンタル」タイプではないのだろうなと思う。ただ、それでも佐久間大介さんは「好き」を前にしたとき絶対的に、圧倒的に、強い。

もともと多幸感に弱いタイプのオタク(ひどいときショッピングモールで楽しそうに過ごしている家族連れを見るだけで泣いていた時期があった。幸せな人が全員幸せでい続けてほしい(?))なので、佐久間大介さんのオタクをはじめてからしょっちゅう泣いている。涙腺ガバガバオタクをやめたい。

企画の概要としては佐久間大介さんと向井康二さんが三宅健さんの好きなところを息つく暇もなく喋りまくっている対談なのだが、向井康二さんが緊張で口数が少なくなってしまっている(らしい)のに対して、佐久間大介さんは止まらない。まじであの手この手といろんな言葉を使って三宅健さんの好きなところを表現しまくっている。

全てここからはオタクの邪推です。(というかここまでも邪推、全てはオタクの妄言)

もうこれ百億回くらいTwitterで言ってるし思っているけれども、佐久間大介さんは本当に、自分の好きなもの/人への愛を言語化する能力が高い。異常に高い。声がでかいので(最高)ぱっと見その勢いに目がいってしまうのだが、佐久間大介さんは好きなものをすごくよく観察しているし、好きなものや人の魅力をどう伝えたらいいのかめちゃくちゃ考えている(と思う。自然とできている可能性もある。それはそれで天才)
オタクは推しの魅力を語る時、どうしても便利な「尊い」とか「無理」とかを使ってしまうが、佐久間大介さんの場合、そのものが何故尊いのか、どういうところが無理なのか、という点を細かく因数分解した上でアウトプットしてくる。だからあれだけの言葉数が必要になってくる。対談を読んでいて活字を見ているのにスピード感まで伝わってくるようで「いや、佐久間大介さんめちゃくちゃ早口でしゃべるじゃん」と思ってしまった。「全部が好き」を表現したいときに「全部」が具体的にリストアップできているから、佐久間大介さんが好きを語るときはいつもに増して説得力に満ち溢れているし、聞いているとそのものを知らなくても(今回の場合三宅健さんのことはもちろん知っているけれども)興味が出て来るのである。

自分のように能力の低いオタクの場合、推しの尊さを語る場合だいたい同じことをエンドレスリピートしてしまうわけだが、佐久間大介さんはエンドレスリピートはおろか言い換えという手法も使わずひたすら違う角度からいろんな話をしてくる。人間というものは(すぐ主語がでかくなるオタク)多面性に弱い生き物なので、「え!そんな素敵な部分もあるの?!」という面はたくさんあるに越したことはないし、あればあるほど魅力的に見えてくるものだから、佐久間大介さんが三宅健さんの魅力を語るその姿はまさしく三宅健さんを愛し三宅健さんの魅力を伝える姿として非の打ち所がないな・・・という気持ちになってしまった。

そして何より、佐久間大介さん本人が好きを語ることを心から楽しんでいるのが伝わってくる。他人に理解してもらうもらわない以前に、好きなもの/人の魅力を言語化する行為そのものが好きなんだろうと思う(推察です)。アニメの話をするときも三宅健さんの話をするときも聞いている側が押し付けられている感じを全く受けないのは、佐久間大介さんが「知って!」という圧を持っているのではなくてただひたすら嫁やアニメや三宅健さんのことが大好きで、その好きの気持ちを言語化することだけに集中しているからなのではないかな、と思う。

能力値の低いオタクの表現できる範囲(限界)でまとめると、好きなアニメや推しについて語っている佐久間大介さんは本当にキラキラしている。輝いている。真っ直ぐで、眩しい。本当に幸せなんだなこの人、と思える。もっと見ていたいな、と思う。安堵する。泣く。泣く。


なぜ泣いているのか、と言われればもちろんその多幸感に涙腺がやられているというのもあるのだが、佐久間大介さんがその言語能力の高さを発揮しているときとは「好き」の対象について語っているときであって、それはつまり概ね自分以外についての話をしているときなのだ。

なんで泣いてるって、これだけ「好き」の言語化が上手なのに、自分自身のことになると途端に使う言葉の種類が少なくなるところに泣いているのだ。

佐久間大介さん、自分の内面の言語化になると、途端に口数が減る。

正確には、しゃべってはいるのだが、語彙がかなり限定的になる印象がある。パフォーマンスについてのインタビューやコメントなどを見て「すげえ」とか「いい感じ」という言葉を使うことが多いなと気づいたとき、感情を言語でアウトプットするのが苦手なのかな、という推察に至った。
いやいやいやいやいやいや。なんでよ、なんで自分のことになるとそんな急に言語化できなくなっちゃうのよ。いやそんなの泣くだろ。もうやめてよ。うそだってばやめないでよ。

よく岩本照さんが「佐久間は気持ちで生きてる」という表現をするけれど、つまりはそういうことなのだと思う。つまりはいわさくということです。(つまりは?)(いや「つまりは」であってるな)
自分の感情をアウトプットするにあたり、言語化こそ不得手だけれど、だからこそ歌やダンスという手段で、佐久間大介さんは自分の内面を表現する道を選んでくれたのではないか、などと、そんなことを考えてしまったのである。泣くだろそんなもんは。泣くんだよそんなものは。(言語能力がないので力技で同じことを二回言いました)

佐久間大介さんのダンスにはもしかすると(本当のところはご本人しかわからないのでもしかすると、までが限界だが)、その楽曲の世界観を表現するためのものだけにはとどまらなくて、佐久間大介さん自身がこれまで感じてきた苦しい思いだとか辛い気持ちだとか喜びだとか幸せだとかそういうものを含んだ、アイドル音楽としてのメッセージ性を遥かに超える何かが詰まっている(ように一介のオタクは感じる)。だから佐久間大介さんのダンスには、単純にスキルが高いとかそれだけじゃない、どこかぐっと臓器を掴まれるような魅力があるように思う。
どんくさオタクなのでダンスに関する教養はないのだけれど、2019年の滝沢歌舞伎ZEROの演目の一つであるMaybeを見て、ダンスパフォーマンスを見て泣く、という初めての経験をした。ダンスを見ているというより、お芝居を見ているというか、感情のうねりをそのまま見せつけられているような、そんな気持ちになったからだ。
ただ、あの楽曲が表現しているような感情を佐久間大介さんが自分の言葉で言語化してくれるかといえば、(これも推察の範囲をもちろんでないけれども)きっと言語としてアウトプットはしてくれないと思う。そっと自分の中に押し留めておいてしまうような気がする。

泣かないで、泣かないでくれ佐久間大介さん。(勝手に泣いている想定で話を進めるオタク)

そう考えるとますます、佐久間大介さんが表現者としての道を選んでくれてよかったと思う。奇跡みてえなことだな。令和に生きていて奇跡を目撃できて本当に良かったです。(?)


と、ここまで約5000字近く佐久間大介さんについて書いてきたわけですけど、ここまで読んでいただけたらわかると思うんですが(読まん)、何を便箋に書くか問題、はっきりしましたわ。

佐久間大介さんの魅力を佐久間大介さんに代わって言語化して佐久間大介さんにお伝えしてその存在に謝辞述べることだわ。

って、おまそれファンレターの定義やないかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!(ズッコケ)


(もしこの5000字読んでしまった方がいたら、本当にすみません。)
(怒らないでください。人生、あまり怒られたくありません。)

お付き合いいただきありがとうございました。

金土日でもう一回まとめのnote書いてファンレター出すぞ。

佐久間大介さんが今日も大好きな人と美味しいご飯を食べてゆっくりお風呂に浸かって暖かくて柔らかいお布団でゆっくりと眠れますよう。


おしまい

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