『PARTNER』についてメモ1

 名香智子『PARTNER』をまた読み返していたのですが、文庫版6巻p115-116のくだりが今回は気になった。茉莉花とフランツが同居生活を始める準備のための買い物に、神(神砌)が手伝いで同行する。ショーケースにある服を彼女のために買ってあげるとフランツは言う。「いいえ 赤じゃなくて 茶がいいですよ」。神は(赤のほうがかわいいのに)と思い、茉莉花も以下のようにモノローグを続ける。

いつの間にか 服も 神さん好みに なっていたのが
こんどは フランツの趣味に 変わるのね

けれど神は、着替えた彼女を前に思う。

赤のほうが かわいいけど
茶も 悪くない


 自分の服装等のテイストに対して、恋人の趣味/影響ではないか、と揶揄されることがある。これは自分が自分のために選んだもので、恋人であってもその影響などといった話は関係がない、というのが正当な返答のひとつだ。そして、影響であるとして何が問題なのか、というのもまた正当な返答のひとつである。
 真球のように想定された「個」に対して、さまざまな出会いが平面の切り口となり、多面体的な存在が形作られてゆく。「影響」というこの当然に対する幼稚な揶揄は、「相手の好ましい特性は一つたりとも、自分以外の人間によって既に見出されていてほしくない」と同等だろう。ただこの「影響」から、『PARTNER』の引用したモノローグはさらに数ステップの段階を経ているように思われる。腑分けするなら、

1)相手の好ましい特性が、誰かとの出会いによって既に当然に見出されている。
2)自分と相手の出会いによって見出し/見出された好ましい特性があるのだから、自分以外と相手の出会いによって見出し/見出された好ましい特性もまた別に存在し、そのこと自体を尊重すべきだ。

から(上記は当然としたうえで)、

3)自分以外と相手の出会いによって見出し/見出された好ましい特性であっても、それ自体が特性として好ましくありうる。

つまりは、「恋愛が独占/排他的であるようには、『影響』は必ずしも独占/排他的ではない」。なぜかというなら、切り出された面/特性はその時点で当人にのみ属するものだからだ。そしてもちろん、「多面体的な存在」である/となったことだけがただ一つ大切だからだ。


 茉莉花の母親の高子さんについて、8巻収録の短編「鳳仙花」でその過去が語られる。それを読んで確か自分は「高子さんがショートカットなのは過去の恋愛関係を尊重しているから」みたいなことを書いたと思う(リンクは貼りたくない…)。
 「茶も悪くない」の(今さらに気付いた)ロジックは、この言説を半分正す。特性があくまで当人だけに属する多面体の一面である以上、そもそもそれは排他的ではないんじゃないか。ラブストーリーが結婚やハッピーエンドを結末としやすいのは、過去への尊重がありつつもあくまでも(「昔の恋」のような覗かせを含めた)上塗り的な独占/排他と相性が良いからだと思うけれど、過程で見出し/見出された特性はそれこそ「関係がない」と返答し続けるのが、高子さんのショートカットだったのではないか。


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