感想メモ

・ライブや舞台の現場において、観客が全く同じ景色を同じ日同じアングルから観るということは原理的にあり得ない(「現場」と2020年に語を加えたことを憶えておかないといけない)。またかつてのマスメディアにしか露出しなかった時代とは違って、SNSの各種チャンネル、24時間に24時間分以上のコンテンツが生成されてしまう動画配信群、さらにモバメやトークアプリといった有料コンテンツ、そして何より握手会というシステム(これはライブ/舞台に分類されるかもだけど)を考えるに、一人の人間がアイドルの全ての「コンテンツ」を摂取するのはほぼ不可能だ。この二つの不可能性に、特にAKB以降の多人数グループについてはその人数分が乗じられる。なので、あるアイドルグループに対して、全く同じ情報をふたり以上の人間がインプットしている(と信じる)ことは難しい。
 けれどこれらがドキュメンタリー/リアリティ番組という名で数時間の映像に編集されてしまうと、その映像は誰が視聴しても同じ「コンテンツ」と信じられる(信じてもおかしくないものである)。そして奇妙なことに、「リアリティ」と名付けられることで、この同一性の強いコンテンツが前段の個人に紐づいた「体験」よりも「リアル」であるかのように位置付けられる。
 それはそれとして、もし悪意ある者が直接的な方法でなく、リフレクタのような形をとって特定の対象に攻撃を集中させようとする場合、前段のような個人ごとで情報や印象が必ず少しずつずれている/不一致である(ことを了解している)状態より、後者の単一なドキュメント/リアリティを踏み台にした方が効果的でありやすい。それぞれが別の情報の断片しか持ちえないなら、ある偏った噂や意見を広めたとしてもその反応は一極に集まりにくかったはずだ(ここには「大衆感情の凡庸さ」みたいなものも加算されると思う)。炎上はあるレベルから、個々の批判の鋭利さよりも、単純にDDoS攻撃的な物量が意味を持ってしまう、という最近よく証言される話も、この点を補強してしまう。
 というのをまだ考えている所。

・AKBシステムへの批判としてたびたび挙げられるものに「握手会」と「選抜システム」があって、その批判はもちろん理にかなっているのだけれど、2018年以降のある別のグループのファンの言動を見ていて、握手会が過剰な神格化やそれが裏切られた時の反発の発生をある程度抑えているのではないか(必要悪のような形だとしても)、とも考えていた(その後もずっと考えている)。映画はこのあたりの話は出てこないけど。
 映画を観た感想として、選抜システムというのは「必ずしも成長のスピードは同じでなくてもいい」という理念も含まれているのではということも考えた。「みんなで」は、しかしあまりに彼我の差さらには成長速度の差が大きい場合には苦痛となるし、「代えの効かない」は(センターでなくても)人数が多くなるほど全体の可用性を下げる(あるいは負担となる)。その場合に(非)選抜は踊り場のようにもなりうる。単純な話ではないなとたびたび思う。

・単純な(あんまりリスペクトのない)感想としては、なんかこれというぴったりの作品名が決められないのだけど、めちゃ強い地球外生命体の襲撃に一度遭って、人類がそれに対抗するために相当努力して研鑽を積む日々がそののち描かれ、しかしその一方で地球外生命体はひとり精神と時の部屋みたいな所で力を貯め、また相まみえる時に圧倒してしまう……みたいな話に見えた。「アイドルである前に人間なんです……」と観ているあいだ思ってしまった。

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