恋リア研究メモ6

 『儀礼としての相互行為』の第六章「アクションのあるところ」では、ギャンブルやカーレース、あるいはバーでの誘いといった投機的な場においてのふるまいについて書いている。そういった場においての「アクション」で、自己呈示として例えば勇気・不屈・誠実・冷静といった「性格」が表される、という話だと読んだ。

 性格はギャンブルの対象みたいなところがある。すなわち、たったいちど良いところを見せると、それがすべてをあらわすと受け止められ、いちど悪いところを見せると、それを簡単には言い訳できないし埋め合せすることもできない、というわけである。弱い性格あるいは強い性格を示したり表現することは性格をつくり出すことにあたる。つまり、自己は自分がつくり直されることを自分から求めることがありうるのだ。(中略)たしかにアクションをするから損失は生じる。しかし、アクションをすることで、性格は真に得るものがある。(p243)
 一方では、性格は個人にかんする本質的で不変的なもの――個人についての特徴的なもの――を指している。他方で、運命的な時間のあいだに生まれてなくなってゆくいろいろな属性を性格は指している。後者のとらえ方では、個人はその後自分のものになるであろういろいろな特性を結果として決定するようにアクションすると言えるだろう。つまり、その個人に帰せられるべきものを結果としてつくって自分のものにするように個人はアクションするのである。だから、運命的な時間のそのつど、その場にいる人たちはそれぞれに自分を有意義な存在にするための小さなチャンスをもっているわけである。(p243-244)


 恋愛リアリティショーというものがそもそも、「恋愛」それ自体とは違うドラマティックなチェックポイント(例えばオオカミくんシリーズなら、第一印象・中間告白・最後の告白など)を設定する形式となっていて、注力できるアクションの場が生まれる。「大一番」で示すことで、自己に付与しうる「性格」を最大限に回収できる、ということだ。それは恋リアが、出演者こそが「リアリティ」を獲得するシステムである(=「真に得る」)、という前述の話とも一致する。ましてカメラが回されているなら、それは「アクション」の掛け声で始まる。

 元アイドルが、テレビバラエティで性悪的な(たとえばアイドルファンを揶揄するなど)キャラを演じて、しばらくウケのいい役割とはなるけれど好感度は下がる。その後恋愛リアリティショーに出演して、不利でも諦めない姿勢や悩みを抱える面を見せることで好感を持たれる。恋リアの出演がそもそも「アクション」で、その中でも個々のシーンで投機することで「性格」を示す。けれどそもそも初めの「キャラを演じ」たことも投機であり、後から得たかのような不屈や誠実も、アイドルからのファンにとっては馴染みのものだった。
 あるいは、例えばリングでは勇敢なボクサーが、盗撮された私生活では放漫であったとき、あるいはドキュメンタリーで密着された日々ではストイックに研鑽を積んでいたボクサーが、リングに上がるとその力を出せず冷静さを失ったとき、われわれはどちらを「本質的」と捉えるのだろうか。おそらくそれはゴシップ的なほうに偏るのではないか。それぞれ「舞台裏で現れる面こそ本性である」「大一番で現れるものこそ本性である」といった一貫しないロジックをその時々で使用して。

「ネットでは酷いことを言っているが会うといい人、という場合、ネットこそが本性」という話を吉田豪氏が書いていたけど、『儀礼としての相互行為』が書かれた1967年と今では、「性格」を提示するための場が大きく違うというのもある。飛び飛びに訪れる社交の機会においてのみ「アクション」の場を意識すれば良かった時代と違って、SNSはベタ打ち的だ。
 とはいえそれでもやはり、恋リアやリングといった「運命的な時間」は現れるし、あるいは自主的に選びうる。「本質的で不変的なもの」と「アクションの結果獲得したもの」の差が自明である、もしくは優劣や表裏が付けられる、という見方にはまだ留保したい疑問がある。敬意としての慎重さが、「アクション」につねに曝される者への視線には必要に思える。


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