フィクションという「呪い」/『オオカミくんには騙されない♥』シリーズを一気に観た感想文

 『オオカミくんには騙されない♥』は、ネットテレビ局AbemaTVで2017年から配信されている「恋愛リアリティーショー」(恋リア)番組で、現在放映されている『白雪とオオカミくんには騙されない♥』を含め5シーズンが制作されている。モデル・俳優・歌手・スポーツなど各分野で活躍する女子高生4-5人と16-21歳の男子が1シーズンの間、様々なシチュエーションを共にすることで恋愛感情を育んでゆく内容で、同局の「恋リア」の中でもトップの人気を誇る。地上波でCMが流れるくらいに同局が力を入れている番組でもある。
 「恋リア」としてはもちろん『あいのり』『テラスハウス』『バチェラー・ジャパン』などこれまでにも多数の話題作はあったのだけど、わたしはほとんど触れてこなかったジャンルだったりする。ただアイドルファンとして48、46グループのバラエティ番組や、最近では『青春高校3年C組』などを視聴していて、そこで頻繁にCMが流れていて気になったのが『オオカミくん』だった。1月から開始した『白雪と~』の初回を観てみたところ完全にハマり、2週間ほどで過去シリーズ全話を完走してしまうことになった。
 もう一つ惹かれた理由としてはもちろん、『オオカミくん』の特徴的なシステムだろう。男女4-5名ずつが時間を共にし、最後に女子が意中の相手に告白する。ただし、男子の中には「オオカミくん」と呼ばれる、「絶対に恋しない」メンバーが存在し、彼に告白した女子は思いが成就することはない……。わたしだって「アイドルと少女まんがが好き」とプロフィールに書くくらいなので、「恋愛禁止」という言葉についてはずっと考えているし、座右には常に吉野朔実『恋愛的瞬間』を置いている。心が動いたらもう恋じゃないの? 感情にメーターでも付けておいて振れたら強制停止させるの? くらいのツッコミはせざるを得ない。その時点ですでにこの作品に取り込まれてしまっているのは間違いない。
 前述の通り「恋リア」を通して観ることが初めてなので、あくまで個人的な感想になってしまうのだけれど、自分がどういう所に魅力や驚きを感じたのか、最初のメモとしてざっくりと書いておこうかなーと思う。自分が長い間関心領域にしているアイドルや演劇、これから知りたいと思っているVTuberなどの分野についても、いずれ繋がってゆくかもしれない。

※なるべくストーリーの核心には触れないように書いていますが、それでも細かい部分でネタバレはしているので、気になる方はご注意ください。

ラブストーリーの到達点としての『オオカミくん』


 「オオカミくん」という特徴的なシステムにまず目が行っていたわたしが、1シーズンを通して観て感じたのは、とにかくラブストーリーとしての設計が丁寧であるということだ。おそらくそれは他のシリーズも含めたこの分野が積み重ねてきたことであろうし、『オオカミくん』の中でも毎シーズンごとにバージョンアップしている。
 話はそれるけれど、少女漫画が好きな自分にとってあまり好きではないやり取りとして、「少女漫画って恋愛ごとばかりでしょ」「いや少女漫画にもSFやファンタジーや社会問題をテーマに据えたさまざまな作品があって……」というやつがある。その応答は正しいのだけど、わたし自身はその「SFやファンタジーや社会問題」というフォローにも拾われなかった、ありきたりでありふれた恋愛ものの一つひとつに宿る、奇妙にロジカルで特異にリリカルな構成の面白さをこそ拾っていきたいな、とずっと思っているので。
 たとえば、『オオカミくん』の冬編として制作された第3シーズン『真冬のオオカミくんには騙されない♥』と第5シーズン『白雪と~』には、メンバーのグループデートとして「スケート」と「スノーボード」が出てくる。「恋リア」というシステムにおいて、ではスケートとスノーボードの違いは何なのだろうか?
 「恋リア」に共通する主題として、おそらく「運命に惑わされず意思を通す」というのがあるのではと思う。「運命」とはそのままそれぞれの「恋リア」のシステムによって従わされる制限だ。たとえばくじ引きによってメンバー分けや選択の順番が決まったり、コミュニケーションに時間や回数の制限があったり、そもそもメンバーが固定されていたり、様々なランダム性と制限によって場を攪乱すること。
 『白雪と~』ではメンバー全員がスケート場にまず入るのだけれど、やがて2~3のグループに分かれてしまう。その場にいるスケート経験者と未経験者およびその割合によって、それぞれの意図と違う分断が起こってしまうのだ。未経験者と未経験者では組になることもできないし、経験者同士が連れ立って行くにはスケート場は狭くかつ均質だ。くじ引きですらない自然なランダム性がまた面白い。
 『真冬の~』におけるスキー場でもはじめはこの分断は起こり、まずは未経験者を助けるように他の経験者は動くのだけれど、スキー場には上級者コースという非均質性があるため、やがて経験者同士の別のペアも発生する。では未経験者は、と思ったところでやおら一人が「ソリ」を取り出す。
 「ソリかよ!」とわたしは「ユリイカ!」みたいに叫ぶ。いやそうなんだよ、幾千の少女漫画スキー場描写を総合したらここでソリが出てくるのは常道も常道なんだよ、でもこれだけ対照性をきっちりと明らかにしながら正解を叩き出してくるとは……。もうこのあたりで雪崩のようにハマりこんでいくことが確定してしまった。あとは決め打ちのように出てくる台詞やシチュエーションやどんでん返しにギャーギャー叫ぶだけだ。
 実際の所、「恋リア」特に『オオカミくん』を将棋やテレビゲームの熱戦のように観ている層は一定数いると思う。その層へ向けて緊迫やクレバーさの純度を上げるため、『オオカミくん』の設計は改善され、さらにはルールブレイクが多々発生することで、意思と運命の攻防をより白熱させて描く。「恋愛ごとばかり」だけでこの面白さを作り出すのは、ラブストーリーの可能性・手筋の多彩さを低く見積もらず専念する誠実さに裏打ちされている。それは「恋愛ごとばかり」だけですらも何十年も戦ってきた少女漫画にも通ずるものがある。

フィクションの「混入」としての『オオカミくん』


 ところでそもそも「恋愛リアリティーショー」とは何なのだろうか? とはいっても前述のように初心者であるわたしはちょっと決まった定義をするのには躊躇するし、周りに聞いたとしても「本来プライベートの領域にあるものをドラマの俎上に載せて消費する悪趣味」から「全部台本があるのにリアルというラベルを付けて価値を高めているだけ」までかなり高低差のある解釈があるだろう。なんか全部悪意ある感じがするけどたぶんわたしの周りはそんななので……。
 とりあえず「リアル」というものがあるとして、それから「フィクション」がある。そして「ドキュメンタリー」があって、「セミドキュメント」「フェイクドキュメンタリー」そして「リアリティーショー」……と並べて並び替えるのもあるかもしれない。ところで『オオカミくん』には特徴的なシステムがある。「真実の恋をしたい」メンバーたちがリアルの、あるいはリアリティである恋愛をする、そこに絶対に恋をしない「オオカミくん」が、いわばフィクションが混入している。芝居にせよドキュメンタリーにせよあるいはリアリティーショー云々にせよ、登場人物はすべて通常は同じレベルのリアル/フィクション性に留まっている。けれど『オオカミくん』においては一人(正確には一人以上)だけ、違う階層の存在が紛れ込む。この混在はあまり見られない形式のように思う。
 それを自分が強く意識したのはシーズン3『真冬の~』における「りんね」の存在だ。『オオカミくん』は、あるいは『テラスハウス』等においても、モデルや俳優等がメンバーとなり、彼ら彼女らは別の番組や雑誌等でもそのままの名で登場するので、本来地続きのものとして意識される。けれどたぶん「リアリティーショー」という枠が付いてその舞台に乗った際に、やはりある種の薄い膜というか、いったん別の「その世界」という感じを持つことになるだろう。わたしもそのはずだった。けれど『真冬の~』においては、りんねは渋谷WWWでのワンマンライブに向けて準備をし、そして当日のライブに『真冬の~』メンバー数人が訪れたことが本編で映される。
 アイドルファンなのでりんね=吉田凜音さんの名は親しみ深く、WWWだって何度も通った箱だ。だからその瞬間「薄い膜」は消えてしまった。オオカミくんが含まれているかもしれないメンバーたちが「こちら」に来ている、リアリティーショーどころかドキュメンタリーすら超えて、わたしの「現実」に直接オオカミくんが混入している! 震える。薄い膜の向こうなら、舞台の上なら誰の真実が裏切られてもいっそ構わないかもしれない。けれどもうオオカミくんはこちら側にいて、私ももう騙されて何らかの選択を誤っているかもしれない。
 シーズン3から新たなシステム「オオカミくん投票」が導入された。視聴者が男子の中でいちばん「オオカミくん」と思われる人を投票し、1位になった者は放送途中でメンバーを外れ退場する。この時点で『オオカミくん』はある種の「世界を守る戦い」になった。女子達の「真実の恋」を阻む者をわたしたちが見極め排除し、ひいてはわたしたちの「現実」への混入、わたしたちの意思への介入を防ぐ。さすがにここまで書くと極端かなと思い直すけれど、「真実」という意思がこれだけの切実さをもって「フィクション」を追い出すことが、リアリティーショーたる意味なのかもしれない。

(まあこれも全部嘘だと、少なくともシーズン3を最後まで観れば分かるので、とりあえずまずシーズン3『真冬のオオカミくんには騙されない』を観てください。Abemaプライアムは2週間まで無料だし、1.3倍速でみればダレずに観られるので……)

オオカミくんという「呪い」


 さて、でも「オオカミくん」は「裏切り者」なのだろうか? シーズン3を最初に通して観て、その後シーズン1(無印『オオカミくんには騙されない♥』)シーズン2(『真夏のオオカミくんには騙されない♥』)シーズン4(『太陽とオオカミくんには騙されない♥』)の順に観たのだけれど、どうもそうではないのではないかとわたしは思い始めた。
 「オオカミくん」は最後正体を告げ告白を断る時、ほぼ必ず決まったことを告げる。絶対に恋をしないというルールだった(ので恋はできない)けれど、相手の姿勢や生き方は尊敬していること。また「オオカミを演じることに悩んだ結果、素直なままの気持ちで行動した」と語る者も多い。もし裏切り者なら、相手が誤ってオオカミくんに好意をぶつけていることを冷淡に分析しあげく嘲笑したり、場を攪乱させ思ってもいない言動を重ねることで多くの好意が向けられる状態を目指したっていい。けれど意外にも「オオカミくん」はプレイヤーとして、あるいは一段上の視点を持つ者として振舞わない(という風にとりあえずは語っている)。
 シーズン4『太陽と~』から新たなルールが加わった。メンバー全員の協力で期限内に巨大アートを完成させるというミッションが与えられ、成功しない場合は全員が告白する権利を失う。もしオオカミくんが「裏切り者」ならこのミッションを遅延させる策だってあるのに、そういう描写は決してされない。
 「オオカミくん」は個人ではなくて、それを課された者の器官の一部に取り憑いた、「呪い」のようなものなのではないか? だから「オオカミくん」である人は、「絶対に恋しない」ことを除けば、他のメンバーを尊敬し同じ立場に立ち協力するという行動は損なわれない。個人が裏切っているのではなく、ただその呪われた器官だけが『オオカミくん』全体および視聴者にとっての人質のように「オオカミくん」を奪って、裏切りを発生させている。
 シーズン3以降、「オオカミくん投票」は大きな分岐点となる。前段で書いたことの否定となるけれど、メンバーもコメンテーターも視聴者も、それによって大きなカタルシスを得るというよりは、ただ悲しみだけがわだかまる。もちろん「本当にオオカミくんだったのか?」という疑念もあるけれど、ただそれまで同志だったメンバーが失われることが本当にきつい。シーズン5『白雪と~』では新たに「落ちないで投票」が導入された。「オオカミくん投票」とは別に「落ちてほしくないメンバー」を一人選び、その得票数が「オオカミくん投票」の得票数を上回る場合、たとえ「オオカミくん投票」1位だったとしてもそのメンバーは落とされない。誰も落とされないまま番組は進む。
 もし『オオカミくん』が「フィクション」を排除し、真実の意思・真実の世界を守る戦いなのだとすれば。もしオオカミくんが「裏切り者」そのものでなく、ただその一部の器官に「呪い」が取り憑いているだけなのだとすれば。わたしはこのルールはいずれ変わると思う。「落ちないで投票」(あるいは、「オオカミくんじゃないと信じてる投票」)1位のメンバーがもしオオカミくんだった場合、そのメンバーに憑いたオオカミくんという「呪い」はその時点で祓われる。
 ラストで告白した女子に彼は言う。「僕はオオカミ「でした」。けれどあなたが僕を信じ続けたことで、そして視聴者みんなが僕を信じてくれていたことで、僕はオオカミではなくなりました。恋を絶対に禁止されていた僕は、あなたと視聴者のおかげで、恋をすることができるようになりました。僕はあなたに恋をします。
 ギャーーーーーーーーー!!!!!! 死ぬ!!!!!!!!!! 終わり。

 かくてフィクションという「呪い」は祓われ、ほんとうのこととほんとうの気持ちだけが支配する世界となる。それがほんとうに良い道なのかについては、今後の議論に委ねることにしよう。わたしはもはや「れいぽよだけが真実……」と言うだけになっていますが……。


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