『チョンキンマンションのボスは知っている』を読んだメモ

 小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』読みました。例の通りメモなので本の感想とはかけ離れてますが……。


 去年のコミティアの打ち上げで、また恋愛リアリティ番組について議論をしていたら、同卓の友人(興味ない話に付き合わせてしまい申し訳なかった)におすすめされた本。しばらく積んであったのをやっと読んだのだけれど、友人が薦めてくれた理由はたぶんp153のこのあたりだろう。

 色恋沙汰を含めて香港での人間関係の諸々を日々Instagram等で発信しているので、TRUSTに参加している人びとはリアリティ番組を視聴するように特定のブローカーのファンになったり、アンチを形成したりしている。

 「チョンキンマンションのボス」を自称する男を中心に、香港でブローカーやディーラーを営むタンザニア人のグループを調査すると、Instagramなど既存のSNSを基盤とした「TRUST」と呼べるシステムがあるらしいことが分かる。商人への信頼は、ある意味「インスタ映え」化されたライフログによって裏付けられる……といった話を、我々が「恋リアは出演者が恋愛体験の肉付けによりタレントとしてのリアリティを獲得するシステム」みたいな議論をしていた所に差し出してくれたのだと思う。ビジネスにおいてだけではない信用/信頼という話は、特にp82の以下のくだりが興味深かった。

 彼らは常々「誰も信用しない」と断言している。それは「素性」「裏稼業」を知らないからというより、誰しも置かれた状況に応じて良い方向にも悪い方向にも豹変する可能性があるという理解に基づいているように思われる。カラマたちは、「彼はいま羽振りが良いから、おカネを貸しても大丈夫だ」「彼はこの間、輸入した天然石の品質が悪く大損したから、少し気をつけたほうがいい」「彼の恋人も一緒なら、彼は良い奴だから遊びにいきな」と「いま」の状況に限定した形でしか他者を評価しない。一見すると冷たいようにもみえるが、ある種の寛容とも表裏一体である。つまり「ペルソナ」とその裏側に「素顔」があって、「素顔」が分からないから信頼できないのではなく、責任を帰す一貫した不変の自己などないと認識しているようにみえるのだ。

 そうとう話が飛んでいるように見えるけど、自分が前に名香智子『PARTNER』を引きながら「魔性の女は存在しない」という話を書いたことがあったのをちょうどこのくだりで思い出した。リンクしたくないので一部だけ引用しますが……。

 恋愛的な性格は必ずしもキャラクターに貼りついている物ではなくて、ある関係や、状況や会話の流れや、ある瞬間によってそれは変貌する。魔性の女がいるのではなくて、魔性となるのが当然である関係や環境や瞬間がある。

 『PARTNER』における恋愛の描かれ方については藤本由香里をはじめ、少女漫画研究者がより精緻な論考を書いているのでそちらを参照するのが良いと思う。藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』p86から引用すると、

 巡り合わせが違えば、違う結果になっていたかもしれない。いや、一緒になったあとでさえ、どちらかがその相手方と出会えば、わからない。どの関係も潜在的に等価である。ただ、いま契約を結んでいる、眼の前にある相手だけが、その間だけ、特権的である。どの人が究極の相手であるかという問いはもはやそこには存在しない。


 信頼や愛、関係や善悪といったものは、その「人」に永続的に貼りついているものではないんじゃないか。恋リア作品は、表向きは「真実の愛」「運命の恋」といったフレーズで広告を打っていながらも、実際のアーキテクチャやアングルはむしろこういった感覚に近いように思える。(一方で以前書いたように、過学習的な倫理が発生しているという問題もあるのだけど)

 「悪役」「裏側」「虚飾」「本性」といった、いっけん説明として使いやすい単語をなるべく遠ざけるには(それはフィクションではない「リアリティ」を冠するものを受け取るにあたって、より必要となってきている態度だと思う)、ということをずっと考えている時に、本書における「信頼」のロジックを解明する描写はひじょうに参考になった。リアリティ番組やアイドル文化等に興味を持っている人にも読んでほしい本だと思いました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?